「やさしくなりたい」と思うやさしさ
やさしくできる人になりたい。
真にやさしい行動や発言を、常にしていける人でありたい。
そう思うのは簡単でも、実際にそれを実行するのはかなり難しい。
むしろそれがすべてでいる人がいたら、神様か天使かなにかかもしれない。
以前、私は少しも優しくないと書いた。
その時に、本心でなくとも相手から見てやさしいと思われる行動ができることはやさしさと認識してもいいのではないかと言ってもらった。
突き詰め続けていくとそれは、もう人である上での感情をないがしろにした何かになってしまうようだった。
真にやさしくなるためには自分に余裕を持つことが必要で、そのためには自分の手元にある幸せに自覚的にならなければいけないといったことも考えた。
同じ現実に直面してもその状況をどう捉えるか次第で人生は変わってくるから、手元にあるもののありがたさに気づき満足することで真にやさしくなる余力が生まれる。
これはきっと半分あっていて、半分間違っているんだと思う。
余力があってもやさしくなりたいと思わない人もいるだろうから。
この櫻本さんのnoteを読んで、ここでいう現実を受け入れる「覚悟」を持ち限りある今を愛や感謝に使うということは、死を目前にした状態でなく日常に当てはめるとすると、やはり今ある幸せに気づくことに近いのだと思う。
大切な今この時間をどう費やすか。
同じ状態にいても、それをどう捉えるかはその人次第だ。
ただ一方で、不安や苦しみの渦中に呑み込まれている人にそんなことを伝えるのはあまりにも残酷だ。
真にやさしくなるには覚悟を持って現実と向き合うことが必要で、その先に生まれた余力をやさしさにまわすことができる。
痩せ我慢や自己犠牲でないやさしさのためには、自分の現実にある問題との対峙が必要だ。
それでも、その上でやさしくなるか傲慢になるかは、その人の意志だ。
相手を愛しているかとか、相手のためになりたいと思っているかとか、どうしたいの部分だって重要になる。
自分に余力ができたところで、その余力をやさしさにまわしたいと思う人が全てではない。
だから、「やさしくなりたい」と思うことはそれだけでやさしさだと受け止めていいのだと思う。
「やさしくなりたい」なんてわざわざ思わない人だっている中で、それでも「やさしくなりたい」と感じるだけで、もう立派にやさしい人だ。
思うようなやさしさが形にできなかったり思い描くやさしさそのものが表現できなかったりしても、やさしくあろうと意志をもって向き合うことそれ自体、やさしさになる。
そんなにストイックにならなくても「やさしくなりたい」と思っている人はもう十分やさしい人だと、そういえるやさしさを持っていたい。
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