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【読書記録】事例編:ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く

今回の読書記録は、カナダ生まれのジャーナリストであり、環境問題・気候変動の活動家でもあるナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』です。


ショック・ドクトリンとは何か?

上下巻で本文だけでも700ページ近くある本書ですので、まずは簡単にどのような本なのか、本書のカバー裏から引用したいと思います。(強調は筆者による)

本書は、アメリカの自由市場主義がどのように世界を支配したか、その神話を暴いている。ショック・ドクトリンとは、「惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革」のことである。アメリカ政府とグローバル企業は、戦争、津波やハリケーンなどの自然災害、政変などの危機につけこんで、あるいはそれを意識的に招いて、人びとがショックと茫然自失から目覚める前に、およそ不可能と思われた過激な経済政策を強行する……。

ショック・ドクトリンの源は、ケインズ主義に反対して徹底的な市場原理主義、規制撤廃、民営化を主張したアメリカの経済学者ミルトン・フリードマンであり、過激な荒療治の発想には、個人の精神を破壊して言いなりにさせる「ショック療法」=アメリカCIAによる拷問手法が重なる。

また、訳者あとがきでは『ショック・ドクトリン』あるいは『惨事便乗型資本主義(Disaster Capitalism)』について、以下のように簡潔にまとめてくれています。

著者のナオミ・クラインが本書で徹底して批判するのは、シカゴ大学の経済学者ミルトン・フリードマンと彼の率いたシカゴ学派の影響のもと、1970年代から30年以上にわたって南米を皮切りに世界各国で行われてきた「反革命」運動である。言い換えればそれは、社会福祉政策を重視し政府の介入を是認するケインズ主義に反対し、いっさいの規制や介入を排して自由市場のメカニズムに任せればおのずから均衡状態が生まれるという考えに基づく「改革」運動であり、その手法をクラインは「ショック・ドクトリン」と名づける。「現実の、あるいはそう受け止められた危機のみが真の改革をもたらす」というフリードマン自身の言葉に象徴されるように、シカゴ学派の経済学者たちは、ある社会が政変や自然災害などの「危機」に見舞われ、人々が「ショック」状態に陥ってなんの抵抗もできなくなったときこそが、自分たちの信じる市場原理主義に基づく経済政策を導入するチャンスだと捉え、それを世界各地で実施してきたというのである。p683-684

フリードマンが提唱した過激なまでの自由市場経済は市場原理主義、新自由主義などとも呼ばれ、徹底した民営化と規制撤廃、自由貿易、福祉や医療などの社会支出の削減を柱とする。こうした経済政策は大企業や多国籍企業、投資家の利害と密接に結びつくものであり、貧富の格差拡大や、テロ攻撃を含む社会的緊張の増大につながる悪しきイデオロギーだというのがクラインの立場である。自由市場改革を目論む側にとってまたとない好機となるのが、社会を危機に陥れる壊滅的な出来事であることから、クラインは危機を利用して急進的な自由市場改革を推進する行為を「ディザスター・キャピタリズム」と呼んでいる。これまでこの語は「災害資本主義」と訳されることが多かったが、「ディザスター」は自然災害だけでなく人為的な戦争やクーデターも含む語であることも踏まえ、より意味を鮮明にするために、本書では「惨事便乗型資本主義」と訳した。p684

前回の読書記録では、本書をより読み進めやすくするための前提を共有する前提編としてまとめました。

今回の記事は、それらを踏まえて世界各国でどのようにショック・ドクトリンが行われてきたのか、著者であるナオミ・クラインは膨大な資料と取材をもとにまとめられた事例を紹介するものです。

国の社会体制および経済体制がどのような意図、思想の元に設計され、運用されてきたのでしょうか?

その結果、どのような結果がもたらされたのでしょうか?

それでは、以下、見ていきましょう。

ハリケーン・カトリーナとルイジアナ州ニューオーリンズの例

2005年8月末にアメリカ合衆国南東部を襲ったハリケーン・カトリーナ。ルイジアナ州ニューオーリンズの街が水没した際の様々な動向。

「これでニューオーリンズの低所得者用公営住宅がきれいさっぱり一掃できた。われわれの力ではとうてい無理だった。これぞ神の御技だ」(ニューオーリンズ選出の共和党下院議員)

「私が思うに、今なら一から着手できる白紙状態にある。このまっさらな状態は、またとないチャンスをもたらしてくれている」(ニューオーリンズ屈指の不動産開発業者の発言。※その週からルイジアナ州議会には企業ロビイストが集まり、減税、規制緩和、低賃金労働力、「より安全でコンパクトな都市」構想を通そうとしていたという。)

