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【読書記録】「農業を株式会社化する」という無理【新米米農家後継者が読み解く】

今年2020年1月から、私事ではありますが、人生の大きな転換期を迎えることとなり、三重県伊賀市の実家の米づくりを継ぐこととなりました。

兼業農家として代々米づくりを営み、先祖の代から受け継いできた土地や景観を守り、地域の人々や親戚との関係を結び続けてきた営みですが、父の病気を機に、それらを唐突に受け継ぐこととなったのでした。

人生の大きな流れのはたらきによって、また、その大きな流れのはたらきを受け入れることと覚悟を決めるという局面が、今年早々に訪れたのでした。

以来、京都を拠点にした組織運営のファシリテーターとしての仕事と人生で初めて後継者として取り組む米づくり二拠点生活が始まったわけですが、その模様は以下のマガジンをご覧いただければ幸いです。

後継者となって1年目の米づくりですので、わからないことばかりです。トラクターや田植え機、コンバインといった機器の扱い方から、JAに対する苗の発注から田植え、稲の生育と収穫、発送までの一連のプロセス……。

それと並行して、こんな問いが自分の中に浮かんできたのでした。

今、自分が取り組もうとしている米づくりというものは、農業だ。それは、わかる。』

『では、この米づくり、農業というものは、別の産業から見て、どう言った位置付けにあり、意味を持つのだろう?』

『今の社会において、この米づくりや農業というものは、どう言った立ち位置にあり、意味を持ちうるのだろう?』

機器の扱い、米づくりの一連のプロセスを学びながら実践しながら習得しつつ、この問いに対するヒントとして思い浮かび、読み込んだ本が、この『「農業を株式会社化する」という無理』です。

今回のnoteでは、私自身が約一年を通じて学び実践し、体感した米づくりの営みの視点から、本書を紐解いていこうと思います。


『「農業を株式会社化する」という無理』との出会い

本書との出会いは、昨年の10月頃。

企業内の組織変革プロジェクトにファシリテーターとして関わりながら、ご自身のお住まいの小田原で梅農園をされている先輩から紹介されたことがきっかけでした。

「えぇ〜……!?農業って、株式会社的な運営は無理なの?」

インパクトのあるタイトルを知って早々、出鼻を挫かれるような思いがしました。

「では、その株式会社的な運営とはどう言ったことを指すのか?」

「どう言った理屈から、農業は株式会社的な運営は『無理』なのか?」

本書を知った当初は深く考えもしませんでしたが、その後、今年はじめになってその存在を思い出し、改めて読み込んでみようと思った次第です。

『「農業を株式会社化する」という無理』の構成

本書は、内田樹さん、養老孟司さんをはじめとする著述家、また、農業や地域活性に携わる方々による「これからの農業のあり方」をテーマとした論述を一冊にまとめたものです。

巻頭巻末には、内田樹さんと養老孟司さんによる対談に加え、

表題作である内田樹さんの『「農業を株式会社化する」という無理』

藤山浩さんの『年に1%ずつで田園回帰はできる』

宇野豊さんの『農本主義が再発見されたワケ』

平川克美さんの『贈与のモラルは再び根づくか』

と言った内容で構成されています。

なぜ、「農業を株式会社化する」ことは無理なのか?

対談ベースの養老孟司さん含め、五者五様の表現でありましたが、

『「なぜ農業を株式会社化する」ことは無理なのか?』

という問いに対しては、

『人類にとって、農業とそれ以降の産業は、成り立ち・歴史・システム・思想が大きく異なるから』

というのが、一読してみたところの答えのようです。

この一文に集約されるものの、それだけでは少しわかりづらいため、もう少し掘り下げて農業という産業、営みについて書いていきたいと思います。

人類史における農業の成り立ち

農業が始まったのは約2万3000年前ですが、株式会社は産業革命以後に広がった企業形態です。人類はその歴史のほとんどの期間、株式会社的な経営と無関係に農業を営んできたのです。p10

農業の存在理由は人間を飢えから守ることです。それに尽くされる。去年と同じだけの食物が安定的に供給されればとりあえず満点というのが農業です。「食えればいい」のです。農業は飢餓ベースで構築された技術です。農作物を商品として市場に売り出して利益を出すということが農業従事者の主たる関心になったのは、ごくごく近年のことです。人類史の90%以上の期間、農業は集団のメンバーたちを飢えさせないために存在していた。p10-11

