「自分」を使った組織開発の授業で、自分から湧き上がるプロセスを言語化した結果、大切にしたい自分の在り方が浮き彫りになったお話。
つい先日、「グループ・プロセス入門」の講座を立教大学で受けてきました。講座は対面で、2月下旬の3日間に渡って行われました。
この授業での学びや気づきが個人的にはとても印象に残ったので、noteに残そうと思います。
グループプロセス・コンサルテーションの定義は下記です。
「理由のある、そして意図的な」とは、コンサルタントの介入は考え抜かれ、与える影響に明確な目的と望ましい強さを持って、特定の対象(グループ,個人)に向けてなされるもの、という意味です。
コンサルタントの介入は考え抜かれ、与える影響に明確な目的と望ましい強さ、とはなかなかのパワーワード。自分の感覚を信じるということだろうか、と思いながら授業はスタート。
大学院の同級生でもあり、今回は先生として授業をしてくださった松本加奈子さん。(かなさんと呼んでいるので、以下かなさん)
グループプロセスとは何か
1日目は、かなさんから、「グループ・プロセスとは何か」ということを教えていただきました。
授業の中で何回も出てきた、「ユース・オブ・セルフ(use of self)」という言葉。ユース・オブ・セルフの定義は下記です。
ふむふむ、その場を観察して、自分自身の気づきや価値観を活かすのね….なんとなく、わかるような、わからないような….
日頃から自分の感情や価値観は意識をして周囲に明示することも多く、それほど抵抗感や恐怖感を感じずに過ごせるのではないかな、と何となく思っていました。
自分の思考の癖に気づいた1日目
初日は、小グループに分かれて、とあるテーマに対し時間制限内に順位を決めるという議論を通して、自分や周囲の中にどういうことが起きているのか、見つめるというものでした。正直、「このテーマだったら時間内に決まるだろう」と最初は思っていました。
議論が始まると、パッツリと意見が分かれる。Aが良いという人もいれば、Bが良いという人もいる。時間内に決めないといけないと頭でわかりつつも、「Aを1位にした瞬間、この人のこの意見を否定したことになるのではないか」「何を基準に決め切るべきだろうか」と、私の場合は周囲よりも自分ばかりに焦点が当たり、「どう伝えるか」「自分は今どう思っているか」を考えてしまい、周囲が何を感じ、どう思っているかというところまで目を向けられていないことにも気づきました。
終わった後の振り返りで気づいたことは、私は「その人の経験を元にしてつくられた価値観に対して順位をつけることへ嫌悪感がある」ということでいた。何が良いか、何が悪いかは、人によってそれぞれ。それなのに、順位をつけないといけない、ということにかなりの抵抗感がありました。
今思うともしかしたら、幼少期の頃に声が大きい人の意見だけが通って、声の小さい人の意見は流されてしまって嫌な思いをした、という経験からきているものかもしれません。「ゆかちゃんも、これがいいよね?」「絶対これがいいでしょ?」という声が強ければ強いほど、そこに同調しないといけない気がして、「そうではない」選択をその場に出しづらくなった経験がありました。決して同意を求められても、同意をしないといけない訳ではないので、これは私の思考の癖でもあります。
こうやって、とある出来事に対して感じた自分の感情を見つめて言語化してその場に出す、ということをやり続けた初日でした。
ファシリテーターとしてその場にいることに恐れを抱いた2日目
2日目は、ついにグループプロセスへの働きかけ。「ファシリテーター」として場の中に入り、グループへ働きかけていきました。
参加者は8人に対してファシリテーターが4人。私は一番最初のファシリテーターだったので、少し不安を抱えながらのスタートでした。テーマは「今このグループで、話したいこと」。いざ始まってみると、どのタイミングで自分が介入するか非常に悩みました。
「ここで発言したら場を途切らすことになるのではないか」「この人、こう思ってそうだな」など、あれやこれやと言葉が湧いてきます。そして、その場の様子を観察しながら、えいや!と介入を3回実施しました。
具体的には、下記の言葉を場に投げかけました。
30分が経ち、対話は終了。終了後は全員で輪になって、フィードバックを受けます。観察者からのフィードバック、参加者からのフィードバックを聞いて、こんなにも人が見えている景色は違うのか、と衝撃を受けました。
私自身がファシリテーターをやってみての感想としては、「もっと深くに潜りたい」と思っている人と「浅瀬でいい」と思っている人の両方がいて、そのバランス感を保つことが難しかったな、という感想でした。
あまりにファシリテーターが問いを投げかけてしまうと、参加者を依存させてしまうことにも繋がるし、かといって問いを投げかけないと、「この人なんのためにいるの?」と思われることにも繋がるかもしれません。そんな葛藤を抱えたチャレンジでした。
2日目の私の学びは、言語化するとこんな感じでした。
3日目は、グループプロセスへの働きかけを違うファシリテーターで3回まわす、そしてフィードバックをする、ということを実施しました。3回ともまた違ったプロセスが起こっていて、参加者としても観察者としても、それぞれ発見と学びがありました。こんなに人のことを観察したことは、なかなかなかったかもしれません。
他者の違いに触れた時の反応には2種類あったという気づき
3日間を経て、自分の中に色々な感情が湧き起こったのを感じました。ポジティブな感情もあれば、ネガティブな感情もありました。
私はできる限り、自分が感じたことをその場で出すようにしていました。一方で、感情や価値観を他者に共有することが他者にどのような影響を及ぼすか、そもそも受け取ってもらえるか、という不安や恐怖に感じる人もいて、当たり前ですが、自分と他者の違いを感じつつ、それを自分はどう受け止めるかを見つめた3日間だったな、と思います。
