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現代和装における、新作の染帯の意味について

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私のような、一応は糸目糊を使った文様染めをやっていると、着物が主であって染め帯はその下ランク、みたいな感じに、業界でも着物好きな方からも思われ勝ちです。

特に、昭和的価値観の人たちや、団体展の正会員でないと、ちゃんとした作家じゃない、みたいな価値観の人たちにはそういう傾向があります。

が、実際には着物も帯も、どちらも布を染めるということでは同じで「良いもの」にするのは、どちらもむづかしいのです。当たり前の話ですね。

友禅のキモノで団体展に良く出品されているような総柄のものや、絵羽を衣桁にかけた状態で風景画のようなものは、手間はかかりますが、実は構成はそれほどむづかしくないのです。(絵羽=着物の仮仕立の状態・衣桁=着物を広げて飾れる器具)

むしろ、少ない文様で、本仕立をした時に仕立て屋さんをうならせるような「ここぞ!」というところに文様が入っているようなキモノをつくる方が「キモノという衣類をつくることに関しては」むづかしいのです。(本仕立=着物を着る人の寸法に仕立てたもの)

何にしても、過不足ない文様の分量と配置だと、着る人も帯も生きますし価格も抑えられますしね。

(なので、私は着物や羽織、その他のものの図案を起こす際には、トルソーに着せて、立体で描き、考えます。和装は平面性の強い衣類ですが、着る際には立体になりますので)

で、私は自分の制作生活の過去、24年ぐらいを振り返ってみると(2018年時)キモノよりも帯の制作が多いですが、それは理由がありまして、独立した時に、こう考えたわけです。

「現代、染帯はとても重要なアイテムになる。なぜなら、着物が売れない昨今、染・織問わず、死蔵された着物を蘇らせ、マンネリ化した着回しから脱却して昔のキモノに新しい魅力を与えるのは、新しい価値観で作られた染帯だからだ」

そう考えたんですね。

既に、ご家庭のタンスにあるキモノのことを考えたわけです。

そういうわけで、ウチは染め帯の制作が多いんですね。そういう意味において、ウチに帯の需要があるわけです。

私は「今まで着ていたキモノがこんな風になるのか!」とか「今までどの帯も合わなかったキモノがフォリアの帯で着られるようになった!」ということを起したいわけです。

私は「染色作家」として着物で自分を表現したいとか(本仕立をして着る方がいてこそのキモノの表現ですから、私にはそういう考えはないです)団体展に入選して正会員になりたいなんて考えて「着物の形をした絵みたいな染め物」をつくる気なんてサラサラなかったわけで「現代の和装全体を考えたら染帯は重要なアイテム」として斬新な染め帯を多く発表していたわけなのです。

流石に、もう初老になった現在は言われませんが、独立してしばらくは「本当はキモノを作りたいんでしょ?売れないから帯を染めて糊口をしのいでいるんでしょ?」みたいなことを私に言う人が良くいました。

「こちとら、そんな小せ~了見でこんな食えない仕事を生業にしてねーぞ!」と思っていた、そんなことをフト思い出して、改めてこちらの意図を書いてみた次第であります。笑

私が和装でやりたいのは、和装全体の底からの掘り起こしと伝統の再確認・再認識。それは現代の創作と直結しているのです。そうでなければ伝統とつながれません。

どこかの団体の審査員に褒められるとか、和装で自己表現をしたいとかそういう小さいことではないのです。

私がやりたいのは、特定の固定化した価値観が伝統と思っている方々に褒めていただくことではなく【日本の伝統と現代の文化の活性化なのです

写真は、私が制作した麻の名古屋帯と、品質の良い夏着物をお召になられてイタリアの街を歩いている写真です。(名古屋の「きもの睦月」さん)

良くある「いわゆる日本の民族衣装としての着物」をイタリアで着たのね、ではなく、周りの古い石づくりの建築の風合いと、日本の質の良い着物と帯と着る人が良く響き合って”ファッションとして美しい”と思います。美しいものは、国境を超えて響き合うのだと思います。

素晴らしい着物と帯の取り合わせと、着付けをしてくださった睦月さんに感謝です。


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