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現役のプロであるために必要な仕事量がある

なぜ、いろいろな分野のプロがアマチュアの人たちよりも「しぶとく上手い」かといえば、アマチュアとは圧倒的に練習量と、仕事量が違うから、というのは単純でありながら重要な理由です。

例えば工芸作家さん系で、あまりに年間の仕事量が少ない人の場合は、やっぱり腕や感性は落ちます。(そのキレの無さや、朴訥としたシロウト感が良いという方もいらっしゃるので、その存在の否定ではありません)

人が何かしら作る際に、作者の、ゆっくりのんびり楽しく仕事をしたい、みたいな都合の良い気持ちには「モノが出来上がる摂理」は寄り添ってくれないのです。

プロは沢山練習しているのは当たり前ですが、しかし練習を沢山しただけではダメです。練習だけ上手いのではダメなのです。

例えば、プロ野球で言えば、常時スタメンではなくても、常にダッグアウトには入れてもらえているような状態、「現場の体験」が多くなければなりません。もちろん、長年スタメンを張っているような人なら現場での仕事量は膨大です。とにかく「バリバリの現場での仕事量」でなければなりません。

プロであっても低レベルの場合は「練習では一流」「割り稽古では上手い」なんて人がいるものですが、それでは練習生であって「仕事人」ではありません。試合では余程の欠員が出ない限り使ってもらえない人たちです。

誤解されるといけないので、こういう方向からも書いておきますが「ティーチングプロ」で素晴らしい実績のある人が、そのスポーツの分野の試合に出場したとして勝てなかったとしても、それは問題ではありません(その他、例えば料理を教えるプロが、お店を出したけども潰れてしまった・・・など)

「ティーチングプロの現場は教える場であり、教えた人の活躍が結果」ですから。

試合でバリバリ活躍した名選手が、教えるプロ、戦略を立てるプロ・・・コーチや監督として活躍出来るとは限らないように(稀に両方を兼ね備えている人もおりますし、きちんとコーチングや戦略を学術的に学んで身につける人もおりますが)人は同じカテゴリの中でも、そのカテゴリ内の分野が違うと出来ることと出来ないことがあるものですし、高度な世界ほど専門化する傾向がありますし・・・話が少し脇道に逸れましたが・・・

というわけで、工芸作家などの作品で「この作品は、年間10点以下しか作らない作家さんのものだから貴重なんです」「それだけ少ない数に抑えて、一つ一つの作品に力を入れているのですよ、本物の作家さん・・芸術家ですね」・・・なんて紹介されている人のものは私は買いませんねえ。。。年3点しか制作しないなんて人もいますね。

もちろん、制作に非常に手間がかかり時間のかかるものや、少しずつしか進められないようなものなら制作に膨大な時間がかるのは仕方がありません。また、膨大に作っているけども、年間10点しか作品としては公開しない、というものなら別ですが、殆どがそうではないのです。

そういう人は

「悪い意味で、ちまちま・イジイジと非効率的な作業をしている事が多い」

のです。

そういう人のものは「作家個人の独自の美意識やコダワリはあるのかも知れないけども、それは未消化で、残滓として作品内部に沈殿し、作品そのものに仕事のキレが無い」ことが殆どで・・・

・・・繰り返しになりますが、モノが出来上がるための摂理を無視して作り手の心情を優先したモノには、何ともいえない、自己満足的な「必要な事が出来ていない未処理の残滓」のようなものが作品にあって私は個人的にはかなり苦手です。(その残滓の部分を「職人ではない、作家らしい表現」と受け取り、それを愛する人もおりますので、これもその存在自体を否定するつもりはなく、私個人の感想です)

才能あふれる人で実績もある人が「オレは努力なんてしてねーw、好きな時に好きな仕事だけするのさ!」という態度を取る事もありますが、それに騙されてはいけません。そういう人でも実際には現実的な努力をしています。

どんな人であっても、仮に天才であっても、プロとしての腕をキープ出来る量の仕事をしなければ感性と勘と技術が鈍るのは当然です。肉体を持った人間は、その摂理に逆らえないのです。機械だって、しばらく使っていないものを久しぶりに動かしたらギシギシするし、調整が必要だったり、壊れていたり・・その機械自体が、時代遅れになって必要無いものになったりします。(逆に時代が一回りして珍重される場合もありますが。それは幸運ですね)

