柴崎友香「ポラロイド」とロバート・フランク 「アメリカ人」

清里フォトミュージアムでロバート・フランク生誕100周年記念展「もう一度、写真の話をしないか。フランクと同時代の写真家たち」(会期2024年7月6-9月29日)を観た。ロバート・フランク(1924-2019)はスイス生まれで1947年にアメリカに渡り「アメリカ人(写真集 初版 仏版 『Les Americains』1958)」に代表されるように、旅をしながらスナップショットで彼の地の人々や光景を写した。
「アメリカ人」の米国版ではジャック・ケルアックが序文を書くなど同時代のビートニクとも親交があった。しかし、彼の写真はビート・ジェネレーションによる「運動」や当時のアメリカの熱狂的・変革的な雰囲気を写しているというよりは、どこかひんやりとした詩情があり対象に対して幾ばくかの距離感を感じる。それは彼がスイスからやってきた異邦人であることや、当初商業写真で生計を立てていたことと関係するのかもしれない。一方で、写真には写真集のタイトルの通り、その時代に土地を生きた人々の姿や生活や景色や風俗がなんとも言えぬ感覚を伴って写し出されている。一瞬に存在した生の実感や輝きのようなものがみていて感じられる。
9月7日に同館で行われた同展示についての金村修×タカザワケンジの対談の中で金村氏も指摘していた通りに、これら1950年代に写された写真の中の人々の多くは既に亡くなってこの世にはいない(フランクも2019年に94歳で亡くなっている)。私も古い写真やモノクロ映画を鑑賞する際はいつもそう感じている。写真は写した瞬間(短い持続)を像として凍結する。一方で、写された人間はその後も生きてそして否応なしに死んでいく。この生そのものと写真のひらいていくほかない距離によって、写真の像自体は変わらなくとも、それを観る際の作品と観る者の関係も変わらざるをえない。1958年に「アメリカ人」を観て同時代の人々や文化や政治に身を寄せることと、2024年に死者たちのかつての姿を観ることは同じ行為ではない。写真の持つポテンシャルは、アーカイヴされた写真自体の不変さと観るものの時間的距離の乖離による立ち位置の、時間や歴史の積み重ねによる変質にあるのではないか。


柴崎友香「ポラロイド」(『ショートカット』河出書房新社、2004、所収) を読んだ。
主人公・吉野は、仕事先の人間の飲み会上でのとっぴな思いつきにより突然仙台に行こうと思う。しかし、駆けつけた上野駅で東北行きの終電は既に終わっている。その足で東京滞在の宿泊先である代々木の友人の家に行く。そこには友人の弟がいて、先ほどの仙台行きの話になり、自分の彼女が仙台までの東北行きの途中地点の福島にいる、また(彼女との関係が)うまくいかないかな、と彼(友人の弟)は語る。2011年の東日本震災後の今読み返すと過剰に繋げるのは危険ではあるが、少なからず私にはどきっとする描写であった。
書き下ろしなので作品は2003、2004年頃に書かれたであろう。その当時、私も新宿通いなどをしていたが、福島出身の同年代が何人もいて日常的に交流をしていた。今でも彼らと当時交わした言葉はよく覚えていてたまに想い出す。文学はその当時の街や都市の光景や人の営みや思いを描いていて、「ポラロイド」の登場人物と同時代人の自分には数々の描写は他人事には思えない。しかし、あれから20年も経ってしまった。今まで連絡を取り続けた人はいないけれど、彼らは元気でいるだろうか。

『ショートカット』所収の短編連作は大阪と東京の地理的な距離感と、両都市で生活する人間の思いの往復の運動をどれも描いている。仙台や福島の地名はその外部、拡がっている世界を暗喩している。「ポラロイド」では外部がメキシコ迄拡がっていく。展開する描写は鮮やかであると同時に、時代や人間の持つ雰囲気やある種の楽観としての態度を表している。当時の柴崎の作品が描く登場人物は就職氷河期と言われる世代の若者であろう。『主題歌』(2008)などその他の作品含め、カメラマン、画家、フリーター、ミュージシャン(見習い風)諸々含め、当時の20代前後の若者たちの生活や何気ない会話や気持ちの移り変わりが、さりげなく、かつ丁寧に描写されている。
「ポラロイド」というタイトルが示す通り、柴崎の作品には写真というモチーフがよく登場する(表題の「ショートカット」の中にも写真を撮る人物が登場する)。柴崎のそれらの作品と当時の自分の境遇や心境がリンクすると同時に、今読むと登場人物(と私)の姿がそこに刻印されているようにも思える。そして、登場人物と同世代だった人間も年月を経て、当時の生活や気分や文化から地続きながらもだいぶ変化した(していく)生活を送っているかもしれない。
言い換えれば、柴崎の小説には当時の時代性や人間の振る舞いが、文化や人々(の一部)の本当に何気ない日常の一瞬の輝き=コマとして、あたかもスナップ写真のように描写されている。文学はその時代時代の人間や生活の気配や都市の雰囲気を後世に文字で残していく(アーカイヴ化)。そしてまた、リアルタイムでその作品に触れることと、何十年後に触れることは異なる行為でもある。

2004年当時の生者はいずれ皆死者になる。文学は描かれた(書かれた)時間を凍結する。否応なしに描かれた(書かれた)人物の像はそのままに作品の中に残っていく。この生そのものと文学的記述の間のひらいていくほかない距離によって、遺された文学自体の内容は変わらなくとも、それを読む際の作品と読者の関係も変わらざるをえない。繰り返せば、2004年に「ポラロイド」を読んで同時代の人々や文化風俗や営為や心理に身を寄せることと、2024年に彼女たちのかつての姿を読むことは同じ行為ではない(彼ら(登場人物や読者や作者)は今どんな生を送っているのか?)。文学の持つポテンシャルは、アーカイヴされた文字自体の不変さと読むものの時間的距離の乖離による立ち位置の、時間や歴史の積み重ねによる変質にあるのではないか。


写真史的に異論はあるかも知れないが、1950年代のライカ・銀塩・モノクロ・スナップショット・バライタ印画紙プリント、は考え方によればいわゆる「写真」の黄金期なのかも知れない。昨今のネット社会におけるプライバシー含めた個人情報の取り扱いでは街中のスナップショットや日常の写真を公開することは難しくなりつつある。文学や小説は文字で書くことによって、回避している面はある(勿論、プライバシーの問題等はあるだろうけれど)。無論、ネット上には膨大な画像や個人的な日常に関する文章、もしくは無意識的なデータが溢れ、イン・ザ・ミソ・スープ、ビッグ・データの深層の処理によりアルゴリズムや嗜好や指向を統制・ランダム化や個人のカスタマイズに特化していくだろう。ネット上を行き交うデジタル写真は物としての写真とは異なる情報として扱われ、デジタル画像におけるNFTの価値付けや意味付けは従来の物としての写真とは区別される。そういった時代に、文学的な文字列はまだまだ残り続けるのか、それとも「人類補完計画」の一環として個人の書く文章も全てがデータの渦の中に溶け込んで、記憶や歴史、もしくはそれらの不在が作られていき、真の意味でのポスト・モダンが遂に到来するのかは、私には未だわからない。(続く)


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