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【読書記録】純粋でポップな限界のまちづくり: モテるまちづくり2 (まち飯叢書)

今回の読書記録シリーズは、私の友人(と思っている人)であり、まちづくり活動において先輩にあたる谷亮治さんの著作の三冊を、今の私の立場から読み解こう、というものです。

今回の『純粋でポップな限界のまちづくり: モテるまちづくり2 (まち飯叢書)』は、その二冊目に当たります。

前作は、『モテるまちづくり:まちづくりに疲れた人へ。 (まち飯叢書)』

三冊目に、昨年の2020年12月に出版された『世界で一番親切なまちとあなたの参考文献-人見知りで世間知らずな俺がまちづくりを始めて20年が経ったんだが』が続きます。

いずれも、著者のこだわりとセンスを感じるタイトルです。


本記事を書く経緯と私について

今回扱う三冊の著者である谷さんについては後述するとして、今の私の立場とはどういったものかを著してみましょう。

今の私の立場とは、昨年一月に先代から家業の米づくり(兼業農家)を引継ぎ、現在は実家のある三重県と京都府の二拠点での生活を両立させようと奮闘している組織変容のファシリテーター、というものです。

昨年の今頃、父から米づくりを継ぐことを決めて以来、父の友人や地域の先輩方にご指導頂きながら、どうにか収穫まで行うことができました。

それまではあくまで外からやってきた人として、団体、企業、プロジェクトの現場に入らせていただき、どのような人が集まり、どのような課題があり、どのような未来を望んでらっしゃるのか…そういったことをヒアリングし、対話の場を設け、次のステップを見出すための機会をご一緒させていただいておりました。

ところが、あまりにも急だった昨年一月の引継ぎ以降、いわば事業承継の当事者として、また、米づくりの現場においては地域の人間関係の当事者として、降りかかってくる難問にこれまでの現場で培った知見をフル活用して取り組むこととなりました。(その経過は、以下のマガジンにまとめました)


そんなこんなで2020年12月。

まちづくり現場における先輩であり、友人(と私は思っている)である谷さんがご自身の三冊目の本『世界で一番親切なまちとあなたの参考文献-人見知りで世間知らずな俺がまちづくりを始めて20年が経ったんだが』を自費出版されるという報せを受け、年明け以降に読み込み、今に至ります。

一年間、ローカルにどっぷり浸かった私にとって、新冊もさることながらそれまでの二冊も目から鱗の発見が次々溢れてきたため、「よし!これを機に谷さんの三冊の読書記録をまとめよう!」と思い立ったわけです。

(本来であれば、三冊まるごとまとめたnoteを書こうとしていたのですが、文字数が10000文字を超えたあたりから「まず、一冊ごとのまとめを出していこう」と方針を切り替えることになりました。)

以上、極めて個人的な興味関心から今回のnoteは書き始められたわけですが、私自身の今後のための勉強記録として、また、著者の願いと併せて表現すれば「この学びが公共財となること」を願い、以下、書き進めていきたいと思います。

著者・谷亮治さんと「まちづくり」の定義について

今回の三冊の著者である谷亮治さんは、1980年大阪生まれ。大学時代から住民参加のまちづくりの実践と研究に携わり始め、その後大学院へ。大学院での研究の傍らまちづくりNPO法人の事務局に務めて現場経験を積まれ、現在は社会学博士として、京都市まちづくりアドバイザーとして、あるいは専門社会調査士として、その他大学講師や作家としても活動されています。

まちづくりと聞いて思い浮かぶイメージに、「コミュ力が高くて、人間が好きで、お祭りやイベント大好き!ワッショイ!な、イケイケな人が集ってワイワイやっている取り組み」というのもあるかもしれませんが、まちづくりに出会った当初の谷青年はいわゆる「ぼっち」タイプだったそうです。

(イケイケでキラキラしたまちづくりのイメージは、studio-Lの山崎亮さんが現れたり、『ソーシャル〇〇』『シェア〇〇』といった用語がトレンドとして頻出するようになってからのイメージとも言えるのかもしれません。)

そんな「ぼっち」タイプの谷青年は、大学のゼミ活動でプレ山崎亮時代のまちづくり活動に関わり始めます。

まちづくりとは、自分だけではなくまちという広い社会のために、金銭的に儲かることが約束されたわけでもなく、称賛されるかもわからない活動です。それにも関わらず、多くの場合ボランティアとして取り組まれている地域の諸先輩方の姿に感動したことが、その後の進路のきっかけでもあったようで、その後も谷青年は現場に携わり続け、そこで得た学びを書籍や論文にまとめることで、今に繋がっているとのことです。

私が彼と初めて出会ったのは、当時住んでいた大阪から京都へ引越しする前後くらいの頃です。彼は『モテるまちづくり』を書き上げたばかりで、白衣姿にゆるいパーマ、眼鏡、眼鏡の奥の笑っていない目に、頬に張り付いた笑顔という風貌で、マッドサイエンティストを名乗りながら連続講座をされていました。元ぼっち青年は、サブカル系まちづくりお兄さんに進化していたようです。

変な人だなぁ……と素直に受け取りつつ、その連続講座の教本になっていた『モテるまちづくり』が本当に面白かった。これは面白い!と書いた私の投稿等をきっかけに、「私も読んでみたい!」「どこに問い合わせれば良い?」といった問い合わせがやってきて、本の紹介・仲介等をしたのも良い思い出です。

その後、私は本格的に京都に移り住み、NPO法人場とつながりラボhome's viのメンバーとして京都市伏見区のまちづくり事業に関わることになるのですが、そこでまたご縁があり、京都市まちづくりアドバイザーの谷亮治さんと再会したのでした。

現在でも、彼が書籍やnoteで時折放り込むまどマギネタ、ジョジョネタ、その他サブカルネタにクスリとさせられつつ、勉強させてもらい、なんだかんだ仕事以外の場でも付かず離れずで関係が続いている、ありがたいパイセン的な存在です。

