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<閑話休題>大悟または私とは何か

 大学を卒業するとき、就職指導の一環として、「大学で何をしてきたか」というものを自己アピールの準備として書かせられた。普通、こういう場合は「友人を沢山作った」、「部活動を一所懸命やった」、「経済活動の仕組みを勉強した」、「一般教養を深められた」、「いろいろなところへ旅行した」、「アルバイトで社会経験を積んだ」等々を書くのだと思う。

 ところが、かなりの変わり者であった私は、そこに「私とは何か、なぜ生まれてきたのかを探し求めてきた」と書き、さらに「それは未だに答えが見つからないので、これからも探し続けたい」と書いた。

 当然のことだが、大学の就職課の担当者はこの言葉をスルーした。また、私の(明らかに中途半端な)就職活動は上手くいかなかった。そして、なかなか就職先が決まらない私に対して、親切な就職課担当者は、当時不景気になっていた日本経済の中でも、学閥+人材難で誰でも欲しいという企業を紹介してきた。私は、「そうですか」ということで面接を受けたが、そこから先に進むことはなかった。

 一方、その後なんとか自力で就職先を見つけて、どうにか生きるための金銭を得つつ、今日まで生きている。仕事をしている時には「邪念」として頭の隅に押しやっていた、この「私とは何か」という問いに対する答えが、最近見つかった気がしている。

 ところで、この「私とは何か」、「なぜ生まれてきたのか」という問いは、少し前日本で流行した「自分探し」という言葉と響きが似ている。しかしこれは、禅でいうところの「本来の面目」、「真実の自己」という概念と同じだと思う。

 この「自分探し」という言葉を私は好んでいない。なぜならその言葉の背景には、「本当の自分は、今のような生活をしているのではなく、もっと物質的な栄耀栄華に満たされた素晴らしい人生を送っているはずだ」という、一種の誇大妄想的傾向を持っているように見えるからだ。もっと簡単に言えば、普段遊んでいるだけの中学生が、試験が近づいてくると「自分はやればできる人間だから、(実際は何もやっていないのにも関わらず)試験で良い結果を得られるはずだ」という、根拠のない自信(過信)と同じように思えるのだ。

 一方の「私とは何か」、「なぜ生まれてきたのか」という問いは、禅の「本来の面目」や「真実の自己」と考え方の方向性が同じだと理解している。つまり、もっと難関な用語を使えば、「現実存在の根拠(レゾンデートル)」を求める問いである。

 これは、キリスト教などの一神教においてであれば、既に神との契約が生まれる前にされているので、答えは非常に簡単だ。つまり「神と契約したから」というのが、「生まれた理由」であり、また「神の意志に従う」存在として「私」がある。(ちょっと乱暴な言い方になるが)ただ、それだけだ。

 それが、(日蓮宗を除く)仏教とか禅というのは、多神教かつ寛容そのものであるため、宗教とは呼べない思想の一種だから、神との契約もなければ、神仏の意志に従うこともない。大多数の人にとっての仏教とは、現生の利益を求めて、神仏に依頼するだけである人が大多数ではないか。さらに、難しい悟りを厳しい修行で求める必要はないと、特に大乗仏教では教えられる。つまり、人も物もすべて生まれながらにして「仏性」を持っているからだ。

 そうした中で、修行を重ねた禅僧が、付与されている「仏性」を超えて、「本来の面目」または「真実の自己」を探しもとめていき、これを見つけた人が「大悟した」とされている。これは先にあげた「自分探し」とは方向性がまったく違う。例えば、「自分探しのため旅にでる」ということが流行しているが、これは「自分を探す」ために、自分の外の世界に探し求める行為だ。

 しかし、「本来の面目」や「真実の自己」は、自分の外に探し求めるものではないし、外に探しても決して見つかることはない。なぜなら、自分の内にこそ探し求めるものだからだ。そのため、禅では座禅とか瞑想とかいう行為が出てくるのだが、一方で、ただ座禅や瞑想をしただけで探し求めるものが容易に見つかるものでもない。そこに修行の難しさがある。

 求める先の「本来の面目」や「真実の自己」、それは、例えば寺の庭を掃除しているときに、偶然小石が当たった竹薮の音に見つかることがある。あるいは、庭に咲く花の耐え難い美しさや貴重さに気づいたときに、瞬間的に見つかるようなものである。

 そうしたことを考える契機として、禅の公案(問いかけ)というのがあり、有名なものは隻手(せきしゅ:片手)の公案だ。それは「両手の鳴る音は知る、片手の鳴る音は如何に」というものだ。これに対して、「自分探し」的思考の世界にいる人は、「片手では音は鳴らない」とか、指を弾いて「これです!」などと言うのだろうと思う。しかしこれでは、禅の師匠から「喝!」と言われるだけである。ちなみに、有名な鈴木大拙老師はこの公案に対して、自分の頬を叩いて「これじゃよ」と言ったそうだ。

 この公案の模範解答は、先にあげた事例でいえば、「庭の小石が竹藪に当たる音」であり、「庭に咲く花の美」ということになる。それでは「音」ではないじゃないか?という疑問が出るだろうが、私の理解では、ここでいう「音」とは耳に聞こえる普通の「音」ではない。それは、敢えて言えば「大悟の音」だと考えている。

 こう考えていくと、冒頭にあげた「私とは何か」、「なぜ生まれてきたか」という私の長い間の問いは、そのまま「片手の鳴る音」の答えで満たされるものになってくる。そして、その答えを最近見つけた。

 それは、「この私は、空、雲、空気、動物、植物、つまりあらゆる自然あるいは宇宙の中で、それらと一体となっている。そこに生かされている」ということを、(心ではなく)身体の奥底から感じられることだ、と気づいた。そして、この気づきが「大悟」という意味に近ければ良いと思っている。

 なぜそう気づいたかというと、もういつでも生物的な死を向かられる気持ちが満ちてきたのが、同時に感じられるからだ。だから、「大悟」というよりも「覚悟」という言葉の方が適当かも知れない。つまり、「覚悟ができた」というのが、今の正確な心境かもしれない。

 こうして、もう「自分探し」をする必要は私にはなくなってしまった。自分の身体の奥底に「求める自分」がいたことに、ようやく気づけたのだから。そして、一生かけて探すパズルの答えを見つけてしまったので、いつでもゲームオーバーとなれるということだ。

 と思っているのだが、肝心のゲームオーバーの知らせが未だに来ない。いうなれば「余生」ということなのだろうが、これからどうすれば良いのか?ゲームのようにリセットして初めからゲームを再開するのだろうか?・・・でも、もしリセットで始めるとしても、今の記憶や経験が持ち越せるのなら、次のゲームでは失敗を最小限に抑えられるだろう。また、そうありたいものだ。

 


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