「一掃だとか言ってる場合じゃないだろ。すさまじい数の人間が死んだんだよ。そっちの方が僕にはよっぽど問題だ。こんな死に方をするなんて浮かばれないよ」「バトンルージュ(州議会)に来ているあの連中はいったいどういうつもりだね?今がチャンスだなぞと抜かしおって。こんなひどい惨状だっていうのに、あいつら、目が見えんのかね?」「いや、ちゃんと見えているでしょ。なんせ腹黒いやつらだからね。こりゃしめたもんだって思っているのよ」(クラインの取材した被災者の発言)

「ハリケーンはニューオーリンズのほとんどの学校、そして通学児童の家々を破壊し、今や児童生徒たちも各地へと散り散りになってしまった。まさに悲劇と言うしかない。だが、これは教育システムを抜本的に改良する絶好の機会でもある」(ミルトン・フリードマンの論説。※義務教育の学校運営に市場原理を持ち込み、私立校にも公的補助金を支給する事で教育の競争を図る。子どものいる家庭は政府発行のバウチャー(利用券)が配られ、保護者は子どもを通わせる学校を選べると言うもの。この教育の民間移行=教育バウチャー制度は、災害から1年7ヶ月後にはほぼ完了し、公立校は123から4校へ激減。チャーター・スクールは7から31校へと増えた。また、教職員組合の契約は破棄され、4700人の組合員教師は全員が解雇されることになった。)

「ルイジアナ州の教育改革者が長年やろうとしてできなかったことを(中略)ハリケーン・カトリーナは1日で成し遂げた」(フリードマン経済学を信奉するシンクタンクの報告)

チリの独裁者アウグスト・ピノチェトによる軍事クーデター以後の例

1970年、大統領選挙においてサルバドール・アジェンデが勝利し、国内外の企業が支配していた経済の主要な部分を国有化する政策を打ち出した。このことは資本主義とは異なる経済モデルへの願望がチリに深く根を下ろし、社会主義に対する支持(民主的プロセスによる左寄りの代表の選出)が増大していることを示す出来事となった。

1973年9月11日、アジェンデ政権反対派であり、陸海軍、海兵隊、警察軍を掌握していたピノチェト将軍の戦車が大通りを走りながら発砲し、戦闘機が空爆を加え、大統領政庁を炎上させた。サルバドール・アジェンデ大統領は武装防衛隊を組織することを拒み、大統領政庁には大統領と一部の側近しか存在しなかった。

クーデター直後、およそ13500人の市民が逮捕され、うち数千人はサッカースタジアムへ連れていかれ、見せしめの虐殺が行われた。兵士たちは頭巾をかぶった協力者を伴って観客席を回り、協力者が「破壊分子」だと指差した者をロッカールームやガラス張りの特別観客席に連行し、拷問を加えた。何百人もが処刑され、やがて多くの遺体が幹線道路脇に放り出され、市内の濁った水路の水に浮かんだ。

「長大な資料を何部も印刷するために(印刷機が)ノンストップで働いていた」「1973年9月12日水曜日の正午前、政府の運営にあたる軍の将官たちの机の上には経済プログラムが置かれていた」※クーデター勃発当日の9月11日、シカゴ大学で経済学を学んだチリ人経済学者および現地でシカゴ学派経済学を学んだエリート層「シカゴ・ボーイズ」はクーデター後に進めるための民営化、規制緩和、社会支出の削減を盛り込んだ経済プログラムを作成していた。このことは、アメリカによるチリに対する経済的な内政干渉が行われていたことを示している。

最初の一年半、ピノチェトはシカゴ学派の指示を忠実に守った。いくつかの銀行を含む国営企業の一部を民営化し、最先端の新しい形の投機的金融を許可し、チリ国内の製造業者を保護していた障壁を取り除いて外国からの輸入を自由化し、財政支出を10%縮小した。さらに価格統制も撤廃したが、これはパンや食用油など生活必需品を過去何十年も統制してきたチリにとって急進的な措置だった。

シカゴ・ボーイズはピノチェトに対し、こうした領域での政府介入を一気にやめれば経済の「自然」法則が平衡を取り戻し、インフレは魔法のように消えると請け負った。しかし、1974年チリのインフレ率は375%(アジェンデ政権時の二倍)に達した。自由貿易の推進により国内には安い輸入品が溢れ、国内企業は外国企業に競争に負けて失業者が増加し、飢えが蔓延した。恩恵を被っていたのは、外国企業と投機で大儲けした「ピラニア」と呼ばれる投資家の小集団くらいであった。