本書における「まちづくり」とは、「まち(の人なら誰でも使える公共財)づくり」と定義されています。

公共財」とは、「非競合性あるいは非排除性の少なくとも一方を有する財」と定義される経済学由来の用語です。

非競合性とは、ざっくり「資源の奪い合いにならない度合い」を言い、非排除性とは、ざっくり「利用者を選ばない度合い」を意味します。

「まちの人なら誰でも使える財産を創り、育て、しまう営み」……そう言った営みを谷は「まちづくり」と呼んでいます。

さて、本書を読み進めるための準備が整ってきました。

以降、本書の誕生の経緯を見ていきましょう。

本書のきっかけとなった、著者が参加した読書会での一言

2014年の前作『モテるまちづくり:まちづくりに疲れた人へ。 (まち飯叢書)』の出版以降、著者である谷氏は各地のまちづくり実践者や研究者による『モテるまちづくり読書会』に参加することができ、2017年7月時点で、55箇所、延べ1500人以上の実践者から生きたフィードバックを得られたといいます。

今回の『純粋でポップな限界のまちづくり: モテるまちづくり2 (まち飯叢書)』は、その続編にあたり、読み方としては『純粋(ピュア)でポップな限界(ギリギリ)のまちづくり』、『ピュアでポップなギリギリのまちづくり』だそうです。

前回のタイトルにも増して、意味がわからない。が、そのタイトルの謎は本書を読み進めていく上で解けていきました。

さて、著者によれば、今回の探求のきっかけになった言葉があるそうで、それはある読書会での参加者による一言だったようです。

『なんか、まちづくりって、専門家とか、人気者にしかできないもののように見えて、私からは遠く感じるんですよね』

ここでまちづくりに取り組む一人である著者は、思いを巡らせます。

『まちづくりと聞いて思い浮かぶのは、大学で研究する学者、行政、商店街、町内会、NPOといったプレイヤーが、お祭りや地域清掃といった何がしか良いことをすることかもしれない』

『一方で、そういう「周到に計画し、意図して、しようと思って、まちを"つくる"」営みは、どこか私たちの日々の暮らしから遠い、特殊な出来事と捉えられてはこなかっただろうか』

『にも関わらず、妙に「まちづくり=良いこと」というイメージばかりが先行し、その組織やイベントなりに参加しない(余裕がなくてできない)人々を強引に巻き込もうとしたり、そういった組織やイベントに協力しない(できない)人々を「意識の低いフリーライダー」と呼ぶことで、抑圧してきたりした側面は、本当になかっただろうか』

そう考えた時、既存のまちづくりという営みへの理解の変更が必要になるかもしれない。

こういった背景から、本書では

『現在の見方の枠組みを取り払って見えてくる、まちづくりの原点(まちづくり0.0)とは?』

という問いを探求していくこととなりました。

私たち読者は著者と共に旅路をゆく冒険者という位置付けです。

それでは、以降、見て参りましょう!

日本におけるまちづくりアップデート史(1.0〜5.0)をおさらい

まず、『現在の見方の枠組みを取り払って見えてくる、まちづくりの原点(まちづくり0.0)とは?』を探求していくためには、今、私たちはどこにいるのか?どこから来て、どこに向かおうとしているのか?という現在地を知らなければならない。

そういうわけで、まず本書は戦後の日本におけるまちづくり史をざっと見ていくことから始まります。

■1.0:中央集権的な公共財供給 ex.国土開発

戦後日本は、太平洋戦争の焼け野原から、急激な復興と高度成長、人口の急増、産業構造の転換、農村から都市への人口移動といった変化を経てきたことはよく知られる。急激な都市構造の変化と、大量の公共財需要に対応するために、国家や自治体が公共財を独占的に供給してきた。これは、いわば「中央集権的行政主導まちづくりの時代」だ。p61-62

■2.0:オルタナティブなアンチテーゼ ex.公害反対運動

「まちづくり1.0」のもたらした中央集権的な「国土開発」は、確かに国家全体の繁栄に貢献した面はあっただろう。一方で、「全体最適、部分不適」の状態をも生み出していった面も忘れてはならない。急激な産業構造の変化がもたらす弊害は、工場が出す排煙や廃液がもたらす公害問題や、高層建築物がもたらす日照問題といった社会矛盾という形で人々を苦しめた。p63-64

こういった、地域へのしわ寄せを必然的に行ってしまう「国家や企業が上から大規模に行う硬質な国土開発」に対するアンチテーゼとして、「生活者が下から小規模に草の根的に行う」ものとして各地で出現したのが、いわゆるひらがなの「まちづくり」であった。これは例えば公害反対運動など、生活者の権利擁護運動という形で現象した。p64

■3.0:公共事業計画策定へ段階への参加 ex.市民参加

「まちづくり2.0」は、いわば「まちづくり1.0」へのアンチテーゼとして提案されたものであった。しかしこの運動も、反対だけでは十分ではなくなってくる。ある程度運動が進めば、単に反対するだけではなく「そもそも我々はどこを目指すのか?」「わたしたちのまちをもっとこうしたい!」という未来への提案を考えねばならなくなってきた。そこで、神戸市真野地区や東京都世田谷区などで見られるような、数十年スパンで立てられる地域まちづくり計画といったものが作られるようになってくる。p66

このように、行政施策の計画段階に住民が参加する、いわゆる「市民参加」時代のまちづくりを、「まちづくり3.0」と呼ぶことができる。行政サービスの内容設計に、有志が意見を言う「審議会制度」や「パブリックコメント」などの市民参加制度はこの延長線上にある。p66

この「まちづくり3.0」の流れを汲み、九◯年代末から、自治体が小地域社会に地域政府を立ち上げようとする動きが現れ、一定の到達点を示しつつある。「地域協議会」とか、「自治協議会」というような名前で呼ばれていることが多い。p67

