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<閑話休題>結局、言っていることは同じだと思う。

 定年後自分の時間がたっぷりとできたので、古今東西の宗教関係の本を少しずつ読んでいるが、毎回思うのは「言っていることは、結局同じなんだよな」ということだった。まあ、こんな言い方でこんなことを書くと、「何も知らない奴が、いい加減なことを書いている、たいした自己中心的で自信過剰な奴だな」と揶揄されるだけかも知れないが、そうした「自己中心的かつ自信過剰な読み方」の(悪しき事例)と思って、寛容の心で接してもらえれば、誠に幸甚に存じます(世の中の、とっても、とーーーっても偉い方々に対する弁解ですよ)。

 さて、本題だが、私の出発点は鈴木大拙の禅、つまり臨済宗にある。そこで、悟(大悟)ということは何かを自分なりに理解した(つもりになっている)のが、「自己と自然が一体化すること」であり、これを称して「無心」であると認識している。

 その後、ルドルフ・シュタイナーの神智学の本を読んだら、同じようなことを書いているのに気づいた。つまり、神智学(人智学あるいは神秘学)における最上レベルである霊界を認識するということは、人が、自らの肉体にある魂が、霊界とのつながりを持つメッセンジャーであると知ることであり、その結果「(肉体の世界に縛られていた)人は(霊界が存在している)自然と一体化する」状態に、魂の働きによってなると言う。

 さらに、(どうも宗教というよりもオカルトに傾いてはいるが)、「錬金術」や「魔法」について書かれた本を読むと、どちらもユング心理学の影響下で書かれた本だが、地球的規模の集合的無意識の層にアクセスすることが、「錬金術」及び「魔法」の根源であると述べている。このユング心理学で述べるところの地球的規模の集合的無意識とは、すなわち地球の歴史そのものであり、それを一般的な言葉で言えば「自然」になると思う。

 この「自然」というのは、明治以降に西洋の概念を日本語に翻訳する際に考案された新しい言葉だが、この元になった英語である、Natural、Natureという概念は、そのまま臨済禅や神智学が述べるところの「自然」と同じものであり、「錬金術」や「魔法」が目指す至高の対象でもある。

 そして、錬金術や魔法の原点は、ユダヤ教のカバラからきており、そのユダヤ教からキリスト教とイスラム教が枝別れして、三つの「経典(旧約聖書)の民」の宗教となったのだが、カバラを原点に含むことから考えれば、錬金術・魔法・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は皆、目指すところは同じ「自然」だと言うことになる。しかし、原点は同じであったが、その後の三つの宗教の僧侶たちによる経典解釈によって、こうした「自然と一体化する」という概念は、まもなく異端として追いやられてしまった。

 これが、特にキリスト教が現在の形に至った歴史であったが、そうした異端という圧迫のなかでも、やはり「自然」と言う大いなる真理の力は強く、ずっと異端または魔法として、ヨーロッパのキリスト教世界の底辺に潜伏し、長く生き続けてきたのだと思う(その代表となる組織は、薔薇十字団であり、フリーメーソンもこの系列に入る)。なお、こうした「自然」の概念は、ヨーロッパでは異端にされてしまったが、東洋のインドや中国では、宗教として現在まで存続している。そのため、従来の思想・哲学に行き詰った20世紀に入ってから、西洋の思想家たちは、東洋の思想や宗教に大いなる関心を持って研究する対象にした。

 なお、ここでは宗教を中心に記述したが、哲学の分野でも同じものがあると思っている。哲学では、カント、ヘーゲル、フッサールらは、仏教で言われているところの、人が「色眼鏡」を知らずにかけていて、現実(自然)をありのままに見ていないから、「色眼鏡」を外さねばならないという考え方と同様なことを指摘してきた。そして、現象という「自然」をありのままに見ることから、正確な認識が出発するとしている(現象学の始まり)。

 また、フロイトやユングによる個人の無意識及び集合的無意識の概念は、意識という「色眼鏡」の奥にある別の意識(「自然」)を再発見したものだ。当然そんなことは、仏教(臨在禅)でもオカルトでも、既に真理としてとうの昔から述べられていることだから、19世紀末から20世紀になって、(非宗教、非オカルトである)科学的と見なされる哲学の分野でも、ようやく宗教やオカルトに追いついてきたのかという気がする。

 さらに、哲学の分野を進めていくと、現象(「自然」)を認識・分析・考察していくことは、自ずと「自然」から発せられるシンボルとなっているメッセージを、いかに人が把握・理解するかという方向に進むことにつながる。これはすなわち、「人が『自然』と一体化する」ということになるから、仏教(臨在禅)やオカルトが目的とすることと同じだ。

 私は、何も新興宗教を起こそうとか、人類に新たな思想を作り上げようとか、そんな誇大妄想的な野望を抱いているわけではない。しかし、以前「関係の哲学」というのをnoteに投稿したが、今回の投稿も「人と自然との関係」が、そのまま宗教になっているということで、私の「関係の哲学」とまさに関係するのではないかと思い、頭の浮かんだことをまとめてみた。(なお、この考察は今後も様々に展開・変貌していくと思う。また、そうでなければ、「考える愉しみ」にならない。)


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