昔は大活躍していた人であっても、現状、ヒリヒリするようなプロの現場から長らく遠ざかってしまっている人の場合は、当然レベルが落ちます。

細かく言えば、昔は名人と呼ばれた人で、最近はそこまで有名では無いけども、それなりに業界人として生き残っている・・・なんてケースで、同世代の同業者とばかり付き合っている人の場合は、腕が落ちたり、感性が進化しないので作品がダサくなったりします。

その他・・・美術団体に所属して、その団体・審査員の価値観ばかりでモノ作りしている人などにも独特の臭いが出ます。そういうものには独特の「近親相姦的な違和感」を感じて、どうも苦手です。

「伝説の〇〇さん」なんて人ですら、現場から少し遠ざかれば日進月歩の現役プロの世界では簡単に過去の人になります。

「貧すれば鈍する」という言葉がありますが、それは「仕事が減ると腕が落ちる」という構造の中からも発生します。

「仕事が減る」→「ゆえに経済的に瀕する」→「さらに仕事が減る」→「さらに職人の腕が落ちる」→「さらに仕事が減る」→(繰り返し)ということでもあります。

なので、和装業界で言えば、昔の和装品の良いものには「仕事が沢山あった時代の職人の練達」を感じるものが多いです。

その「圧倒的な仕事の量をこなした職人が持つ独自の“精密でありながら熟れた(こなれた)感じ”」は、実際にキリキリした緊張感のなかで膨大な量の仕事をこなす事でしか得られないのです。

その「職人の練達に宿る美」は、工芸品、職人仕事の見どころです。

和装の分野だと説明しても分かりにくいので・陶芸を例にすると・・

例えば、食器系の陶芸作家さんで、修行時代に賃挽きをやり(陶器の工場などで、同じ形を素早く大量に、ろくろで器の形を作る)必要な形を正確に素早くつくる技術、粘土とろくろの関係、そして自分自身の造形、そういうものを心身に配線し、身につけた人のものは「味わい深く上手い」ものが多いですね。

仮に形がちょっと崩れても、そういうものはそれが魅力になることも多い。また、そのような熟練から産まれる、ちょっとしたアドリブが面白かったりします。それは「ワザとらしい遊び心」などとは違う、もっと必然から発生したもので、自然でありながら気の利いた、心動かされるものです。

もちろんそこには「経験豊富なゆえに“手慣れ感”のイヤラしさが出る」危険性もありますが、しかし仮にそれが多少臭っても、キチンとした基礎のあるものには独自の爽快感があります。

ある意味「センスはちょっとダサいけど、職人技術としては実に味わい深い良い仕事だ。むしろ、少し野暮ったいのも魅力だな」というものが存在出来るのが伝統工芸の面白さでもあります。(それに頼ってしまう傾向は良くありませんが)そのモノに、技術方面からの発生した美が宿れば、そのダサさが美点になったりするのですね。

私は、工芸品の場合、センスや感性ばかりを表に出した、変なアートコンプレックスのある「無駄に表現的な工芸作品」なら、そのような「ちょっとダサいけど味わい深い職人仕事」の方がずっと好きです。

こんなケースもあります・・・

知的で美的な世界での切った張ったをくぐり抜けた、昔の高度な趣味人が、技術的にはシロウトながら作った茶盌が、ゾッとする程良い、ということは起こります。技術も理論も超えてとにかく美しい魅力的なモノ・・・

その場合は、技術は足りないとしても「命がけの美のやりとり」を長年やっているわけですからね。美の現場でのキャリアがそこに出ます。

何にしても「美が宿ったもの」は分野関係なく美しいのです。欠点すら美点になります。

(その他以前書いた美についてはこちらも)

・・・かように、現代、手作り系の職人仕事は以前のような仕事量が無いので昔のレベルに達するのはむづかしいのです。

ウチの工房の場合は、発注が無くとも自分で勝手にどんどん作って発表するわけですから、作る方面の仕事の量には不自由しません。もちろんウチは売れっ子ではないので売るのは大変ですけどね。笑


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