■4.0:公共事業実施段階への参加 ex.市民協同

「まちづくり3.0」が行政の事業計買う策定段階への参画であったのに対し、九◯年代からは「手も出す」。すなわち行政事業の実施段階にも参加する時代に入った。これを「まちづくり4.0」と呼ぼう。「まちづくり4.0」とは、いわば「協働とパートナーシップ」の時代のまちづくり像だ。このことは、一九九五年の阪神大震災と、そこで存在感を発揮した、いわゆる「志縁型ボランティア活動」の影響もあろう。地域活動というのは、義理と厄介、いわゆる「しがらみ」に半ば強制されながら、自身の居住地に密着した課題に取り組むものと思われていた公共財供給活動の射程に、「遅延に滋賀らまない有志活動家」が参画した時代であった。p69

しかし、4.0モデルにも弱点がある。彼らの活動は、人々のニーズありきではなく、あくまでも「やりたいことありき」になりがちだ。(…)自治体サイズで作られる計画と、実際の人々と日常的なニーズとの間には必然的にズレが生じる。また、「やりたいことありき」であるということは、本当に人々にとって必要なことが提供されるとは限らないし、網羅的なサービス供給にも向かないということでもある。p69-70

■5.0:ビジネスの手法を用いた公共財供給 ex.コミュニティ・ビジネス

そしてついにまちづくり、すなわち公共財の供給をビジネスの手法を用いて行う時代が出現した。「まちづくり5.0」は「まち飯モデル」とでもいえよう。「まち飯」とは「まちづくりで飯を食う」モデルである。最近は、まちづくりは税ベースで行うのではなく、一種のビジネスとして対価を得て成立していくべきだという考えがトレンドになってきているように見える。p71

フリーライダーが発生する非排除的な純粋公共財ではなく、対価支払を約束できる限定したメンバーへのみ排除的にクラブ財を供給することで、税に頼らず成立するモデルも盛んだ。これは「シェアビジネス」とか「シェアコミュニティ」みたいな形で現象していると言えそうだ。地域ブランドのような公共財を演出し、それで付加価値をつけたモノを売って間接的に儲けるとか、様々なモデルが試行されている。p71-72

5.0の弱点はいうまでもなく、あくまで商売ベースなので、普通のお商売と同じく、供給に波があるということだ。2.0モデルで供給される上下水道はふつう止まらないが、5.0モデルで供給される公共財は、売れなければ止まる不安定さを抱えている。ここにおいては、フリーライダーへの排除構造は消えたわけではない。むしろ、ビジネスの形態を取ることで先鋭化さえしたかもしれない。p72-73

以上までのまちづくりアップデート史を概観する中で、読者としてはこう思うかもしれません。

「じゃあ、まちづくり6.0って、どうなるんだろう?」

ここで、著者は勿体ぶります。

だが、冒頭でも予め記しているように、そのようなまちづくり像の提案は、本稿の目下の目標ではない。p76

ここで著者が引き合いに出すのが、「モテるまちづくり」と「まちづくり0.0」の探求はどのような形で交わるのか?です。

そこで登場するのが「モテるまちづくり」の事例であり、京都市伏見区の活動家T・H氏です。

このモテまち理論に当てはめて、実際に「モテるまちづくり」事例をフィールドワークしてきた結果、著者ははからずも、「まちづくり0.0」に行き着いたのである。p77

前人未到の奥深いジャングルに入っていった特派員が目にしたものは!?的な報告感を感じます。

それでは、以下、まちづくり活動家であるT・H氏とその活動ぶりとはどういったものだったのかを見ていきましょう。

まちづくり0.0≒モテるまちづくり?実践者T・H氏の物語

まずはじめに、T・H氏の活動実績を見てみましょう。

■団地の管理組合の役員(2011年)

■伏見の歴史や文化を学ぶまち歩きイベント、ゼミの主催(2011年)

■空き家の実態に関するデータ収集・調査(2012年)

■地域の歩きやすい道路マップの作成(2013年)

■伏見区醍醐地域の魅力を発掘・広めるためのまち歩きイベントおよびマップの作成(2014年)

■伏見区内の市民活動家・ユニークな店舗を紹介するフリーペーパー『2349』の作成(2014年)

市民講座の開催等、参加対象者を限定しない営みはまさしく『非排除性』を備えた公共財の提供であり、まちづくり活動を呼べるものでしょう。

上に並べただけでも壮観なものですが、T・H氏は長年民間企業で務めてきた方であり、それまでまちづくりとは縁遠い生活を送られていたそうです。

そんな彼にまちづくりに関心を持つきっかけとなったのは、団地の管理組合の役員経験だったそうで、ある時、団地の掲示板に貼ってあった、近隣の大学生が主催するまちあるきイベントのチラシを見つけたことでした。

それを見たT・H氏は、「なんやこれ?と(興味を持って)、20年すんだ地元のまち歩きに初めて参加したんです。それがおもしろくて、彼ら学生たちと親しくなり、彼らの企画するいろんなまち歩きに参加するようになったんです」という。p88

そこでT・H氏は、学生たちが「まちづくり」というものを専攻しており、住民との交流を望んでいることや、団地の夏祭りや駅前まちづくり協議会が主催する春の祭典にも参加していることを知る。「それに刺激を受けた、こういう活動って面白いな!ぼくもやりたいな!と思いましたね」という。p88

T・H氏の最大の活動動機は「面白い人と出会うことへの好奇心」であり、そのためまちづくり活動に関わるノウハウもネットワークもなかったところから様々な公共団体のイベントに顔を出すようなり、まちづくり活動を市民自ら立ち上げ運営していく伏見区の事業にも参加していくこととなりました。

