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創作系で、ルールや定番が希薄になるほど文脈にうるさくなるのは、人間にはルールや定番が必要なためではないか?

・・・と、私は考えております。

人間は自由自由と実にウルサイですが、実はルールや定番が大好きで、自分が自由を求める分野以外で特に不便を感じない場合は、そのようなルールや定番に何の疑問も持たずに日常生活を過ごしております。

過不足無く機能しているルールや定番は、良く計画され施設されたインフラのようなものです。人々はそれをベースに、そこで不満を感じる事無く自由に振る舞っているのです。

それゆえ常に「ルール・定番」を観察し、機能不全を起こしている場合は改変する必要があります。そこに悪い意味の権威を持ち込み、一部の集団にのみ利益が流れるようになっていたり、不便があるのに改変しないでいると色々な物事が歪みます。悪い意味での利権が関わると、その改変が難しいのですが・・・それはルールや定番が持つ負の一面です。

しかしだからといって「ルール・定番」自体は、悪いものではありません。その「運用」方法が悪いと問題が起こる、という事ですね。

そもそも、人間はルールを決めてその範囲で活動しないと、迷子になってしまうものです。

それはいわゆる芸術分野でも同じです。芸術は、一般に信じられているほど万能でも高度でも自由なものでもありません。芸術分野の事も、人為と人工物の範疇の話だからです。

だから、いわゆる創作系においてルールや定番に重きを置かなくなると、また、そのような過去の価値観を破壊するのが流行となると、代わりに「文脈」が強化されてしまうのではないかと私は考えております。

現代美術などで良く言われる「文脈」は古典的なルールや定番とは違う事が多いですが、代わりに「文脈重視というルール・定番」があるわけですから、その「文脈」自体が今までの「ルール・定番」と挿げ代わったようなものです。

結局、本来必要な何かを無くしたり減らしたりした分、同じ性質を持つ別のものに置き換えたり、他から補填したりする必要があるわけです。

創作の自由を強く意識した作者から生まれた作品で、うまく行ったものには「ルールに囚われない表現!」や「新しい解釈!」などの痛快さ・斬新さなどがありますが、しかしそれは、人々にそのルールが周知されているからルール破りの痛快さや新しい解釈の価値が共有されるわけで・・・元に何もルールや共通認識が無ければ、何をやっても「ただの行為」になってしまいます。

例えば、将棋の勝負で「この場面でこの一手か!見事!」という斬新かつ決定的な手を打ったとしても、将棋のルールや定番を全く知らない人にとっては、ただ駒をひとつ動かしただけにしか観えません。

だから、繰り返しになりますが、芸術分野で旧来のルールや定番の力を弱めた場合は、その分「文脈」という言い回しの「新しいルール・定番」が必要になるわけです。

これは構造の話であって「文脈」の否定ではありません。新しい何かを説明する際に、その文脈を語る事は必要です。

ただ、ルールに縛られない自由な表現だー!新しい表現だー!とウルサイ作品が、作品自体よりも文脈の方が重要視されていて「文脈という言葉のプールに、どうとでも意味の取れるような作品がプカプカ浮いている」ような場合は萎えるなあ、と個人的には思いますけども・・・

むしろ、文脈偏重の作品の場合は文脈のプールに浮くような性質のものがふさわしいのかも知れません。

それは、一般的なルールや定番にただ忠実な作品、私はそれを「レ点方式の作品」と呼んでいるのですが、チェック項目をひとつひとつチェックして作り上げたようなもの・・・それは特に文句をつける所は無いけども面白くもない作品・・みたいなものと、性質は同じです。そのようなものは、見た目が重厚な作品であっても、内容は悪い意味で軽く薄いのです。

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西欧でも東洋でも日本でも、実に長いあいだ、美術・建築・音楽・工芸(その他いろいろな分野)は宗教と結びついたものでした。それはルールや定番だらけですが、その宗教的価値観の部分を守っていれば、むしろ表現の幅は今よりも大きかったのではないか?と、昔の作品を観ると思います。昔の創作物の宗教上の縛りよりも現代美術独自の「文脈というお作法」の方が縛りがキツイのでは無いかと感じるぐらいです。