ところが株式会社的な発想をする人たちは農産物は商品ではないということがわかっていません。たしかに農産物は一定以上の数が恒常的に供給されている限りにおいてはあたかも商品のように化象します。車やパソコンと同じように扱うことができる。需要が増えれば値上がりして品薄になり、需要が減れば値下がりして在庫がだぶつく。でも、供給量があるレベルを割った瞬間に農産物は商品ではなくなります。「それがないと死ぬ」というものになる。そういうことは、食物以外の商品については起こりません。p11

以上、内田樹さんの『「農業を株式会社化する」という無理』部分からの抜粋ですが、ほとんどこの記述に尽くされるように思います。

私自身、「米が食えなくなる」という不安を感じたことはありません。

それは、「米が無いのならパンを食べたら良いじゃない」というマリー・アントワネット的な発想があったからではなく、実際に自分の家で米を作ってきていた、という実感があり、どのような営みを経て米ができるのか、というプロセスについて、おぼろげながらも父や祖父のやり方を見て体感してきたからだろうと思います。

これを書いている2020年11月時点で、再び世界中でコロナウイルスの感染が拡大していますが、そういった中での「これからどうなるんだろう?」「稼ぎは?仕事は?」という懸念に対しても、もちろん日々不安に感じながら奮闘しつつも、「どうにか、家の米があれば食べてはいけるんじゃないか」という感覚があります。

農業は飢餓に対する人類の取り組みであり、ある一定の収穫量(供給量)を下回ったとき、それは文字通り、命をかけて奪い合いが起こりうる生存のための資源となる。

この感覚は、とてもしっくりくるような気がします。

ファシリテーター的視点から見る農業について

人類誕生以来の組織の発展という観点では、『ティール組織』という組織経営の概念があります。

人類はその誕生以来、集団や群、あるいはより制度化された組織を作るにあたって、農業革命(狩猟最終生活から農耕生活への移行)や産業革命(蒸気機関の発明をはじめとする技術発展)といった技術的・意識的なブレイクスルーに伴い、組織の組み方・あり方を発展させてきました。

この『ティール組織』においては、人類の組織形態は最も近年になって現れ始めたティール段階をはじめ、大きく5種類の組織について紹介しています。

このうち、いわゆる株式会社的な特徴に見られる科学的・機械的なマネジメントの出現、イノベーションの創出、成果に対する効率性=生産性の追求といった点が顕著に現れてくるのは、産業革命以降に広がり、今も世界の大半の組織に当てはまるオレンジ段階においてです。

一方、農業はそれ以前のアンバー段階(長期的視点に立った計画策定、分業の始まり等)ないしレッド段階(強力な上下関係による原始的な王国の誕生等)に生まれ始めた産業です。

時間的な期(スパン)の考え方、生産性に対する意識の違い(欲望を満たすべくより多くを求めるか、お腹の許容量を満たす量が収穫できればOKか)等、組織論としても産業構造そのものとしても、人々の意識についても、農業とそれ以降の産業である工業、サービス業は違った成り立ちをしていることが見て取れます。

(あくまで大事なことは、組織がどの段階にあるかの分類ではなく、様々な段階にある組織が並存している世界に自分がどう向き合うか、です)

組織形態1つとっても、工業、サービス業等では株式会社をはじめとする法人企業であるのに対し、米づくりは集落単位の取り組みです。法人企業のように(法人企業においても企画→製造→流通→販売という一連の企業群の連携という考え方はありますが)、米づくりに関しては農家一戸でその取り組みを完結できるものではありません。

それは、集落単位での水路保全、除草作業といった、作物の栽培以前の環境保全が必要になるためで、そういった作業では共同体としての枠組みで取り組む必要があります。

また、私自身の地元でもそうですが、そういった水路保全や除草作業といった取り組みは、土日の朝から出かけていって地域の皆さんと行うものです。事業に取り組む労働者的観点で言えば不払い労働であり、直接、金銭的価値に繋がるものではありません。

この観点からも株式会社的・営利企業的な観点から見れば、そぐわない取り組みです。人件費その他のコストがかかりすぎる。

しかし、そういった不払い労働によって、米づくりにおいては稲が実る圃場整備に繋がり、田園風景およびその地域における生態系維持自然環境の保護につながっているのです。

自然環境、生態系を維持するという農業の役割

たとえば田んぼには、私たち「農と自然の研究所」の研究で、5868種の生きものがいることが明らかになりました。虫だけに限定すれば「害虫150種、益虫300種、ただの虫1400種」です。「ただの虫」が圧倒的に多い。つまり、有用でも有害でもない生きものが圧倒的に多いわけです。草もそうです。だから田んぼは「自然な」感じがするのです。p141

