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アイデンティティーの旅路

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ペンネームで書いている移民ルーツに関する体験記エッセイです。
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#4 水餃子

#4 水餃子

どうやら、私がまわりの人と違うことを意識し始めたのは四歳のころらしい。らしいというのは、自分では覚えていないからだ。

大人になって母親が、

「あなたは保育所に通っていたとき、送り迎えをしてくれていたおばちゃんに『中国語を話さないで!』と怒ったのよ」

と教えてくれた。母の姉である叔母が送り迎えしてくれていた記憶もなければ、そんなことを言った記憶もなかった。

初めて聞いたときは、へーと流したけ

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#3 赤色と紺色のパスポート 2

#3 赤色と紺色のパスポート 2

大阪の公立高校が選んだ修学旅行の行き先は、オーストラリアの中でもサンゴ礁が有名なケアンズだった。実は三歳半で日本に来たことはまったく覚えておらず、小学三年生のときに家族で上海に行った記憶もずいぶんと薄れている。私にとって、これがほぼ初めての海外旅行といえる。

最初の関門は、関西国際空港での出国審査だった。私は窓口に着くまで絶対にパスポートを見られないように集中した。窓口ではうしろに並ぶ人たちから

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#2 赤色と紺色のパスポート 1

#2 赤色と紺色のパスポート 1

高校の修学旅行でオーストラリアに行った。数多くの楽しい思い出とともに、私の心にいまでも消えない深い痛みを残した旅行でもある。

修学旅行を数か月後に控えたある日、バドミントン部の友だちとお昼ごはんを食べていると、教室のドアから担任が顔を出した。白いポロシャツに半ズボン、日に焼けた肌でいかにも体育の教師らしい中筋先生は、申し訳なさそうな顔をして、ちょいちょいと私に手招きをした。

その表情を見て、な

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#1 「わたしは何者なのか?」を探す旅

#1 「わたしは何者なのか?」を探す旅

私は中国の内モンゴル自治区で生まれた。横に長いこの地域の中で私の故郷は東北三省の黒龍江省に近いところにあり、みな東北話(ドンベイフゥア)という方言を話す。私が三歳半のときに家族は日本への移住を決め、母方の親戚たちと一緒に大阪で育った。

日本人のおばあちゃんは満蒙開拓団として旧満州エリアの東北地方に移ったあと、日本が戦争に負けて孤児になった。おばあちゃんのような人は中国残留孤児といって、2023年

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