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必要な生命感のノイズ

昔の工芸品や、何かしらの創作品には、生命感を表すノイズ、ざわめきがありますね。

それはとても魅力的です。

それを、昔使われていた天然素材による手間のかかる制作によって、自然に付加されてしまう雑味やムラ、精製技術の不備によってどうしても混入してしまう夾雑物に過ぎない、と言ってしまうのは、少し乱暴だと思います。

その、制作過程で、成果物である製品に自然に乗る「ゆらぎ」「ざわめき」は「生命感」を表していると思うのです。

昔はこのような味わいは大変に珍重されたわけですが。。。

それが現代の工芸品には無い、あるいは少ない場合が多いのです。

それは、近代から現在、例えばデパートなどで売るための流通に乗せるにあたって、昔のものが持つ魅力的な歪み、ゆらぎや、ざわめき的な「ノイズ」は「不良品」として弾かれてしまったから、という理由も大きいものでした。

同時に、制作者自身も、制作者の良心と、技術的な挑戦として、どうしても歪みや濁りが出てしまうものを、どうにか完全にクリアにしたい、という欲求が出たのもあると思います。

どちらにしても、結果として、画一的で単調な「失敗が無いことだけが価値の表面」を持つものが「完成品」「優秀な職人の仕事」として、それが価値として認識され、流通するようになってしまったところがあったんですね。

「工業製品的画一性を手仕事でも求められた」「そしてそれに答えた」わけですね。

その後、陶芸などの場合は、作家さんの間では揺り戻し的に「やっぱり昔の工芸品にあるノイズは良いよね。あれが無いと物足りないよね」という方向になり、例えば白い磁器を意図的に真っ白よりも濁らせたり、ポツポツとシミのようなものが程よく出るようにしたり、魅力的な歪みなどはあえて取り入れるようにする人も出てきたようです。

(もちろん、技術不足による歪みやムラは論外ですが)

が、文様染においては、そういう「誠実な姿勢による揺り戻し」は殆ど起こっていません。

私は昔の工芸品の、生命感の表れであるノイズ、ざわめきを、現代の手法で蘇らせる仕事を意識しています。

Jean Cocteauの以下の言葉

【あまりに完成され、あまりに便利になりすぎると、生命力は却って薄弱になる。発声フィルムが音を出さない部分に聞こえる、あの声高の、熱のこもった、豊かな雑音を無くしてしまったりすることが如何に惜しむべきであることか! 『阿片』】

非常に良く分かります。

ただし、昔のやり方ではなく、あくまでも現代人の私の考えと方法で「そのような構造をつくって」自然に生ずる歪み、ゆらぎ、ノイズを「得る」のです。

その「生命感のノイズ」は、例えば和装であるなら、他のものと合わせる際にとても有効です。

帯と合わせる着物、着物と合わせる帯、そして小物。。。

その「ノイズ」があると、一見合わせられないかな・・・と思うようなもの同士が、そのノイズ同士が共鳴して、むしろ一見合わないかと思われたもの同士が「合わせることによって増幅すらする」のです。

それとは逆に「ノイズの無い透明なプラスティックのような着物」は、他のものを寄せ付けないか、合わせるものが限定されてしまうのです。

そして、それは未使用時が一番キレイで、使って少し傷がつくと、みすぼらしくなってしまいます。

逆に「生命感のノイズ」があるものは、使用して、使用感が出るほどに、美しく味わい深くなります。

「透明なプラスティックのような着物」は、それ単体ではキレイなものもありますが、トータルコーディネートしにくいし、まして人が着る、となると「何か浮ついている感」が出てしまうものです。

「ノイズの無い着物」が似合うのは、プラスティックで出来たマネキンなのです。

「生命のノイズの塊である人間」には合わないのですね。

例えばモノや着姿に透明感やスッキリ感を出したい、ということはあるわけですが、しかしそれは「モノが持つ生命のノイズ」「制作者の手の痕跡」を消し去るという意味ではない、ということなのです。

(「制作者の手の痕跡」といっても、未習熟な加工によって残るものではなく、また、作り手のわざとらしい遊び心なるものでもありません)

人が使うものは「生命のノイズの塊である人間」が使うものである、ということを忘れてはならないと思う次第です。


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