さらに、T・H氏はフリーペーパー『2439』を発行することで、T・H氏は、まちの独自のネットワークを形成することにも成功していきます。

『紙媒体には人と人をつなぐ力があると思います。ネットで見れる人と見れない人を極端に分けるんですよね。でも紙は手に取れば誰でも見れる。紙媒体は面白いんですよ、手応えがありますね。手渡しして話すと伝わりやすいし、話も弾む。名刺を渡すだけでは伝わらないですよね』p92-93

「僕らは、"あなたのことを宣伝するから取材させて"と言って取材するんですね。取材に行く動機は、僕の場合、"この人の話を聞きたい!"という好奇心ですね。そうやって話をしてつながりが深まると、自分が得られるものも大きい」(同)

「自分は、"文字(記事)にすること"に意味を感じているんですね。地域で頑張っている人にスポットを当てる、人と人をつなぐ取り組みとして、"文字にする"ということをしたい」(同)

「皆さん忙しい方々ですから、普通、会いたい人に"私が会いたいから会ってくれ"と言っても会ってもらえないですよね。でも"みんなのためになる広報誌を作るから会ってくれ"なら、会ってもらえるんですよ。『2439』は、人と人とをつなぐツールですけど、僕自身も『2439』を通していろいろな人とのつながりができた。取材という形で人とつながれるんです。取材はあくまでも手段です」p95

この、T・H氏の語りとフリーペーパー『2439』のモデルから、著者は4つの観点から特徴を説明しています。

1、公共財の結合生産モデル

T・H氏は、まちの人なら誰でも使える財産=公共財の供給を最終目的とするのではなく、自己実現を達成しようとする一連の過程の副産物として生み出している、という見方です。

「結合生産物」とは、「一つの生成過程から作り出される複数の異なる生産物」を指す経済学用語である。これを、「ボランティア活動の結合生産物モデル」として鵜野好文は紹介しています。(2013)

2、公共財を投資財として利活用

T・H氏は、「みんなのためになる地域の広報誌という公共財」を作るという大義の元、時間と労力を投下し、さらにその記者として自身を位置付けることで、自身と会う機会を高めようとしています。

この考え方を小野晶子は「ボランティア活動の投資モデル」として解説しています。(2015)ボランティアを経験や知識、技能が蓄積される一つの手段としてとらえ、将来的な就職や転職時の賃金上昇につなげるという利己的なモデルの応用です。

3、無意識的にまちづくりに貢献するフリーライダー

T・H氏にとって、氏が手掛けるまち歩きやフリーペーパー(=公共財)にいくらフリーライドされても、問題にならない。それどころか、氏の活動モデルでは、フリーライドされるほど、つまり利用者が増えれば増えるほど、まち歩きイベントは集客効果を発揮し、フリーペーパーは広報宣伝力が高まることになります。

その意味で、T・H氏にとってフリーライダーとは「目的達成を妨害する、納得し難い敵対的存在」ではなく、むしろT・H氏の「目的達成を無意識的に援助してくれる、友好的存在」とする見方ができます。

フリーライダーにはT・H氏を援助しようという気が全くなかったとしても、です。

これは著者によれば「無意識生産」(安岡正人,2010)という概念で説明できるそうです。

例えば、私たちは情報技術の発達により、日常的に自然に行う行為、例えばネット通販で物を購入するというプロセスから、「購入履歴」というデータを無意識に生み出すことができるようになりました。この「購入履歴」というデータを元に、ネット通販サービスは私たちに興味があるかもしれない商品のおすすめをする等もしています。

これは履歴データに限らず、他のことにも応用できると安岡は述べているそうです。

4、予期しない結果としてのまちづくり:防災と言わない防災

これは上記の「無意識生産」の類似の観点で、地域まちづくりの現場で「防災訓練をしましょう」と呼び掛けても、なかなか人が集まらない場合もあるが、「地域の運動会をやりましょう」「餅つき大会しませんか」と呼びかけることで、より幅広い人が参加し、人と人が顔見知りになり、炊き出しの準備などを一緒に体験することで事実上の防災訓練になっている、というような考え方です。

T・H氏も「地域の広報誌(公共財)を作りましょう」と呼びかけることで、自身の「面白い人と出会うことへの好奇心」から活動を始め(結合生産モデル:結果としての公共財づくり)、自身を記者として位置付けることで人と出会うための価値を高め(投資モデル)、発行されたフリーペーパーを何気なく手に取るフリーライダー(無意識生産)や取材された本人が広めていくことで、結果的に市民の活動やユニークな店舗が知られるようになり、まちづくりにつながっている(まちづくりと言わないモテるまちづくり)、という驚異的な現象が起こっています。

以上、「モテるまちづくり」のケーススタディとして、著者と読者はT・H氏のビルドゥングス・ロマン(著者はこの表現が好きなようです)の旅の過程に寄り添ってきたわけですが、上記で見てきた「無意識的結合生産プロセス」という鍵を手にしたとき、私たちは「まちづくり」についてこれまでの枠組みとは全く異なった「まちづくり観」を目撃することとなります。

これは、どういうことでしょうか?

まちづくり0.0の鍵「無意識的結合生産プロセス」が導き出すもの

それは、私達が無意識のうちに生産する、日常的な、ごくごくありふれた何気ない身のこなし、すなわち「ふるまい」が、実はまちの人なら誰でも使える公共財として、まちに影響をもたらす「まちづくり」である、という観点だ。p113

日常的な「ふるまい」がまちづくりである?一体どういうことだろうか?