ソ連崩壊前夜、労働者による民主的政権交代後のポーランドの例

当時のポーランド政府の決定した食肉の値上げに対して、グダニスク造船所の労働者によるストライキが起こった。ポーランド政府は35年にわたってソ連の支配下にあったものの、ストライキが長引くにつれ、造船所は独裁政権国家の中に生まれた大衆民主主義地帯といった様相を呈してきた。同奏者階級の味方だと称する共産主義政治局員に自分たちの生活を管理されるのは真平だ。自分たち独自の労働組合が欲しい。交渉し、ストライキを行う権利が欲しい、と。そして彼らは自分たちの力で自主管理組織「連帯(ソリダルノシチ)」を結成し、リーダーにレフ・ワレサという電気技師を頂いた。1980年のことだった。

1981年、「連帯」はこれまでに代わる政治・経済政策をもってポーランド政権を奪取するという革命的な方針を打ち出した。その計画案は以下のように述べている。「われわれはあらゆる管理レベルにおける自治的かつ民主的な改革を要求し、本計画と自治政府と市場とを統合する新しい経済社会システムの構築を求める」。計画の軸となるのは巨大な国営企業の設置という構想で、これらの企業は「連帯」の組合員数百万人を雇用し、政府の管理を脱して民主的な労働者の協同組合になるとされた。また、「この公営化された企業はポーランド経済の基本的な組織単位となる。その管理には労働者の代表による評議会があたり、評議会の運営する議長は選挙により任命され、更迭には評議会の決定を必要とするものとする」と続いた。これは従来の党支配体制……権威主義ではなく民主主義、中央集権的ではなく分散型、官僚主義的ではなく参加型等、真っ向から対立する内容であった。

1981年12月、ソ連からの圧力を受けたポーランド政府は戒厳令の布告、「連帯」の組合員数千人の検挙、ワレサも逮捕、拘留された。1983年、ワレサはノーベル平和賞を受賞するも受賞席に参加することができなかった。1988年には政府の弾圧が緩和され、選挙の結果「連帯」は政権を奪取することに成功した。

「連帯」主導政権発足当時、ポーランドの債務は400億ドル、インフレ率600%、深刻な食糧不足が国を覆い、人々の給料はどんどん低下する状態にあった。「連帯」新政権はそのなかで何も決められない麻痺状態に陥っていた。古い秩序の急激な崩壊と突然の選挙での圧勝は、彼ら自身にもショックをもたらしていた。彼らはかつて自分たちを逮捕しようとしていた秘密警察に給料を払う立場となり、その上、政府には給料をかろうじて払える程度の金しかないことに気づく。夢に描いた社会を作る前に、今ここにある経済破綻と大規模な飢餓の発生を回避するという任務に新政権は取り組むこととなった。東欧ブロックで40年ぶりに共産主義政権を倒し、民主主義政権を打ち立てた最初の政府であるポーランド新政府に対し、国際通貨基金(IMF)およびアメリカ財務省は十分な援助を提供することはなかった。シカゴ学派のエコノミストの牙城となっていたこの二つの組織は、ポーランドを過激なショック療法を受け入れるのにうってつけの弱体化した状況にあると見ていたためだ。

こうした状況の中で「連帯」の経済顧問に就任したのが、ジェフリー・サックスである。経済的ショック療法を五、六カ国で実施する傍ら、大学の教授職も得ていた人物である。彼は「連帯」幹部と会合を持ち、新任の財務大臣レシェク・バルチェロヴィッチと同盟を組んだ。一夜のうちに価格統制の撤廃、政府の補助金の削減、国営の鉱山、造船所、工場を民間部門に売却するという「サックス・プラン」を新政府が受け入れることを条件に、サックスはIMFによる債務救済と10億ドルの通貨安定資金を確保することを請け負った。

1989年9月12日、タデウシュ・マゾヴィエツキ新首相は、「国営企業の民営化、証券取引所と資本市場の創設、交換可能な通貨、重工業から消費財生産への移行」および「財政支出の削減」を可能な限り迅速に行う方針を発表した。それは、「連帯」が国民に約束してきた方針とはまったくかけ離れた極めて過激なショック療法であった。バルチェロヴィッチ財務相は、ポーランドは現在、意見を聞き、議論や討論を重ねる「通常の政治状況」ではなく「特別な政治状況」にあるからだと説明した。それは、民主主義の中にあるポッカリと空いた、民主主義のない「フリーゾーン」のようなものだ、と。

天安門事件を契機に民主化を弾圧し、自由市場改革を断行した中国の例

1980年、鄧小平率いる中国政府はミルトン・フリードマンを中国に招待し、トップ官僚、大学教授、党の経済学者など数百人を前に市場原理主義理論についての講演を行わせた。フリードマンは純粋な資本主義が行われている地帯として香港を例に挙げた。個人の自由、自由貿易、低い税金、政府による最小限の介入によってもたらされた香港のダイナミックで革新的な特性は、アメリカよりも自由である。なぜなら政府が経済に介入する度合いがアメリカよりも低いからだ、と。