そうした、「ただの虫」とか「ただの草」が、いまは絶滅寸前になっています。生きものたちは百姓より先に危機に瀕しているのです。「自然を大事にしましょう」というのは、今日では国民的合意でしょう。それなら百姓はどういう責任と役割を引き受けたらいいのでしょうか。農業はどうしたらこうした生きものたちを、絶滅の危機から救うことができるのでしょうか。p141

私がトラクターで田を耕していると、セキレイという小鳥が掘り返した後の土にいる虫やミミズを狙って、ちょこまかと近くへ歩いてきたりします。

また、白鳥にも似たサギという大型の鳥が畦道にたたずんでいるところを目撃したりもします。

上記の5868種の田んぼの生きもの等に関する引用は、『農本主義が再発見されたワケ』部分の宇根豊氏のものですが、農業はただ「自然を相手にしている」というだけでは表現しきれない多様な生物種と共存している営みであることが感じられます。

私の故郷である三重県伊賀市の実家の田んぼもまた、田植えの時期に苗を植え、水を十分に満たしてやると、いつの間にかお玉杓子が泳いでいるのが見え、夏の晩にはカエルに成長した彼らがゲコゲコと大合唱をしている中で眠りにつきます。

私がまだ幼い頃には、同じく夏頃には田んぼには蛍が見られました。一定の感覚で明滅しながら、フワ〜っと稲の間を飛んでいる蛍を見に、家族で夜中に出かけて行ったものですが、最近では地域の上流でしか見ることがなくなってしまいました。

毎年毎年、当たり前のように見えていたはずの景色が、いつの間にやら失われてしまう……そう思うと、宇根さんの言葉が重く響いてきます。

そして、この米づくりを行うことで共に生きているはずの生きものたちを、どう守っていけるのだろうか?という気持ちにもなります。

もう1つだけ、田植え体験をさせる百姓たちに伝えて欲しいのが、「稲3株のまわりで、お玉杓子は35匹育ち、とんぼは3株で1匹育っている」という事実です。(……)稲3株から、ちょうどご飯茶わん1杯の米が取れます。(……)「あなたが茶わん1杯分のご飯を食べるから、稲株分の田んぼが必要になって、百姓はせっせと手入れして、お玉杓子35匹が育つ。もし、あなたがご飯を食べなかったら、お玉杓子は育つことはできないんですよ」と、こう言ってほしいのです。「ご飯を食べるということは、お玉杓子とつながっているんだ」と。p154-155

自然からの贈与と、天地一体の感覚を扱う生業

今年の春に父の葬儀を執り行った経緯から、仏教に関心を持ち始め、探求を進めています。

その仏教の考え方の中に、『草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)』という考え方があります。これはインドの釈迦由来の仏教では無かった考え方であり、日本に入ってきて後に育まれた思想で、人間以外の草木や国土にも仏性があるというものです。

元々が八百万の神を認め、自然の中にもいのちがあることを感じる精神性を持っていた日本人にとって、仏教における神秘・聖性は何も人間の精神に限ったものではなく、自分たちを取り巻く自然の中にもある、というのはごく自然なことだったのでしょう。

この、草木国土悉皆成仏という感覚、あるいは縁起という仏教由来の感覚が、米づくりに取り組む中で幾度となく自分の中に去来したのでした。

自分がこうして米づくりができるのは……

先祖代々、守られてきた土地があったから

多様な生物種、土中には微生物といった生態系が存在してきたから

地域として、この田園風景が守られ、共同体の営みが続いてきたから

田植え機やコンバインといった科学技術の恩恵に浴することができるから

だからこそ、できるわけです。

奇跡のような巡り合わせの中で、自分以外の多くの存在に生かされていることを実感します。

米づくりは事業体として農家一戸では完結できないと前述しましたが、それどころではありません。

もちろん、人間以外を相手に取り組む営みであるため、たとえば曇りや雨が続き、日照時間の少なさから不作、凶作となる等のリスクもあります。

人間にとって都合の良いカレンダー通りの予定に従って、空は晴天になったり、雨を降らせることもありません。

ですが、そういった不確実性や変動性と折り合いながら、2万年以上にわたり、人類はこの取り組みを続けてきたわけです。

現代は「VUCAの時代」であると言われます。これは、Volatility(変動性)Uncertainty(不確実性)Complexity(複雑性)Ambiguity(曖昧性)という4つの言葉の頭文字を合わせた言葉で、私たちが生きる世界の状況を表した概念として、今日、広く受け入れられている考え方です。