再度確認してみよう、著者はこれまで「まちづくり」を、「まち(の人なら誰でも使える公共財)づくり」と定義してきた。

公共財とは、非排除的非競合的な性質を帯びる財です。

しかし、これまでのまちづくりアップデート史、さらにはT・H氏の「モテるまちづくり」ケーススタディを見てきた私たちは、人々の何気ない・意図しないふるまいがまちづくりに貢献していることを目撃してきています。

「ふるまい」がまちづくりになりうるを思う浮かべてみれば、

●オシャレな人が颯爽と歩けば、流行のファッションの発信地としての街:ひいてはよりオシャレな人が集まり、店舗の売り上げの貢献となるかもしれません。

●誰かに親切にされることで、親しみや居心地の良さを感じた場所:ひいては、引越しや移住を考えている人の場合には、その決め手になるかもしれません。

●繰り返される審査・淘汰圧に耐えてきたブランド(の歴史・物語):それらは商品を購入する際の、私たちへの信頼となります

●保護や維持されてきた景観・街並み:普段は意識すらしないかもしれませんが、私たちはそこに地域性や居心地の良さを感じているかもしれません

このような、本書の冒頭にあった「周到に計画し、意図して、しようと思って、まちを"つくる"」営みとは一線を画す、日々の営みから生まれる公共財、まちづくりの姿が見えてきます。

そして、これらは「まちづくりをしよう!」と呼び掛けて生まれているものではなく、結果として生まれているものです。

さらに言えば、私たちはそれらにフリーライドすることで、日常生活を営んできたのかもしれません。

この、まちづくりとして捉えるには限界ギリギリのまちづくり……まちづくりの原始の姿を、「まちづくり0.0」として著者は位置付けています。

〇〇まちづくりの三類型!「純粋」と「大衆」と「限界」

実は上記のような理解の枠組みの変更は、まちづくり領域ではなく芸術領域において鶴見俊輔『限界芸術論』(1967)が半世紀以上も前に既に語ったことと同じ構造だと言います。

芸術とは大きく三つに分類でき、

■純粋芸術(Pure Art)
専門家によってつくられ、専門家によって受け入れられる芸術。
建築、彫刻、絵画、音楽、詩など。
鑑賞には特別な教養や資金が必要である。

■大衆芸術(Popular Art)
専門家によってつくられるが、大衆に楽しまれる芸術。
映画、テレビ、歌謡曲、大衆小説、芸能・演劇、スポーツ等
産業や流通の構造変化、メディアの発達等により生じた。

■限界芸術(Marginal Art)
非専門的芸術家によってつくられ非専門的享受者によって享受される芸術。
落書き、手紙、早口言葉、替え歌、デモ等、一見芸術とは見えないような、
誰もが日常生活で繰り返している身振り手振り等も含め、
美的経験を作り出しているもの

このような形になるといいます。

それになぞらえてまちづくりを捉えると、どのように位置付けることができるでしょうか。

■純粋まちづくり(Pure Public Works)
登場人物:博士等学位を持つ研究者、行政職員、都市計画コンサルタント等
まちづくり1.0において最も取り組まれた領域。
専門性という純粋さを保つために、一般的市民感覚とズレてしまうことも

■大衆まちづくり(Popular Public Works)
登場人物:専門家に加え、NPO、町内会、有志サークル等
まちづくり2.0以降に発生。大衆の耳目を集めるため、キラキラしがち。
ポップな意匠、コミュニティデザイン、ソーシャル〇〇、シェア〇〇等

■限界まちづくり(Marginal Public Works)
登場人物:専門家、有志の集まりに加え、誰しも
1.0以前の、無意識的結合生産プロセスによって営まれる。
日々の生活のふるまい、笑顔、人のオシャレなど、ごくありふれた営み。

以上、ここまででまちづくりに関する新たな捉え方として、ピュア(純粋)、ポップ(大衆)、ギリギリ(限界)という三類型の提案を見てきたわけだが、ここで著者からふとこんな呟きがもれます。

「限界まちづくり」を知る以前の「まちづくり」とは、随分とピュアなものだったり、ポップでキラキラしたものだったりしたかもしれない。ポップな中でも、人気のものはキラキラなまちづくりとなっていっただろう。大衆の情熱を掻き立て、人気を得た人々が、人気のタレント的な存在へ、そして大学教員などのピュアなまちづくりの担い手へとステップアップしていく「すごろく的キャリアパス」というものが、どこかにあったのではなかろうか。p160

だが、それは同時に人々を、限られた資源を巡って相争う「終わりなき修羅界」に巻き込みはしなかっただろうか。(…)その競争で勝ち残る人はともかく、そこで置いていかれる人々からすれば、ピュアなまちづくりは「なんや、お高くとまってんなあ」と、ポップでキラキラなまちづくりは「人気者はいいよなあ」となる。p161

まちづくりが、ピュアでポップでないとできないものであるという枠組みにとらわれるならば、「ピュアでポップなまちづくりをするためのポストの奪い合い」が生じる。(同上)

だが一方で、そういうポップ→キラキラ→ピュアという階層的な競争の中で、多くの人々の貴重なエネルギーが浪費されているのも見てきた。そのようにしてこのような競争構造が、人々の善意を抑圧し、不自由にしてきた部分はなかったか。純粋な哲学がなければ、顔の広い人気者でなければ、街うくりの競争ゲームでは勝ち残れない。そんな抑圧が、人々が善なる行うをする自由を奪ってはなかったか。p162-163

一方、無意識的結合生産プロセスの概念は、これまで私達が囚われていた矮小な枠組みの中では、到底まちづくりとはみなされてこなかった「まちづくりの限界領域」を、改めて「まちづくり」とみなすことを可能にする。このギリギリのまちづくりという思想材は、旧来の「まちづくりとはピュアであらねばならない」「ポップでキラキラしていなければならない」という枠組みへの囚われと、そこから始まる、繰り返し終わることのない修羅的競争ゲームの輪廻から、人々を解き放ち、もっと自由に「まちづくりを遊べる」ようにする、解脱のために貢献するのではなかろうか。p163