フリードマンの規制のない商活動の自由の重視、政治的自由は付随的なもの、あるいは不必要なものとみなす考え方は、中国共産党指導部で形成されつつあった考え方と合致した。経済を開放して私的所有と大量消費を促す一方で、権力支配は維持し続ける。国家資産の売却の際には、党指導部とその親族が最も有利な取引をし、一番乗りで最大の利益を得よう、というものである。

1983年、鄧小平は市場を外国資本に開放し、労働者保護を削減したのに伴い、40万人強の人民武装警察の創設を命じた。ストライキやデモ行進などのあらゆる兆候を鎮圧することを任務とする機動隊である。鄧小平の改革の多くは支持も得たが、80年代後半になると国民、特に都市労働者に不人気な政策を導入しはじめた。価格規制や雇用保障の撤廃により物価が急騰、失業が増大し、勝ち組と負け組の格差が拡大した。さらに、共産党幹部に蔓延する腐敗や縁故主義(国家財産を違法に私物化し、私腹を肥やす等)にも猛烈な反発があった。

そのような状況の中、再びフリードマンが中国に招待された。フリードマンは党幹部に対して、かつてチリのピノチェトに伝えたのと同じメッセージ、圧力に屈するな、動揺するなと伝えた。また、経済的ショック療法は削減するのではなく、さらに行うべきだと強調した。「中国の改革への第一歩は劇的な成功を収めました。ますます自由な民間市場への依存を拡大することで、中国はさらに劇的な進歩を遂げることができるのです」

民衆の抗議運動はその後もエスカレートし、その中でも象徴的であったのは天安門広場での学生たちによるデモだった。抗議活動は、経済改革それ自体に向けられたのではなく、急激かつ冷酷無比であり、そのプロセスが極めて反民主的であったことに向けられていた。また、選挙や言論の自由に対する人々の要求は、こうした経済的な異議申し立てと密接に結びついていたと汪暉(ワンフイ)は主張する。汪は、かつて抗議活動を指導し、現在は中国の有力な知識人として知られている人物だ。

共産党幹部は、決定的な選択へと追い込まれた。デモ隊の民主化要求を弾圧し、まっしぐらに市場原理主義を追求すべきか、デモ隊の民主化要求に屈して権力の独占を返上し、経済プロジェクトの大幅な後退のリスクを負うか。結果、政府は経済改革を押し進めるべく抗議活動を弾圧する道を選び、人民解放軍の戦車は天安門広場のデモ隊に突っ込み、無差別発泡を行った。学生たちの避難したバスに解放軍兵士が突入し、棍棒で彼らを殴打した。目撃者の報告では、死者は2000〜7000人、負傷者は3万人にも達したという。

天安門事件の弾圧を恐れた市民は政府の経済改革に従うほかなくなり、鄧小平はフリードマンの助言のいくつかも実行した。中国は地球上すべての多国籍企業にとって下請け工場を建設するのに最適な場所へと変貌した。低い税金と関税、賄賂のきく官僚、低賃金で働く大量の労働力。労働者に至っては弾圧を恐れて適正な賃金や基本的な職の保護を要求するリスクを冒すこともできなくなっていた。結果として、民主化と自由市場経済は不可分の両輪ではないことを証明する結果となった。

アパルトヘイト体制脱却後も経済的な苦境に追いやられた南アフリカの例

1990年1月、71歳のネルソン・マンデラは刑務所の独房で机に向かい、支持者に向けた覚書を書いていた。獄中にいた27年間の間に、アパルトヘイト国家南アフリカの経済政策にかける自らの決意が鈍ったのではないという思いを伝えようとしたものであった。そこには、「鉱山、銀行および独占企業の国営化はアフリカ民族会議(ANC)の政策であり、この点に関してわれわれの見解が変化したり修正されたりすることはありえない。黒人経済の強化はわれわれが全面的に支持し促進する目標であるが、現在の状況においては、一定の経済部門を国家が統制することは避けられない」。この考え方は、ANCの基本理念を謳った「自由憲章」に明記されて以来、35年間にわたって同会議の政策の基礎となってきたものであり、自分たちを抑圧した権力者が不正にえた利益の返還を要求し、再分配する権利を訴えるものであった。

1950年代半ば、白人が支配する南ア政府は「自由憲章」を謳い、アパルトヘイトに反対するANCその他の政党の活動を30年間禁止した。禁止されることとなった活動の中で作られてきた自由憲章には仕事に就き、まともな家に住み、思想の自由を持つ権利が謳われている。さらに、世界最大の金鉱をはじめとする資源や経済に関しては、「われわれの国の財産、すなわち南アフリカ人民の遺産はすべて人民の手に取り戻されなければならない。地下に埋蔵された鉱物資源、銀行および独占企業はすべての人民の所有に移行され、その他の産業や通商も人民の幸福を助長するために管理されなければならない」と述べている。

