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やさしさの暖炉が氷を溶かす

誰かを前にして涙が止まらなくなる時は、決まって相手が私にやさしさを向けてくれる時だった。

一人で泣くことはあっても、できることなら人前では泣きたくない。
大人として人前では泣かないことが善しとされているし、別に大してそんなに泣き出すほどのことは日常ではそう頻繁に起こらない。
はずだった。
そうだった。
少なくとも、1年前の私は。

昨年の今頃まで、自分の至らなさから本当にきつい言葉を言われて涙を堪えきれなくなってしまうことや、少し考えればわかる筈の重大な業務上のミスを犯してしまったことで泣いてしまったことはあっても、毎日のように些細なきっかけで泣いてしまうことはなかった。
学校にあがった頃から考えてみても泣くことは年に数回程度で、それは人より少し多いかもしれなくても、そこまで異常に泣いてしまうという程のことでもなかった。

うつになって、一番はっきりと壊れてしまったと感じたのは涙腺だった。
今は少し楽にはなってきたものの、とにかく何をしていても毎日涙が流れた。
歩いていても、ごはんを食べていても、寝転んでいても。
休職し始める前からそんな調子になってしまった私は、会社をおやすみして過ごす時間のほとんどを一人で泣いて過ごしていた。
それでも人前では、少なくとも元々知っている人の前では、泣かないように必死だった。

泣かないように必死になって涙を心の中で凍らせても、簡単にその必死さを壊してしまうのは決まってやさしさだった。
些細な刺激によって少し涙ぐんでしまった私に掛けられるやさしさに、頑張って急いで固めた氷はいとも簡単に溶けていってしまう。

涙の氷を溶かすやさしさは、まるで暖炉のように暖かく包み込んでくれる。
無理やり溶かされるわけでもなく、ただひたすらに張りぼての氷を溶かしきろうとしてくれる。
やさしさに触れれば触れる程水浸しになっていく私をそのまま、無条件に受け入れようとしてくれる。

この数ヵ月は、人のやさしさに人生で一番触れた時間だったように思う。
思っていたよりもずっと、周りはこの状態の私を受け止め認め励ましてくれた。
やさしさについて考えるとそれだけでまた涙が出てきてしまうけど、いつか氷をつくれなくなるくらい水嵩が減ってくれる時まで、それはそれでもう泣いてしまっていいのかもしれない。
それがいつになるかはわからなくても自分の水嵩を減らすことができたら、今度は私が暖炉として、やさしい明かりを灯したい。

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