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<仏教説話> パンタカ―聖なる寓者―

 パンタカは泣いていた。シャカムニの教団を去ることが悲しかった。敬愛するシャカムニの下を去るのは辛いことだが,最愛の兄と別れることはもっと辛かった。

 パンタカは泣くしかなかった。ただ泣いた。思い切り泣いた。泣くことが,自分の悲しみが遠く消え去るように願って,ひたすら泣き続けていた。

 すると,パンタカの泣いている声が聞こえたのだろうか,シャカムニがパンタカのところに偶然やってきた。シャカムニは,パンタカを不憫に思い,泣いている理由を尋ねた。

 パンタカは,こう説明した。

 優秀な兄は次から次へと経文を覚えていくのに,自分は自分の名前を札にして首から提げるくらいに頭が悪く,簡単な言葉すらも覚えられない。教団で一番優れたアーナンダー様も親切に教えてくれたが,やはり自分は覚えられなった。このままでは,教団にいてもだめだからと,兄は教団を去るように言った。シャカムニ様から離れるのも,兄と離れるのもとても辛く,悲しく,そのあまり泣いているのだと,たどたどしい言葉でパンタカは伝えた。

 シャカムニは,パンタカの説明を聞くと,にっこりとして,パンタカのための教えを言った。それは,2つの言葉を唱えながら,その言葉どおりにすることだった。その言葉とは,「塵を払う,埃を取る」だった。

 シャカムニからありがたい教えを受けたパンタカは,自分にできる唯一のことだと自覚して,毎日,ただひたすらに教えられたことを行った。「塵を払う,埃を取る」と大きな声で唱えながら,教団のあらゆる場所を,パンタカは心を込めて掃除した。

 それが何日,何年も続くと,その姿は,教団の中でも目立つものとなっていた。そして,教団の信者たちは,「パンタカは馬鹿だから,ああやって掃除させられているのだ」と嘲笑した。そうした蔑みの声は,パンタカにも聞こえていたが,パンタカ自身は,シャカムニからの尊い教えだと信じていたから,必死にまた忠実に,言葉を唱えることと掃除を一所懸命に続けた。

 そしてなぜだろうか,そうしている時のパンタカは,誰の目にも幸せそうに見えていた。パンタカ自身も,またとても幸せな気分だった。自分でもできることがあるというのは,こんなにも幸せなことだと,パンタカは思っていた。

 何日,何年経っただろうか。あるとき,パンタカがいつものように道具を持って掃除しようとしたところ,目の前にはいつもの塵も埃もなくなっていた。いや,目の前には塵も埃も,いつものようにあったのだが,パンタカには何もないように見えていたのだった。「そういえば」とパンタカは,ある日のことを思い出した。

 いつものように掃除をしていると,「ポーン」という静かな音が聞こえた。それは外から聞こえたのではなく,身体の中から,心の底から静かに響くような音だった。「ポーン,ポーン,ポ・・・・ン」。この音が聞こえているとき,パンタカはいつもよりももっと安らかな気持ちになった。そして,掃除している手と足が勝手に動いている中で,自分の周囲に流れる,鳥の声,風が枝葉を揺らす音,教団信者たちの話し声,こうした全ての音が聞こえなくなっていた。まるで,天上の世界にいるように,静謐で心地よい世界に安住しているような,そんな気持ちになった。そして,なによりも身体中から,重さがあるものが全て消え去り,身も心も軽く澄んだように感じていた。

 パンタカの心の中にあった塵と埃が,全てなくなったのだった。言葉を唱え,掃除をひたすら続けていく内に,パンタカは,心の中も綺麗に掃除仕切ってしまった。シャカムニの教えを忠実に勤め上げたからこそ,得られたものだった。

 そのとき,パンタカの心の中は,あらゆる邪念が一掃されて,静寂の境地になっていた。パンタカは,いつのまにか聖者になっていたのだ。

 パンタカは,その後聖者としての能力を生かして,多くの人々を救済し,入滅後は十六羅漢の一人として崇められるようになった。

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