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あの頃、私たちは無敵だった:映画『サニー』

1992年生まれの私が「女子高生」だったのは、2008年4月から2011年3月までのことだ。高校を卒業してから、間もなく10年が経過しようとしている。

私の女子高生時代には、男の影なんてものは一瞬も姿を見せなかった。でも、今思い返せば、幾つかの心当たりがなくもない。

たとえば。入試本番、同じグループで模擬討論をした(私の母校の入試内容は、内申・面接・グループ討論だった)男の子とイイ感じになりそうだった(試験後は、2人きりで電車に乗り込み、隣同士に座って仲睦まじく帰り、合格発表の日には、私達は互いに互いを探し合って2人で合格を喜び合った)のに、いざ入学してからは声を掛けるタイミングをすっかり逃してしまい、結局3年間一言も言葉を交わさず、高校時代は幕を閉じた。あの時、入試の帰りか合格発表の日、連絡先を聞いておかなかったことが心底悔やまれる。

もう一人いる。彼は、小・中学校の幼馴染で、私立の男子校で高校球児として汗を流していた。私の人生初めてのデートの相手である。ある日、私の出演する舞台を観に来てくれた彼から、長い改行ばかりのメールが届き、その空白の多さに「告白かと思った」と返事をすると、「告白の方が良かった?」と。間違いなく、両想いを望んでの言葉であった(と私は思い込んでいる)し、実際「あの時好きだった」と後々になってから言われることになるのだけれど、うぶ過ぎる18歳の私は、何故だか完全にテンパってしまい、「いやいや!告白とか困るし!」という、最低の振り方をしてしまった。せめて、もう少し言いようがあっただろうに、これでは女としてという以前に人として酷い。こちらも悔まれて仕方ない。泣けて来る。

あの頃、少ないながらも、恋の萌芽らしきものは幾つか見受けられたというのに、私はそれを自分から摘み取っていた。根っこからむしり取っていた。ああ、もう、バカ。

何だか男の話ばかりになってしまったけれど、何が言いたかったかというと、私は、10年前の女子高生時代、恋愛なんかしなくたって、男なんかいなくたって平気だった。一人でも、不安や焦燥とは無縁だった。なぜなら、夢中になっていたことがあるから(ただモテなかっただけでもある)。それが、ミュージカルだ。

ヅカオタとしてスターを追い掛けていたわけではない。私自身が舞台に立っていたのだ。と言っても、アマチュアのど素人として、だけれど。

プロでも何でもないし、宝塚でも劇団四季でもホリプロでもない、習い事としてミュージカルスクールに通い、アマチュアの舞台に時たま立っていたに過ぎないが、私の夢は「ミュージカルスターになること」で一貫していた。

舞台に立ってスポットライトを浴びると、自分が無敵に思えた。今、板に立っているこの時間が永遠に続く様な気がして、やめられなかった。本番前、舞台袖で精神集中する時間にゾクゾクしたし、いざステージに立って踊り始めれば、自然と笑顔が溢れた。何にも考えなくたって、私はとびきりの笑みを顔に浮かべていた。怖いものなんて何もなくて、ハイになれた。

せっかくの機会なので、高校の卒業文集を開いてみた。「10年後の自分は?」という設問に、そこだけ太いサインペンで「Musical Star☆」と、デカデカと書いている。やっぱり無敵だったのかも、あの頃のわたし。

あれから10年。前々から気になっていた映画『サニー』を観た。サニーを知っている人からは「それって、どっちの?」と聞かれそうだが、「2日続けてどちらも観た」というのがその答えだ。

『サニー 永遠の仲間たち』がオリジナル版で、2011年公開の韓国映画だ。その日本リメイク版が2018年公開の『SUNNY 強い気持ち・強い愛』である。

同じ女子高の同級生で、"サニー"という名称でつるんでいた7人組(日本版だと6人組)が、高校卒業から25年後(日本版だと20年後)、ガンで余命1ヶ月と宣告されたサニーのリーダーの「死ぬ前にもう一度だけ皆に会いたい」という最後の願いを叶えるべく、再び集結する、という話。

高校卒業から25(20)年後の現在と、25(20)年前の現役高校生時代の2つの時間軸によって展開される、ノスタルジックな作品だ。

女子高生。それは、箸が転んでもおかしいお年頃

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26歳の時、私は、高校生や大学生に混ざって自動車教習所に通っていた。当時付き合っていた15歳年上の彼氏に、ある日30万円弱の大金を手渡され、自らの意志とは関係なく普通免許(AT限定)を取ることになったのである。無論、私は生粋のペーパードライバーだ。

その頃に感じたことだけれど、若い子って、やったらと笑う。いっつもいつもギャハハと笑ってる。何がそんなに面白いのかさっぱり分からん。どのポイントにウケたのか、ちっとも分からん。それでも、何故だかずーっと笑ってる。笑いのツボが浅い。笑いの沸点が低い。

それは、彼女達が「箸が転んでもおかしい年頃」だからでもあるだろう。たぶん、私達の目には見えない、その年頃にしか嗅ぎ分けることの出来ない、モスキート音の臭い版みたいな、笑うための臭いでも流されているのだと思う。臭いかは不明だけれど、彼女達の間には、笑いが発生しやすい空気が常に醸成されていることは確かだ、きっと。

笑いが発生しやすい空気については、もう若くない私でも実感する場面がある。たとえば、毎年恒例のM-1グランプリ。あれって、リアルタイムで生中継を見ている時は、とっても笑える。腹を抱えて笑い転げている。ああ、あのコンビ面白かったもんね、優勝にも納得。でも、翌朝、優勝したコンビが朝の情報番組で、決勝戦と全く同じネタを披露すると、あれ、ぜんっぜん笑えない。面白くない。これ、本当に決勝と同じネタ?