1990年2月11日、晴れて自由の身になったマンデラおよびANCは、現政権側であるF・W・デクラークおよび国民党との交渉に臨んだ。細部にわたる交渉は、政治と経済という二本の筋道に沿って行われた。政治交渉の結果、議会が近いうちにANCによって掌握されることが明らかになると、国民党はもっぱら経済交渉に精力を注ぎはじめた。政治権力の保持が難しくなったとしても、アパルトヘイト体制下で蓄えてきた資産を、白人層は簡単に手放すつもりはなかった

経済交渉においてデクラーク政権側は、ワシントン・コンセンサスの考え方に基づく経済的な意思決定を「専門的」で「管理的」なものであると規定。その後、経済政策に関する権力中枢の管理を、建前上「中立的」とされる専門家、経済学者、IMF、世界銀行、関税および貿易に関する一般協定(GATT)、国民党の当局者に任せよう、という戦略を取った。デクラーク側の戦略とは、自由憲章に盛り込まれた経済条項が南アの法律になることを阻止することだった。「人民こそが統治すべきである!」という要求はまもなく実現することになったものの、統治する領域が急速に狭まりつつあった。

ANCの活動家であり、経済学者であるヴィシュヌ・パダヤキーはアパルトヘイト体制以降の南ア経済計画を作成していたが、上記の経済交渉の流れに対し「まったく不意をつかれました」と振り返り、中央銀行および財務省のトップがアパルトヘイト時代と変わらないとわかったとき、「経済改革という点ではすべては無に帰する」ことを悟った。パダヤキーの見方によれば、当時さほど重要ではないと思われた一連の問題に対し、相手側がうまく立ち回ったのだという。この交渉の結果、難解な規則や規制によって作られた網により、マンデラ政権は自らの権限が大きく制限されてしまった。

土地の再分配、失業者への雇用の創出、無性のAIDS治療薬の提供、住宅の建造と電気・水道の供給等の改革は、新憲法の条項、国際協定、アパルトヘイト時代の債務返済および年金基金(受給者の大多数はかつての政権職員)といった制約のためにできなくなってしまった。金融政策に関しても、IMFとの取り決めおよび融資の条件に違反するので無理。新政権は、名前の上では統治者であっても、本当の統治は別の場所で行われる、という状態に陥ってしまった。

この時点で、ANCには二つの道があった。一つは、第二次解放運動を起こし、体制移行期以来ANCの首を締めてきた網から自由になるために戦うこと。もう一つは、制限された権力に甘んじて新経済秩序を受け入れること。ANC指導部が選んだのは、後者だった。そして、指導部は外国資本による新たな富の創出やトリクルダウンを期待するため、それまでの態度を180度転換しなければならなかった。1996年、民営化の促進、財政支出の削減、労働市場の「柔軟性」拡大、貿易のさらなる自由化、資金循環に対する規制撤廃などを盛り込んだ、南ア版新自由主義的ショック療法プログラムを実施することとなった。もはや自由憲章に則った政策を打ち出すことは、自国通貨ランドの急落や資本の移動をもたらしてしまうため、政権指導部は対外的に表現することもできなくなってしまった。

ソヴィエト崩壊以降、欧米及び国際機関の思惑が入り乱れたロシアの例

1991年7月、先進国首脳会議(G7)に初めて参加するため、ミハイル・ゴルバチョフ大統領はロンドンに向かった。軍縮条約への署名、ノーベル賞をはじめとするいくつかの平和賞の受賞など、国際舞台において注目を集めてきていた。ソ連においてゴルバチョフは、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)という二つの政策により、ソ連の民主化を大きく前進させていた。マスコミは自由な報道ができるようになり、ロシア議会や地方議会議員、政副大統領は選挙制となり、憲法裁判所も独立した。経済面では、主要産業は国家の統制下に置きつつ自由市場と強力なセーフティネットを混合した社会を目指し、目標が達成されるまでには10〜15年かかると予測していた。

そのような状況下で、1991年のG7において各国首脳がほぼ全会一致でゴルバチョフに伝えたのは、急進的な経済的ショック療法を直ちに受け入れることだった。G7後、ゴルバチョフはIMFや世界銀行などあらゆる主要な貸出機関から同様の指示を受けた。また、ソ連の壊滅的な経済危機を乗り切るための債務免除の申し入れも断られた。1990年『エコノミスト』誌は「本格的な経済改革を阻んできた抵抗勢力を打倒するため(中略)独裁的手法」を採用するようにゴルバチョフに促す記事を掲載。1991年8月、『ワシントン・ポスト』誌は「ソ連経済の実践モデルはピノチェトのチリだ」とする論評を掲載。彼らは「クーデターの起こし方を本当に知る独裁者、すなわちチリのピノチェト元将軍」をモデルにすべきだと書いている。

