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<書評>「お経の話」

お経の話

「お経の話」 渡辺照宏著 岩波新書 1967年

1.全体について

仏教の歴史及び経典の成立,経典の内容を紹介したもの。お釈迦様のことを「仏陀シャーキャムニ」と表記している。漢字にすれば,「釈迦牟尼」になる。1,000人規模の教団を構えながら,統一された経典を作らず,また文字で記録することもなく口伝のみとした他,説教の内容とレベルを相手の教養レベルに合わせていたということに,仏教の柔軟さと奥深さを感じる。一方,今の仏教は多くの宗派に分かれて,相争っているが,原点となる全てを抱合する寛容さにこそ,仏陀の求めていたものがあるように思う。

2.パンタカの話について

「パンタカ」の話に感動した。これは別途物語に書き直したので,詳しくはこれを読んで欲しいが,参考までに,その概要を紹介したい。

パンタカは双子の兄弟の弟だったが,優秀な兄に比べて,弟は知能が低く自分の名前すら覚えられずに札を下げているほどだった。そのため,シャーキャムニの教団に兄弟で入った後も,勉強ができる兄は重要な経典を暗記していくのに対して,パンタカは何一つ暗記できないでいた。そしてある日,ついに兄から教団を去るように言われ,一人道端で泣いていた。

すると偶然,そこにシャーキャムニが通りかかり,パンタカに泣いている理由を尋ねた。パンタカの言葉を聞いたシャーキャムニは,パンタカに二つの言葉を与え,これを同時に実行するように教えた。その言葉は,「塵を払い,汚れを取り除く」だった。

パンタカは,シャーキャムニの言葉を忠実に実行した。毎日,塵を払い,汚れを取り除きながら,その言葉を唱え続けた。知能が低いパンタカでも,これだけはできた。また,できたからこそ,ずっと続けることができた。

この姿を見た教団の他の信者たちは,パンタカをあざ笑い,自分たちは聖者になるための,高尚な経典の暗記にせっせと励んでいた。そして,パンタカのようなことをしても,聖者には絶対になれないと馬鹿にしていた。

ところが数年たったある日,パンタカの心境が突然変化した。パンタカが毎日誠実に塵を払い,汚れを取り除いていたことが,そのままパンタカの心の中の塵を払い,汚れを取り除くことにつながっていたのだ。パンタカの心は,沢山の経典を暗記した他の信者が到達できない,聖者の境地にいつのまにか達していた。そして,聖者に相応しい超能力を得て人々を救うとともに,入滅後は十六羅漢の一人としてあがめられるようになった。

3 思うこと

自分はたいした人間でも何でもないが,ふと思うのは「どうやったら,世界の人たちが皆,幸せになれるのだろうか」ということがある。自分自身が何もできないし,どうすることもできない無力な存在であることは,重々自覚しているが,それでも,何か「これだ!」というものがあっても良いのではないかと,考えることが多い。

そうした中で,本書を読んでいて,ふと気づいたことがあった。それは,これまでは,現実の物質的な方法のみを想定して,何ができるのかを考えていた(たとえば,ベーシックインカムとか産児制限などの人口抑制策など)が,これは方向性が違うのではないかと気づいた。

つまり,物質的な方法をいくらやってみても,それらは短絡的な方法でしかなく,世界の全てを網羅するようなものには絶対になりえない。ある特定の対象が幸せになっても,その分別の対象が不幸になってしまうようなものが多く,本当に全体をもれなくカバーできるものはない。

ところが,思考のベクトルを,物質的なものから概念=考え方に変えてみれば,これができるのはでないかと,ふと気づいた。その契機となったのは,この「お経」の世界だった。この寛容と自浄を中心とした考え方があれば,全てのものは自ずと「是」となり,「空」となる。その境地が,「○(まる)」ではないかと考えている。

たとえば,一般的に老いることは「悪」と捉えられている(これは,若さが「良」とされていることからの対比でもある)。しかし,老いに伴う諸々の不都合を「悪」と捉えず,自然の仕組みであると寛容な気持ちで捉えたらどうだろうか。そして,不都合の少ない若さを羨むこともなく,そのあるがままの姿のみを老いと同じ自然の仕組みと捉える。そこには,良悪の区別はなく,それぞれの年代でしか体験しえない三昧=愉しみがあるのではないか。若いときは,その若さを愉しみ,老いてはその老いていくことを愉しむのだ。

こうして,今,そこにあるものを「是」とすれば,そこには幸も不幸もなくなる。あるがままのものを,あるがままに受け入れて,自らを「空」と為すのだ。そのことを表す言葉として,「自浄其意」(意のままに,自らを浄める)が適当ではないかと,考えている。

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