面白い発見だったのは、私は自分と他者の違いに関して「面白い」と思う時と「違和感」に感じる時と2つの感情があることに気づきました。その感情を見つめていくと、そもそも自分の頭の中にもなかったものに出会うと「なぜそういう風に考えるのだろう?もっと知りたい」と相手への興味関心が高まります。
一方で、自分の頭の中に既にあって、ある程度自分の価値観や考え方が確立されていて違うものに出会うと「私はこうだと信じたい」という信念が強くなる感覚を感じ、特に後者に関しては、最初の反応として「防御」のようなものを感じました。恐らく、これまでの嫌な経験、思い出したくないことを咄嗟に想起してしまい、それを振り払うように「防御」反応が出てしまうのだろうと思います。
でも時間が経つと、その防御は少しずつ緩まっていき、受け入れることへとシフトしていきます。根底は、自分と違う他者も大切にしたい、という想いがあるのだと思います。
今回の授業で私が特に気づきとして大きかったのは、自分の中の「違和感」に出会った時の場への表出方法と、そのプロセスです。
私の違和感を感じた時の表出までのプロセスは整理すると下記です。
まず、「違和感」に感じたとき、身体が硬直、緊張するのを感じ、もう1人の自分が「あ、今、違和感感じているな」と囁いてくれるような感覚があります。(①②③④)
そしてその感覚をゆっくり、じっくり眺める時間があります。(⑤)
次に出てくるのは「なぜ違和感に感じたんだろう?」という言葉です。「否定されたように感じたな」「私の大切にしていることが伝わっていない気がしたな」(⑥)その後に「でも、この人は本当はこう言いたかったのかもしれない」「こういう背景があるかもしれない」と他者へ想いを巡らせます。(⑦⑧)
そして次に「この違和感を、相手や場にに伝えるか、伝えないか」考えます。(⑨)
考えた結果、「長い目で見たときにこのことを伝えることで私とあなたの関係性がより良くなる」「チームとして相互理解につながり、仕事がしやすくなる」「自分が言うことで、他の人が言いやすい環境を作ることができる(ファーストペンギンのような発想)」など自分の価値観を元に、その場を観察し、その場の判断で伝えるか、伝えないかを決めている(⑩)と思いました。
ここで面白かったのが、⑧までは私は自分に対して疑いがなく、感じている自分をとても大切に扱っています。なかったことにする、という感覚は一切ありません。
一方で、⑨と⑩の段階は、唯一自分を疑っている段階でもありました。「伝えたいと思うのは、表面上はチームのため、組織のためと言いつつ、本当は自分がケアされたいからなのではないか?」「伝えたいと思うのは、自分を傷つけた相手を少しでも傷つけたいという怒りからきていないか?」そういった自問自答が繰り返されます。
もしも、伝える理由が、「自分がケアされたいから」「誰かを傷つけたいから」という理由かもしれないと少しでも思ったら、一旦保留するようにしています。ユースオブセルフは、自分を使って場に影響を与えることだと思うのですが、それが「自分のため」となった瞬間、歪んだ力を発揮する怖さを感じているからです。
なので、私は①から⑧までのプロセスは自分を疑いもなく信じていて、⑨と⑩のプロセスは常に疑いながら、でも最後は自分を信じて表出することをやっているな、との気づきがありました。そもそも常に他者を思いやることなど、私は自分の状態によってはできないですし、相手はそのつもりがなくても傷つけられたと感じたら、余計なことを言いたくなったりもします。
そういう自分の中にある未熟さをみてみぬふりすることなく見つめ、「自分がこれからしようとしている表出(介入)は単に場や人を、自分のために利用しようとしていないか」を常に疑う、ということを大切にしたいのだな、ということに気づくことができました。
また、この3日間を経て、大学院の同級生に「ゆかが羨ましい。本当は自分もゆかみたいに自分の感情を表出したいのだけど、できない現実があるんだよね。ゆかと比べちゃう。もどかしいし、苦しい。」とポロッと気持ちを吐露してくれました。(本人の許可を得て掲載しています)
その言葉を聞いたときに、それを私に伝えようと思ってくれたことがまずは嬉しいなと思ったし、もしかしたらその同級生のもどかしさが進みに進んだ結果、「ゆかとはもう関わることが辛いから距離を置こう」になった可能性もあったかもしれません。ですが、そのプロセスを共有してくれたことによって、少なくともその同級生と私の関係性は、お互いの違いを避けるのではなく、分かり合おう、という方向に進んだのではないかとも思いました。
日常は、本当にこういう葛藤の連続なんだと思います。言うか、言わないか。伝えるか、伝えないか。そして、言った後、伝えた後、どうするのか。
立教大学経営学部の中原淳先生は、授業の中で何度も「誰一人取り残さない場をつくる」という言葉を伝えてくださいます。
今のところ、「誰一人取り残さない場をつくる」という私の解釈は、全ての人に「居場所」と「役割」をつくることだと私は思っています。居場所と役割を感じられない組織やチームに少なくとも私は居続けたいと思わないし、苦しかった、という過去があります。目の前の人と自分との関係性(プロセス)に注力することは、短期的な目線で見たら何につながるかわからないことでも、長期的に見たときにその組織やチームに大きな影響を及ぼすということを私はこの授業でも感じました。
これから修士2年生が始まります。私はこういった自分から湧き上がるプロセスを丁寧に見つめ、クライアントにも仲間にも働きかけるということを大切にしようと思います。
かなさん、事務局の皆さん、TAのおっつーさん、ゆうやさん、中原先生、場を共にしてくれた同級生の皆、本当にありがとうございました!
誰1人欠けてもこの場はなかったと思います。
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