そのような中、ロシア版ピノチェトになることも辞さないボリス・エリツィンが台頭してくる。G7サミットから1ヶ月後の1991年8月、ソ連共産党の守旧派がロシア共和国最高会議ビル(通称ホワイトハウス)に戦車を向かわせ、民主化を阻止するためにソ連初の選出議会を攻撃すると脅した(ソ連8月クーデター)。エリツィンは誕生したばかりの民主主義を守ろうとする群衆に囲まれてクーデターを非難し、市民らの抵抗のおかげで戦車は撤退、エリツィンは勇気ある民主化の旗手としてもてはやされた。

一時的に国民的英雄となったエリツィンは、政治権力の拡大を図り始める。ベラルーシ、ウクライナという他の二つの共和国と手を組み、一気にソ連崩壊へと向かわせ(ベロヴェーシ合意)、ゴルバチョフを辞職に追いやった。ロシア人にとっては、ソ連の崩壊という強烈な精神的衝撃が与えられた。

続いて、ロシアの資本主義転換に向けて、二つの策が考えられた。資産を社会全体で分かち合うか、指導者が美味しい部分を独占するか。民主的方法か、共産党幹部に都合の良い方法か、だった。エリツィンは後者を選び、1991年末に異例の提案を行う。議会の決定によらず、大統領令により法律を公布できる特別権限を一年間与えられれば、ロシアを経済危機から脱却させ、繁栄する健全な経済を取り戻すという。議会は承認し、エリツィンは絶対的権力を手にした。

エリツィンは包括的な経済の民営化プログラムを作成するべく経済学者を招集し、彼らはやがて「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれるようになる。アメリカ政府はエリツィンのシカゴ・ボーイズを思想面、技術面の両方で支援するべく、民営化法案の起草、ニューヨーク式証券取引所の立ち上げ、ロシアの投資信託市場の設計に至るまで、様々な分野の専門家に資金を提供した。1991年、エリツィン新政権は経済的ショック療法プログラムに着手した。ショック療法プログラムには、価格統制の廃止のほか、貿易自由化や国有企業約22万5000社を立て続けに民営化する計画の第一段階も含まれていた。ロシア国民にとってはソ連崩壊に続く、第二の衝撃だった。

この時期にエリツィンの顧問を務めたウラジーミル・マウは、「改革にもっとも好ましい条件」は「それまでの政治的苦難に疲れ果てた国民」の存在だと説明する。「だから政府は価格自由化を実施するに先立って、激しい社会的衝突は起こらないし、民衆の暴動によって政府が倒されることもないと確信していた」。当時、世界銀行のチーフエコノミストだったジョセフ・スティグリッツは、ショック療法を実施する人々を動かしていた心理を次のように表現した。「移行期の混乱」によって生じた「またとないチャンス」に電撃戦を仕掛けること--国民がそれまで手にしていた権利を守ろうとして団結する前に変化を起こす方法は、それしかない」。

ショック療法着手から一年後、インフレによる貨幣価値の急速な低下に伴いロシアの中産階級は老後の蓄えを失い、突然の補助金削減によって何百万人もの労働者を何ヶ月にもわたる賃金未払いの状況に追い込んだ。1992年の平均的ロシア人の消費は前年比40%も減少し、貧困ラインを下回る生活を強いられる国民は全体の三分の一にも達した。選挙によって選ばれたロシア議会は有権者からの圧力を受け、大統領とシカゴボーイズの暴走を抑えるべく、1993年3月にはエリツィンの特別権限の無効化を決議した。以降、法律の制定は議会での議決を必要とするという、自由民主主義国では当たり前の方法へ移行し、ロシア憲法に制定された手順が採用されることとなった。

エリツィンは議会に報復するべく、非常事態宣言を発令。非常事態宣言に対し、ロシア憲法裁判所は非常事態宣言の違憲判決を下した。これに対し、ビル・クリントン米大統領はエリツィンを「自由と民主主義のために真に尽力し、改革のために真に尽力する」進歩主義社とみなし、彼を支持した。『ニューヨーク・タイムズ』モスクワ支局は、議員らが「改革に懐疑的で民主主義に無知であり、知識人や「民主主義者」を軽蔑するソ連的メンタリティ」にあると称した。『ワシントン・ポスト』紙はロシア議会の議員を「反政府」分子とみなした。当時の米財務次官ローレンス・サマーズは「持続的な多国間支援を確保するために、ロシアの改革の勢いを回復させ、さらに加速しなければならない」と述べた。