限界まちづくりの営みの多寡が生む「対人不安」と「心理的安全感(心理的安全性)」

さて、限界まちづくりという、「周到に計画し、意図して、しようと思って、まちを"つくる"営み」とは一線を画す、まちの誰もが公共財を生み出し、供給し合い、享受しあっている(フリーライドしあっている)営みが見出されたことで、もう一つ重要な議論に進んでいくことができるようになりました。

その議論はどういったものでしょうか?それは、こんな事例から始まります。

<私立保育園>「子供の声うるさい」開園断念千葉・市川

千葉県市川市で四月に開園予定だった私立保育園が「子供の声でうるさくなる」などの近隣住民の反対を受け、開園を断念していたことが分かった。同市の待機児童は373人で全国市区町村で9番目に多い(昨年四月時点)。説明会に同席するなどして地域の理解を深めてきた市の担当者は「(住民の反対で)開演が延期したケースは東京都内などであるそうだが、断念は聞いたことがない。残念だ」という。p169

市によると、同県松戸市の社会福祉法人が三月に木造2階建ての園舎を完成させた上で、四月一日に定員108人(0〜5歳児)で開園する計画だった。予定地は市中心部に近い住宅街で、昨年八月に開園を伝える看板を立てたところ、反対運動が始まったという。(同上)

住民側は市や社会福祉法人に対し、計画撤回の要望書を提出。社会福祉法人による説明会も複数回開催されたが、「子供の声が騒音になる」「保育園が面する道路は狭いので危険だ」などの意見が強く、建設に着手できなかった。市によると、これまでも市内で他の保育園開園への反対派あったが、最終的に合意を得られていたという。p169-170

保育園という公共財は、確かに子どもを預けたい親にとってはありがたいものかもしれません。しかし一方で、保育園が建つことで子どもの声という騒音を無意識結合生産してしまいます。その上で、公共財はその性質である非排除性(利用者を選択的に排除しない)を発揮した場合、意図しない相手に届けられてしまい、結果として被害をもたらしてしまう、ということも起こりうるわけです。

この、「自分の行為が、意図しない形で、あるいは意図しない相手に届いて被害を与えてしまう」ことを、思想家である東浩紀は「誤配」と言いました。

同じような事例で、騒音問題と『アノイアンス(annoyance:邪魔感)』についても触れてみましょう。植村拓朗らの調査研究(2012)によると、『アノイアンス』とは、単純な音の大きさ・騒がしさといった数値化しやすい客観的な要因とは別に、主観的な要因が大きいようで、この被害者感こそが「誤配」の要因と言えそうです。

同じく植村らの調査で、ではこの『アノイアンス』はどのように差が出るのかを分析しています。

それによれば、

『隣近所との交流を好む、地域参加にも消極的なA地区より、人付き合いが好きで、地域の活動にも積極的に参加していこうとするB地区の方が、隣人の話し声を邪魔な音というより、むしろ隣人の暮らしぶりを感じることができる、親しみのある音として聞こえているのではないか』

とのことです。個人的な感覚としても、納得感があるように思います。

この調査が示唆するのは、人々の間にある「関係性の質」のようなものが、アノイアンスに影響する、ということだ。とすると、普段から隣人を見かけるたびに挨拶するあなたのふるまいは、この関係性の質を高めることで、アノイアンスを低下させて、同じような近隣トラブルの原因になる度合い、リスクを軽減させることに貢献するだろう。p181

さらに、心理的安全性(Psychologial Safety:本書では「心理的安全感」)を提唱するエイミー・エドモンドソンは、「被害を与えてしまうかもしれない、あるいは被害を与えられてしまうかもしれない、といった被害への不安感」を調査研究の過程で見出し、このような不安を「対人不安」と呼びました。

近年、ビジネスの領域で注目されている『心理的安全性』ですが、限界まちづくり(まちづくり0.0)においても、有効な知見である可能性が出てきました。

以上、「対人不安」の存在を突き止めた著者・谷はこう述べています。

私達はここでついに、私達が立ち向かうべき相手を見つけた。それは「人間」だったのだ。「人間」すなわち、「人と人との間にあって、被害を与えるかもしれない、与えられるかもしれない、という不確実性」に伴う不安と恐怖、すなわち「対人不安」こそ、まちを息苦しくするものの正体だったのである。p187

心理的安全性は、どのようにして高めることができるのか?限界まちづくりの視点から

では、私たちは「対人不安」を解きほぐし、「心理的安全性」を高めるためにはどうすれば良いのでしょうか?

これも実は、私たちの「日々のふるまい」によって作られる「限界まちづくり」によって解決できることが示唆されています。

アレックス ・ペントランド(2015)によれば、「集団のパフォーマンスを上げると多くの人々が信じている要素(集団の団結力やモチベーション、満足度など)には、統計学的に有意な効果は認められなかった。集団の知性を最も役立つ要素は、会話の参加者が平等に発言しているかどうかだったのである。少数の人物が会話を支配しているグループは、皆が発言しているグループよりも集団的知性が低かった」というのです。

別の例では、Googleの労働改革プロジェクトの一環としての調査研究です。そこで浮かび上がったのは、成功するチームは何をやっても成功し、失敗するチームは何をやっても失敗するというパターンでした。この調査からも明らかになったこともまた、「会話の量が公平であること」だったそうです。

この「会話量の公平」を実現していくためには、「こんなことを言ったりしたら、周りから馬鹿にされたり、迷惑がられたり、叱られないだろうか?」という対人不安から解放された関係性に身を置くことが必要になってきます。

これに関連し、関係性と聞いて私達がよく思い浮かべる「緊密な関係」は、実はリスクが高いという調査研究があるようです。

「自殺希少地域」の調査研究を行った岡壇(2013)によれば、自殺の少ない地域では近所付き合いの度合いも「立ち話程度」「挨拶程度」と答えるのが8割であるのに対し、自殺者の多い地域では「緊密」と答える回答が全体の4割を超えると言います。