そういった点では、「自然」という人の思うままにならない存在と折り合いながら、農業は様々に形を変えつつも、存続してきた営みなのかもしれません。

株式会社化が無理な農業について、これから何が語られるべきか?

少し、趣旨がずれるかもしれませんが、2012年のこの記事を思い出しました。

国連人口基金(UNFPA)「世界人口白書2020」によれば、種としての人類は2020年時点で78億人に到達しようとしています。

しかし、その未曾有の繁栄と引き換えに、地球温暖化、環境破壊、生物種の絶滅といった危機が現在進行形で世界を覆っています。

人間を頂点とし、自然は征服し、従属させる対象であるという価値観に基づいた人類の発展というストーリーは、もしかしたら、人とそれ以外を分断していくプロセスだったのかもしれません。

ですが、そもそも今、私たちがこの世界で生きていくことができるのは、人間以外の様々な要因によって多かれ少なかれ助けられているためです。

この、「多かれ少なかれ人間以外の様々な存在と関係を持ちながら、その中で支えられ、与え合い、生きている私」という感覚に立ち戻ることができれば、上記の記事にあるように依存先が増え、「地球環境の中にいる人」としての自立に繋がるのではなかろうか。

自分にとって『自立』がどういった意味を指すのかは、現時点で深めきれていませんが、そんなふうに思います。

おわりに

「農業を株式会社化すること」は無理なのか……という問いから始まった今回の探求ですが、読み込んでいく中で自分が無我夢中で取り組んでいた米づくりの日々に、新たな色合いが発見されたような、そんな感覚があります。

人生の転換期に、さらに今年初めから新型コロナウイルスの世界的なパンデミックという社会の変革期も重なり、その中で本当に大事にしていきたい感覚は何なのか……少しずつ自分の中に芽生えていたものが、体験を通して結実してきたように思いました。

組織変革のファシリテーターとしての自分、農家の長男に生まれついた自分、米づくりに精を出す自分といった多面的な自分が、自然体験と仏教という精神的な支柱によって1つの統合に向かっている……ような気もします。またさらに更新されるかもしれません。

結果として、『草木国土悉皆成仏』。人と自然は一体であり、自然の中にも人智を超えた叡智を感じることができる。人はまた、人がこれまでの歴史の中で生み出してきた科学や技術、学問の叡智と自然の持つ叡智を統合して生きていくことができるかもしれない存在。農業においては、その一端に触れている。

そんな農業論と言うのか、人生観というのか……そういったものを今回のnoteのまとめの中で見出すことができました。

今後は、実家の米づくりという自然環境・地域文化保全活動である農業の体験と、20代に取り組んできた組織論、場づくりの叡智を重ねながら、その学びを発信していければと思います。

よろしければ、お付き合いください。

参考文献

●『日本習合論』内田樹

今回の書籍『「農業を株式会社化する」という無理』の著者の一人である内田樹さんの最新刊。『習合』という概念を切り口に、日本の共同体意識、宗教、民主主義、農業を紐解く一冊。


●『INTEGRAL LIFE PRACTICE 私たちの可能性を最大限に引き出す自己成長のメタ・モデル』ケン・ウィルバー他

フレデリック・ラルー著『ティール組織』に応用された人の意識の発達モデル『インテグラル理論』。その『インテグラル理論』を実生活で実践していくための手引書。体(Body)、心(Mind)、スピリット(Spirit)、シャドー(Shadow)の4つの構成要素をどう統合的に扱っていくか?を具体的なワークと共に紹介している。


●『社会的共通資本』宇沢弘文

2014年に逝去した経済学者・宇沢弘文さんの書。アメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンに端を発する制度主義経済学において中心的な要素である社会的共通資本(Social Common Capital)について紹介している。市場や政治機構に任せてはならない、人々が豊かに社会生活を送るために不可欠な資本とはどういったものか?を探求するのに最適の一冊。


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