エリツィンは1993年9月、大統領令1400号を公布し、憲法を停止した上で議会の解散を発表。二日後、特別議会はこの常軌を逸した行動に出たエリツィンを弾劾する決議を63対2で可決する。クリントン米大統領は依然としてエリツィンを支持。米連邦議会はエリツィン政権に対する25億ドルの援助を可決した。1993年10月、エリツィンは陸軍に最高会議ビル(通称ホワイトハウス)襲撃を命じた。軍の総力攻撃により、死者は約500人、負傷者は1000人近くに上った。

「国民が(エリツィン)を支持したのは、彼が民主主義を約束したからです。それなのに彼は、その民主主義を銃殺してしまった。エリツィンは民主主義を侵害したばかりか、銃殺してしまったのです」外国の報道記者に答えるモスクワ市民

以降、ロシアは独裁支配下に置かれた。選出された議会は解散され、憲法裁判所は一時的に閉鎖、憲法も停止された。戦車が街を巡回し、外出禁止令が発令された。他方、エリツィンのシカゴ・ボーイズたちは彼らのプログラムの中で最も異論の多い予算の大幅削減、パンなど基本食品の価格統制の廃止、さらなる民営化のより急速な推進などの法案を強引に可決した。この変化によって利益を得られたのはごく少数のロシア人、オリガルヒ(新興財閥)、西側のファンドマネージャーのみだった。ショック療法が実施される前の1989年、ロシアでは約200万人が1日あたりの生活費4ドル未満の貧困状態にあった。世銀の報告によれば、90年代半ばには貧困ラインを下回る生活を送る人々は7400万人にも上った。ロシアの経済改革によって、たった8年で7200万人が貧困に追いやられたことになる。

スマトラ沖地震に見舞われた漁村を観光地化しようとしたスリランカの例

2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震は、スリランカの海岸線一帯を押し流す大津波を発生させた。周辺地域一帯ではおよそ25万人の命が奪われ、250万人が家を失った。

かつてのスリランカの海岸線付近は、漁の時期になると漁師たちが草葺屋根の小屋を建て、釣った魚をビーチのホステルに直接売ることで生計を立てていた。ホステルに泊まるのは内戦中の不安定な状況下でもやってくるオーストラリアやヨーロッパのサーファーくらいのもので、漁師とホテル側はこれといった問題を抱えることなく共存していた。

長年にわたる内戦のために、海岸線付近の漁業、ホテル業の規模の拡大が望めなかったが、2002年2月に中央政府と反政府勢力が停戦協定に合意したことで、状況が変わり始めた。タイのプーケットに次ぐリゾート地としての宣伝が盛んに行われるようになった。スリランカは、そのごく狭い国土にかかわらず、ヒョウ、サル、何千頭ものゾウなど豊富な野生動物が生息している。ビーチには高層ホテルは一軒もなく、山間部にはヒンドゥー教、イスラム教、仏教の寺院やモスク、聖地が点在している。富裕層向けの高級リゾート地になりうると、海外の融資機関も認識していた。

現地のホテル側は、漁民の小屋が景観の邪魔になり、魚を干す臭いで客が離れると声を上げ始めた。一部のホテル経営者は地元議会に対しロビー活動を開始、漁民側も先祖代々この土地に暮らしてきており、また、海岸での暮らしは生活の基盤となっている。水道や電気、子供たちの通う学校もあるのだ、と主張した。

ところが、津波は海岸にあったものをことごとく一掃してしまった。船、漁師小屋、観光客用の脱衣所やバンガロー等、脆い建造物はすべて流されてしまった。事態が収集に向かい、住まいのあった海岸へ漁師が戻ってみると、そこには警官が立ち塞がり、家を立て直すことはまかり通らぬと申し渡した。政府の公式説明により、「バッファーゾーン(緩衝地帯)」という、津波の浸水予測域ではないが、浸水の恐れがあるとして家屋の再建が禁止される地域が新たに設けられた。しかし、そのバッファーゾーンも観光産業は例外扱いされていた。リゾート施設の建設にはバッファーゾーンのルールが適用されることもなかった。

津波以前の2003年初めには、世銀が承認したショック療法プログラム「スリランカ再生計画」が存在していたが、スリランカ国民は戦闘的なストライキや街頭デモ、2004年4月の選挙で水道や電気など主要事業の民営化をはじめとする計画にノーを突きつけた。こうして、経済成長のための海外の富裕層向け高級リゾート計画(大多数の国民に多大な犠牲を強いる計画)は白紙に戻ったかに見えた。しかし、津波はその情勢も変えてしまった。

