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極上のものは、一見普通に感じることがある

「おいしい」を超えて“極上”のお茶、お酒、スープなどは、意外に「一口目の瞬間からおいしいっ!と感じないことがある」。。。

そのようなものは一口目では心地よいながらも無味に近い感覚があり、香りや味は、自分の感受性よりも上層に存在する感じがあります。

(もちろん無味ではなく、無味のような感覚、です)

その後から味や香りが、厚みを持って「戻って来る」感覚があります。その後、じわっと味や香りが分かって来ます。

しかし、最初の一口の数秒、無味に近い感覚なのにそれが非常に高品質であることは分かるのです。

そして、二口目からは味、香りもスグに分かります。

それは、とても立体的で重層的で、新鮮でかつ老成したような味わいがあります。その他、いろいろな要素の両極端なものが、同時に存在する感じ。普通ではありえない時空。。。

なので、もう一度確認したい、もう一度確認したい、と繰り返したくなります。

飲み終わった後「ああ、もっと飲みたい」と思う余韻があります。

もちろん、おいしいからと言ってそういう極上品をたらふく飲むというのも野暮な話ですが。

極上の楽器の音も、そういう感じですね。

いわゆる芸術分野の極上品も、私にとっては極上のスープに似ています。

一緒にするな、という声も聞こえて来そうですが、しかし料理もいわゆる芸術分野の作品も人間のやることですから性質は同じだと思います。いわゆる芸術分野のみが特別に高尚なものとするのはあまりにも馬鹿げています。

その作品に対面して一目で涙が出そうになるようなものは実際はスグに飽きてしまうような、ただ刺激が強い、また「人のそういう面の感覚に刺激を与えるようにつくってあるもの」(娯楽的感動に刺激を与えるようになっている)が多いように思います。

(もちろん、一目で感動、その後それが一生続くものもありますが)

私の個人的感覚では、やはり芸術分野のものの真に優れたものは、一目では味わいが分からないものです。

極上の作品が持つ清浄な空気感は、何かが違うとは思わせるものの、しかし一見当たり前な、普通のものに見えます。

しかし、良く観てみると、それはありえないことが滞り無く起こっていることによって「普通に見えているだけ」であって「実際にはそれは到底起こりえないことの連続によって達成されている」ことに気づきます。

だからといってそれは押し付けがましくもなく、ただそこにあるだけです。それは殆ど自然の摂理と同じ整合性があります。

そのようなものには、自分の枠を広げる力があります。こちらが気づけないほど素早く内部を刷新し、古いものを流し去ってしまいます。

そこには、いわゆる自己表現はなく、何か大きな大河を感じます。しかし制作者の「個性」は確かにそこにあるのです。部分は全体を映し出し、全体は部分の血流となり生命感を与えます。

伝統や、その他のものが含まれた得体の知れない大河と、制作者の個性は同一なのに、その両方が矛盾なくそこにあります。

分離のないその世界に到達したものが恐らく真性のものなのでしょう。

そのようなものを制作する人がいたら、その人はきっと孤独でしょう。

なぜなら、その人は品種改良ではなく、全く新種の美しい花を咲かせたのに、それを見た人にとっては、その美しい花は咲くのが当たり前だとしか思われないからです。

その全く新種の花を見た人たちはその美しさを受け取っているのにもかかわらず。

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