何にしても、その宗教による「縛り」のある環境で生まれた創作品で、人類の至宝になっているものは世界中に星の数ほどあります。しかしそのような時代よりも創作品を自由につくり易い時代になると、それと並ぶ作品は、わずかしかありません・・・超えるものは無いように思います。

そういう事実から観ても「ルール」や「定番」というものを、何でも人間の進化を妨げるものとか、自由を阻害するものとして否定するのは間違いだと私は考えております。

かといって、昔の宗教メインのルールや定番を現代に復活させれば元に戻れるなんて事はありません。それは昔の社会環境において機能したものであって、現代では同じ方式では機能しないからです。現代の宗教的創作物を生み出したいなら、それは現代の宗教的観点からでなければなりません。

・・・人間が思考するために使う言語も「ルール・定番」があって、それを守っているから「相互理解」が可能で、その相互理解のなかで新しい価値観を産み出し共有する事が出来るわけです。人間は社会的動物ですから「共有」が必要なのです。

そもそも、人間は、人造物やルールや定番に囲まれていないと身体も精神も安全に安心に生活出来ません。

それは根本的な部分の人間の自由を阻害しませんし、むしろその環境が無いと共同体での共通認識も持てず、生命や精神が危険極まりない状態に陥るわけです。人間は、そういう「安全で安心な環境」を得て初めて「精神的な自由」を認識し、その部分を進化させられるわけです。

何にしても

【ルールや定番は、利権と悪く結びつくと腐敗し害になるが、そうでない場合は利益の方が大きい】

と言えると思います。

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【何かしらの作品は、制作しただけでは成り立たず、それを受け取る側の価値観の創作が無いと成立しない。制作側、受け取る側両方の創作が必要になる】

これは把握しておくべき重要な事実です。

その両者はお互いに影響を与え合います。そういう面でも、片方では成立しえないのです。

ようするに

【何かしらの「人造物」の価値を共有するためには「ルール・定番」が必要】

という事です。

繰り返しになりますが、強調したいのは

【それは作品云々を超えて、人為・人造物に通底する性質という事】

です。

芸術作品も人造物に過ぎません。芸術行為は特別なものではなく、人為の範囲に過ぎないのです。芸術作品・芸術行為を特別な物として把握すると芸術の良さや本質が分からなくなります。

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人間が共通認識を得るために必要な「定番」は長い時間をかけて人々が作り上げたり、天才が表れてそれを社会の定番にしたり、いろいろですが、何にしても

【定番に沿って行動すると、人間のレベルの底が上がる】

【高度な定番によって、人間の創作にバリエーションが生まれ、創作性が増幅される】(定番は一つではなく、多数あります)

【定番があるから、他者と共有出来る】

・・・そのような決定的かつ大きな効果があります。

その定番による効果は、音楽で言えば「演奏する側、聴く側の両方」が、その恩恵を賜ります。

例えば、音楽分野で、古くから演奏される名曲は、その演者を縛るのではなく、その曲を演奏をする事によって、その演者の個性も開かれるわけです。「名曲という定番」の美しさから、演者の創作性が刺激され、新しい解釈も産まれます。もしそこで限定を感じる場合は「曲が演者を縛っているのではなく、曲への解釈や評価基準が固定し過ぎて自由が無い場合」です。曲が悪いのではなく、曲の「運用」が悪いわけです。

事実として、演者はいろいろな曲を演奏をした時の方が、その演者の個性がより開かれ、際立ちます。完全に自由な状態よりも「曲という縛り」があった方が表現の幅も深さもバリエーションも豊かになります。

例えば、かなり優秀なミュージシャンであっても、誰もそのミュージシャンの事を知らない場で、リズムもコードもメロディも全て即興で自由にやれと言われて演奏したとしたら、しばらくはその人自身が持つ技術や感性で展開出来ますが、一定以上の時間を過ぎれば、聴衆にはワンパターンの演奏にしか聞こえなくなってしまうでしょう。そんな状態に陥っている時に、演者が皆が知っている曲のメロディを演奏したら、聴衆は砂漠で思いがけずオアシスに行き着いたかのように喜びを感じるでしょう・・・