津波という大災害によって崩壊した家や道路、鉄道を再建するために、政府は外国から何十億ドルもの融資を受けなければならない。融資する側も、国家の壊滅的危機に際しては、どんな経済ナショナリストも態度をなんかさせることを知っていた。津波発生のわずか四日後、スリランカ政府は国民が長年強く反対してきた水道事業の民営化を可能にする法案を可決し、ガソリン価格の引き上げを断行、また、国営電力会社を分割して民間部門に売却する計画のもと、法整備に着手した。

「国民はかつてこうした民営化政策に断固として反対していた。ところが今や人々は避難所で食べるものもなく、住むところもなく、収入の手段を亡くし、この先どうやって食べて行くか途方に暮れている。政府はまさにそういう状況のなかで、計画を勝手に推し進めている。人々がいずれ立ち直って何が決定されたかを知ったときには、もう後の祭りです」零細漁民支援団体の代表の言葉

スリランカ大統領は津波のわずか1週間後に「国家再建特別委員会」という全く新しい組織を結成。国会を差し置いて、スリランカ復興計画をきめて実行に移す全権を有する組織である。委員会にはスリランカの金融界と産業界を代表する有力者で構成され、しかも10人の委員のうち五人までがスリランカ最大のリゾートホテルを擁する海浜観光業界の株を直接保有していた。委員たちはたった十日で国家再建の青写真を作り上げ、また、津波以前は国民の強い反対に遭った高速道路と大型漁港の建設に災害支援金を流用する決定も下した。

災害発生の直後、被災した地域をかつて分断していた民族の壁が消滅していることも見られた。〔スリランカには、シンハラ人(仏教徒)、タミル人(ヒンドゥー教徒)、イスラム教徒、キリスト教徒など多民族が暮らしている〕タミル人の10代の少年が農村部からトラクターで駆けつけ、遺体の収容を手伝った。イスラム教徒の埋葬用にキリスト教徒の子どもたちは白い制服を寄付し、ヒンドゥー教徒の女性たちは白いサリーを提供したなど。しかし、最初の数ヶ月を過ぎると、政府の方針により海岸地帯の再開発が優先され、避難所で支援の恩恵をいち早く受けられるのはどの民族か、あるいは外国人が手にしてしまうのか、という混乱が生じてしまう。2006年7月、反政府組織タミル・タイガーは停戦合意の終了を宣言。内戦は再び激化の一途を辿った。

ショック・ドクトリンの事例から何を学ぶか?

以上、本書中のショック・ドクトリンの事例のまとめをご覧いただきました。

本書中には、上記以外にもイギリス、ボリビア、モルディブ、ニカラグア等の国々で起こった事例も掲載されていますが、本書中でもより特徴的かつ詳細な事例を抜粋する形でまとめることとしました。

さて、以上の事例から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか?

この記事をまとめている本日2021年8月時点で、国内に限らず世界中で様々な出来事が起こっています。

新型コロナウイルスの蔓延は依然として続いています。

また、発達した前線が長期にわたって日本列島を覆い、災害級の大雨をもたらしています。

世界に目を向けてみると、8月14日にはハイチ西部を震源とするマグニチュード7.2の大地震が発生。これまでに死者は2000人を超え、負傷者は1万2000人以上、行方不明者は300人以上となっています。

さらに、アフガニスタンでは武装勢力タリバンが8月15日に首都カブールを掌握した後、多くの人たちがアフガニスタンからの脱出を求めてカブール空港に押し寄せ、空港は混乱状態に陥りました。

未曾有の災害や政変は、その危機を脱出するために、そして危機を逃れた後の復興を実現するために多くの資源が必要となります。

COVID-19に関しては、ワクチンの開発と接種、また、感染者や重傷者に対する病床の確保と医療体制の構築が急務となっています。

震災からの復興には、国内外から拠出する支援金および復興計画や実施事業者が必要となります。

政変の後は、政権によって執られる政治体制および方針と、それらの当事者となる人々との対話ないし議論、または試行錯誤が必要となります。政変のあった国と近隣諸国、また、政治的・経済的な利害関係者との調整も必要となるでしょう。

また、何よりそれら大きな変化による精神的なショックを感じている方もいらっしゃるでしょう。

そのような状況下において、本書『ショック・ドクトリン』の事例では、大きな政治的決定が人々の預かり知らぬ間に行われていたり、惨事に便乗する形で利益を得ようとする人々がいることを描いてきました。

今まさに、私たちの身の回りではどのようなことが起こっているでしょうか?

私自身、自分の身の回りと同時に、広く社会や国際関係についての視点もバランスよく持ち続け、醒めた目と冷静な判断を今後も心がけていければと感じます。




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