望ましい「関係性」とは、深い付き合いゆえに「言うべきことを言えない緊密さ・仲の良さ」などではなく、「言うべきことを率直に言い合えること」なのかもしれません。

自分のすることが受け入れられ、もし問題があれば適切に指摘できるし、指摘してもらえる、そして、一方的に責任を負わされたりすることなく、協力して解決に向かっていける、というような関係性です。

それは話し手のふるまいだけではなく、聞き手側も工夫できる余地があります。会話の時の微笑みや相槌、頷きをすることで話しやすくなる効果がありますが、そう言ったふるまい(ミミクリ)もまた、相手と対等に話そうとする対話的なふるまい、限界まちづくりにおける公共財と言えるでしょう。

また、自殺希少地域においてみられたような、「疎にして多」という、「それほど親密というわけではないが、多くの人々と挨拶程度ではあっても知り合いで、言いたいことを言い合える関係性」は、問題解決にも有効に働くことが、矢野和夫(2014)類似の事例によって明らかにされています。

以上を踏まえると、私たちはどうすれば保育園を建てられるのでしょうか?

私達のまちに限界まちづくりが不足している場合、「対人不安」が生じます(まちの貧困)。一方、「心理的安全性」とは、この「対人不安」が軽減された状態です。「心理的安全性」は、メンバーが公平に、対等に発言し、聞き合うことを受け入れるという「ふるまい」が蓄積され、それは「まちの溜め」という資本財として機能します。「まちの溜め」は資本財としてさらに「心理的安全性」という利子を生み出し、それが「まちの貧困」を克服し、被害不安を軽減し、不確実なことへのチャレンジを可能とします。

ここでいう「まちの溜め」とは、自己犠牲の消耗に陥ってしまうこともある「まちの為」に対する著者の独自の用語ですが、「率直に言いたいことが言い合えるという関係への安心・信頼の積み重ね」と言ったところでしょうか。

保育園の例に当てはめるのであれば、まず、異論反論が出ることはさほど珍しい事例ではないそうです。成功する保育園の関係者は、異論反論を述べた人々に対し一軒一軒訪ねていき、話を聞いて回ること。建設後も定期的な地域交流会を行うことで、「溜め」を維持するような形で運営されていくことが肝要なようです。

「まちの溜め」が左右する「美しいまち」と「醜いまち」

ここまで、「限界まちづくり」の概念を導入することで、私たちは「まちの為」という言葉を「まちの溜め」という共通の資本財を積み立てる営みに置き換えられることを発見しました。

ここに来て、やや唐突な感があるのですが、著者は「」というキーワードを導入する必要があると言います。

まちづくりにおける美しさ、「美しいまち」とは、どのように定義されうるのか?と。

ここで筆者は、エマニュエル・カントの「美」の説明、「目的なき合目的性」を取り上げます。

例えば道に咲く花は、別に人間を喜ばせようと思って咲いているわけではない。人を気持ちよくさせようという意図などない。つまり花に「目的はない」。ただただ、生き残る過程でそういう形を獲得してきたに過ぎない。つまり、無意識的に、結合的に、花の見た目という公共財が提供されている、と説明できよう。にも関わらず、我々にとって花の見た目や香りは、私達が気分が良くなるのに、とても都合が良い。このように、花は意図していないにも関わらず、受け手である我々の目的に合致する場合、これを「合目的的」という。このような「目的なき合目的性」が見出された時、私達はそこに「美」を感じる、とカントはいうのだ。p224

とすると、これまで私達が確認してきた、「まちづくり」が、人々が、自己を犠牲にすることなく、自己実現のためにやりたいことをやって、それが無意識的に、結合的に、他の人々を利する、潜在的順機能を発揮する場合、そこに生じるのはまさに「美」的な関係性だ。この関係性が成立する人の集団こそ、「美しいまち」だと言えるだろう。逆に、人がやりたいことをやって、無意識的に、結合的に、他人を害する潜在的逆機能を発揮する場合は、「醜いまち」が出現してしまうのだ。p224

以上、私たちはこれまで、「まちづくり」とは何か?を探求する中で、まちに住い、日々を営む中で生まれる居心地の良さ、息苦しさといったものまでも含めて、「まちづくり」である、という枠組みの捉え直しを行ってきました。

前作『モテるまちづくり:まちづくりに疲れた人へ。』における『モテるとは?』に引き続き、『まちづくりとは?』を普段、意識化されない日常レベルの営み・ふるまいまで射程に捕らえて進めてきた探求も、いよいよここに至って『美しさ』というものに辿り着いたようです。

その中で、私たちは普段、何気なくタダ乗り=フリーライドしていた居心地の良い関係や、目に見えない努力で維持されてきた環境・景観、いずれも「周到に計画し、意図して、しようと思って、まちを"つくる"」営み以前の原始の「まちづくり」に思いを馳せることができるようになりました。

また、まちづくりアップデート史の概観、純粋(ピュア)まちづくり、大衆(ポップ)まちづくり、限界(ギリギリ)まちづくりという三類型を導入することで、それらを意識化し、私たちの現在地を見出すことができる地図を手にすることができました。

ここまできたら、やはりまちづくりのこれからの姿……まちづくり6.0の姿も気になりますよね?

