意識の高低は改善思考にかかる

意識が高いとか、低いとか。
そんなことをぐるぐる考えていたのだけど、この違いはそれを改善しようとするかどうかなように思えてきた。
私は意識が低いのでそんなに改善思考をできていないのだけど、意識が低いことに安住できていないせいで意識を高く持てないことに物凄く引け目を感じている。

意識が高い人は、問題解決に考え方をシフトしていく人なのだと思う。
何かが起きた時にどうしてそうなったか、何をすればそれを繰り返さずにすむか、何が足りていなくて何が必要なのか。
明確にして具体化して、次なる行動に落とし込む。
PDCAを様々な場面でまわして、上手くいかないことにはひたすらそれを適応していく。
それによって形成される圧倒的成長と自信。
そういうことが、意識の高さと結びついて出来上がっていく。

意識が低い私は、自分でいくら考えていてもその意識の高い思考に辿り着けなかった。
人から言われて初めて、そっかそういう考え方や生き方をしている人に負けた感じがしてしまうのは当たり前だな、と思ってしまった。
問題が起きても意味もなく自分を下げ、反省はするものの具体的な改善策まで考えられていないせいで、根本的な解決にアプローチできないまま時間を過ごしてしまう。
何もしていないわけではないものの、具体的に何かをできた実感も自覚もないから自信が持てない。
これをやったから大丈夫だと言えないことで、実際どうかは別として意識の高低による差が出てしまう。

全てに改善思考を求めるのは苦しい。
上手くいかなかった話をして改善のための行動へアプローチされることは、頑張る方向に考えが向いていなかったところから半強制的に頑張るしかない具体的な解決策を提示されることで追い込まれてしまうことだってある。
改善しなければ根本的に解決はしないものの、変化は苦痛を伴うし、そういう意識の持ち方をしてなかったのにそう言われることは余計に心の準備ができていなく責められるように感じてしまう。

意識が高いと改善に思考が向いて、意識が低いとそのままでも大丈夫と受け入れる方向に気持ちを向かせることでバランスをとるのだろう。
どちらも自分を受け入れるために必要な過程だ。
バランスがとれないままでいると、これが自分を受け入れられないまま永遠に続いていく。
意識の高低の持ちように納得できていない状態で進むと、どこかでガタがきてしまう。

意識を高く持って改善していきたいことなのか、そこまでしなくても自己を受容して納得した上で進めば大丈夫なのか、自分と相談しながら決めていきたい。
これは自分に対してだけでなく他者に対しても、何にどの程度重きを置いてどこを目指したいのか、そこをしっかりさせた上で関わりを持った方が、ズレがなく優しい関係性を築けるように思う。

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