茶道の茶盌を例に取ってみても、

どんなに造形的冒険をしても、お茶を美味しく心地よく飲むための器、という事が中心にあるもの・・・そのような「縛り」のあるものには造形的に自由で枠の無い、素晴らしいものがあります。

しかし不思議と「お茶も飲める彫刻作品」みたいなものになると、一見、造形的冒険をしているようでも、なんだかそれは矮小で広がりがありません。作者個人の表現性が強く出ているほど、それと反比例して「その茶盌自体が持つ独自性・存在感・野趣・品格」のようなものが削られているような感じがします。それどころか、個人的には「イヤな感じ」を受けます。

制作した当人は自由な造形のつもりかも知れませんが、それで出来上がった茶盌からは「自由ではなく、無軌道なだけ」という感覚を受けます。私はそこから強風に煽られた新聞紙が急に自分の顔にへばり着いて来たようなイヤな感じを受けます・・・迷惑なものが唐突にへばりついて来たような・・・

それは茶盌でも彫刻でもない、個人の性癖の澱が形になっただけのもので、それを無理やり突きつけられているような・・・まして、それでお茶を飲めというのは・・・私はそういうものは創作とは思っておりません。創作には「昇華」がなければならないと考えるからです。私は保守的な人間なので。

いろいろな例を上げる事ができますが、何にしても、分野を問わず、人間は「なんでもアリ」では実はたいした事は出来ないのではないでしょうか。

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「定番」というのは、集合知の一種であって、そのフォーマットに従うと人間は楽に上手く行動出来ます。楽に上手く出来ると「その先」にエネルギーを使う事が出来ます。

上にも例にしましたが、それは名曲みたいなものです。

名曲は素人がつたなく演奏しても、プロの鍛え上げられた演奏でも、どちらもそれぞれの良さがあり、その演奏者の個性が引き出されます。

それは演者にとっても、聴衆にとっても、利益があります。

美味しいところは人類がいままで練り上げてきた【「定番」から産まれる「新しい展開」】です。そこに、人間の個性が表れ、その個性によって曲自体にもいろいろな新しい表情が現れます。それが面白いわけです。

そのような「ルール・定番」を古いものとしてバカにする事は出来ません。なぜなら、人間はどこまで行ってもゼロから何かを産み出す事は出来ないからです。

人間は、何かしらの素材と関わり、そこにルールをつくり他者との共通認識を可能にし、それを繰り返し練り上げる事によって出来上がる「定番」によって底上げされます。

人間は、その「ルール・定番」というステージを組み上げて、初めてその場で自由に振る舞えるのです。

そのステージを降りてしまえば、人間は糸の切れた操り人形と変わらなくなってしまいます。

その「ルール」や「定番」の積み重ねが「伝統」となり、次の世代に引き渡され、人間は進化するわけです。

時に全く新しいように観えるものが「発明」されますが、それも、元々ある何かと何かの新しい組み合わせや、新しい視点によって「新しい価値」が産まれた、という事になります。

人間は「全く新しい何か」に出会ってしまうと、それを理解出来ないので結果として「無い」事になってしまう事が多いと思います。

研究者や創作家ですら、全く新しい物事は、それを目の前にしても見逃してしまう事が多いのです。一般の人の場合、全く新しい何かを感じる事が出来たとしても、未知のものからは恐怖を感じるので遠ざける、という方向へも行きます。

しかし、人間の思念がそれを無い事にしても、事実としてはそれは存在するので、その存在が、その後進化した人間に再発見されれば「新しい何か」として受け入れられ、さらに増幅され、定番化する事があります。

人間はそういう「保守的な性質」を持っているからこそ「新しい発見」を出来る感性と視座を持ち、それを勇気を持って推進させ、しぶとく社会に「新しい価値観」「新しく有益な事」を定着させるような人は貴重なのです。

人間は、どこまで行っても「無から有」は作れないのです。無から有をつくれるのは神だけです。神がいるのかは、私は知りませんが。


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