著者は、やってくれました。

まちづくり6.0:ピュアでポップなギリギリのまちづくり

ここで再度、ピュア/ポップ/ギリギリのまちづくりの三類型に注目しよう。「限界まちづくり」は、無意識的結合生産物であるが故に、我々はそれが生む「溜め」に無自覚だし、うっかり行儀悪く浪費してしまいがちだった。現秋まちづくりにはそういう限界がある。p245

とすると、我々はここへ来て再度、大衆の関心を集めうるポップさ、正しい理路を示せるピュアさの必要性を確かめることができるようになる。私達は、これまでピュアさとポップさとの対立的競争構造を見てきた。しかし、今まさに必要なのは、ピュアさとポップさとギリギリの和解、三位一体性なのだ。ピュアな知識とポップな意匠によって、適切に「まちの溜め」を作り、守ることで、限界まちづくりが美しくなるよう整える、いわば「新しいご近所づきあい」。それこそ、まちづくり6.0のあり方といえるのではなかろうか。p245-246

まちづくり活動を担うボランタリーな組織は、「思想的リーダー」「顔の広い人気者」「実際に動く人」の三人衆が揃うとうまく働くというのはこれまでも経験則的に言われてきた。この経験則を本理論に当てはめるなら、「思想的リーダー=ピュアなまちづくりの担い手」「顔の広い人気者=ポップでキラキラなまちづくりの担い手」「実際にやりたいことをして動く人=ギリギリのまちづくりの担い手」となるだろう。p262

ピュアな理論や思想、哲学に裏支えされた美意識(美的状況を実現せんとする意思)を語る役割。そして人々がワクワクし、「面白そう!参加してみたい!」と思えるポップな意匠を作り出し、人と人とをつなぐ人気者の役割。そして、そこに集まって、のびのびとやりたいことをして、まちのためになる公共財を無意識的結合生産する役割。そういう役割を帯びた人たちが集まり、各々の役割を持ち合って、いうなれば小さな「まち」を作る。その小さなまちでは、純粋な理念と美意識を備える人々が、人々の無意識的な営みを導き、位置付け、意味づける。そしてポップな意匠を作り出せる人々が、そういう場に仲間を集め、楽しい仕掛けを施していく。その小さなまちの中で、限界的なまちづくりをする人々は、お互いに話をし合い、聞き合い、ミスを赦し合うふるまいをかさねる。そうすることで、その小さなまちに「まちの溜め」が醸成され、その溜まったまちの溜めが利子として「心理的安全感」を生み出す。そこでは、お互いがお互いを傷つける「被害不安」から人を自由にし、「美しいまち」の出現率を高める事になるだろう。p264

このまちづくり6.0は、机上の空論ではなく、実際にそう見られる事例も本書には記されているのですが、ここでは割愛したいと思います。ここまで呼んでくださった当記事の読者の皆さんには、ぜひ本文に当たっていただけると嬉しいです。

終わりに:ファシリテーターとしての私の視点から

私は、ここ数年『場づくり』というものを生業としてきました。

主な現場は、まちづくりではなく企業内の組織変革プロジェクトであったり、世界最先端の組織論の参加型研修であったりと、いわゆるワークショップと呼ばれる、人の集まる非日常の場を設けることで、テーマに関する学びの応援をさせていただいたり、より目的に向けて動けるチームになれるよう伴走させていただいたりしてきました。

ただ、そんな中で感じていたことは、

『この非日常での体験を、どうすれば日常の中で活かしていってもらえる場をつくれるだろうか?』

というものでした。

また、私個人の捉え方として、

『場は、つくらなくても、もうそこにある』

とも、考えていました。

例えば、会社員の方が日々を過ごすオフィス空間があったとして、そこが窓もない灰色のコンクリート壁の空間であれば、その場で交わされるコミュニケーションはどんなものになるでしょうか?

方や、観葉植物が置かれ、明るい日差しも差し込む開放的なレイアウトのオフィス内で交わされるコミュニケーションの質は、どういったものになるでしょうか?

おそらく、違った体験になるのではないかと思います。

そういった、ワークショップのプログラム以前の『場づくり』を思考し、試行してきた私にとって、今回の『無意識結合生産プロセス』、『限界まちづくり』、『まちづくり0.0』の見せてくれる風景は、やっぱりそうだよなぁ、というどこか牧歌的で懐かしさや、素朴な納得感を感じさせてくれるものでした。

「周到に計画し、意図して、しようと思って、場を"つくる"」営み以前の、日々の私たちのふるまいが意図せずつくっている場は存在し、それは意識化することで扱うことができる。

不思議な読後感を感じる一冊でした。

終わりに:米づくりの後継者である私の視点から

私は果たして、地元の人間関係をどれだけ知り、どれだけ豊かなものとして築けていけているだろうか?

そんな問いが浮かんできました。

私も地元にUターンした身ですが、大学進学のために地元から大阪・京都に出て来て以来、地元の人間関係は疎遠な時期が続いていました。

ただ、良い意味でも悪い意味でも、地域移住・地域活性の領域などで語られる「よそもの・若者・馬鹿者」であることが、昨年引き継いだ米づくりでは功を奏したように思います。

『すみませ〜〜〜ん!!うちのトラクターが急に止まってしまって困ってるんです!忙しいところ申し訳ないですが、助けてください!』(イメージ図↓)

高齢化が進んでいる地元の米づくりをはじめとする農家は、80代でもまだまだ現役です。祖父や父世代の人間関係で構成される、圧倒的にアウェーな集落。人口ピラミッドでいえば綺麗な逆三角形であり、同世代の友人は少ない。もちろん、そんな方々と自分は個人的にじっくり付き合った経験もないのですが、目的だけははっきりしていました。

また、Uターンしてきた若者であるが故に、地元のしがらみといったものにも無頓着で、ただただ助けてくれそうな人に率直に助けを求める。そんなことができました。

そうなると、本文中にあった『まちの溜め』『心理的安全性』を産んで行くためのはじめの一歩は、思いを持った『よそ者・若者・馬鹿者』に限らず、余計なしがらみに囚われないピュアな思いを持った人の小さな勇気、そんな風に考えることもできるかもしれませんね。

さらなる探求のための関連書籍

エイミー・エドモンドソン『恐れのない組織ー「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』

心理的安全性を提唱した著者の最新書籍。


著者のnote。高頻度で更新されているため、読み応え抜群です。


アダム・グラント『GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代』

人と人との相互作用:与える、与えられる、受け取る、受け取られる…そういったものについて考えてみるのに良いかもしれません。


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