それは、彼らがM-1の決勝戦という大舞台のプレッシャーから解放され、と同時に、寝る間もなく朝まで取材を受け続け、それまで真っ白だったスケジュールが怒涛の様に真っ黒に埋め尽くされ、優勝の喜びを実感する暇もなく朝を迎えてしまった、途方もない疲労感と優勝ハイから、ネタのクオリティが落ちているという要因もあるかもしれないが、恐らく一番違うのは、その、空気。

朝の情報番組、そこにいるのはアナウンサーや駆け出しの女性タレントで。そして、お茶の間で彼らを見ているのは、朝の支度に追われながら流し見している主婦や、寝ぼけ眼でぼーっとしている子どもや、出社後の会議を考えて憂鬱になっている会社員。ゴールデンタイムに全国に生中継されるM-1の決勝戦には、厳しい審査員にしても目の肥えた観客席の女子にしても、お笑いを愛する人間が、笑うという目的のために集まっている。笑いに対する、一人一人の熱量が違う。そのコンディションは、決勝本番と翌朝の情報番組では明らかに異なる。

ネタを披露する彼らが悪いんじゃなくて、私たちが、彼らを笑い飛ばす空気になっていないだけのことなのだ。しょうがない。

だから、女子高生の前でM-1の優勝ネタを披露したら、どっかんどっかん笑ってくれるに違いない。予選敗退組のネタだって、大らかに笑い飛ばしてくれるだろう。もしかしたら、全く予期していないタイミングでどっとウケてしまって、それに動揺して次の台詞を忘れてしまうかもしれない。芸人冥利に尽きますね。

『サニー』の面々も、高校時代を振り返っては「あの頃、何であんなに楽しかったんだろう。何であんなに笑ってたんだろう」「毎日毎日バカみたいに笑ってたもんね」と回想する。

何を言っても「ひゅー!」、ちょっとした先生の一言で授業が中断する程の大爆笑。この騒々しさが、爆発的なエネルギーが、アラサーの私からしたら、とってもとても羨ましい。花火の様な、一瞬の爆発、閃光、きらめき。それでも、花火のその美しさは、見る者の心にいつまでも残る。

高校生って、眩しいなあ。瑞々しいなあ。鮮度たっぷりじゃん。

私達がその若さに嫉妬を覚えるのは、そのつるつるの肌とか細いウエストとかに向けてのものだけじゃない。行き場のない程に膨らんだありったけのエネルギーや、あり余った時間や、馬鹿できる大胆さ、とかにだ。

瞳をキラキラと輝かせ、自身の夢を自由に語り、「なんか、なんっでも出来る気がする」と豪語する彼女達の前には、眩しくって目も開けられない程の明るい未来が限りなく広がっている。高校生の彼女達にとっては、夢が叶うかどうかはそんなに大切ではなくて、夢を見るという行為自体に無限の価値があるのだ。それが許される時代なんだなあ。

街を歩いていて女子高生の集団を見かけた時、そのうるさささえも好意的に眺めて見て欲しい。本当によく笑ってるから。なんか、それだけで、無敵な感じがしない?

「変わってないね」の一言で、あの頃に引き戻される

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四半世紀前のあの頃は無敵だった彼女達も、今やすっかり40前後のおばさんになっている。あの頃、馬鹿みたいに毎日一緒に過ごした仲間達の人生は、やがて四方八方に分岐して、今や違う世界でそれぞれの暮らしを送っている。専業主婦になった者、家計を支えるために仕事に出ては四苦八苦する者、社長として成功した者、すっかり落ちぶれて酒浸りになっている者、玉の輿に乗った者、まさに七人七色、レインボーだ。

サニーの仲間達は25年振りに再会するわけだけれど、今、小学校や中学校の同級生から同窓会の誘いが来たら、私は間違いなく欠席する。だって、変わった自分を知られたくないし、変わった友人を見たくないから。それは、たとえ良い意味に変わっていたとしても。

人って、何故だか相手に「変わらないこと」を求めてしまう性質を持っている。毎日の生活を送っている以上、毎年年齢を重ねている以上、変わらないなんてことはあり得ないというのに。

久々に友人と再会した時、「変わってないねー!」と言い合ってはいないだろうか。女なら、絶対に言うこの台詞。変わっていないことを確認して、私達は安心するのだ。

それは、互いに若い時のままだと慰め合っている意味合いもあるかもしれない。でも、それと同時に、「あの頃」に戻るための魔法の呪文なのかもしれない。

年齢を重ねるごとに、一人一人が背負うものの大きさは大きくなり、その重量はどんどん重くなって行く。そしてその度に、身動きが取りづらくなる。「何かやりたいことはある?」と聞かれても「毎日の生活に追われて考えもしないわ」と。皆、きっと、そうなのだ。悲しいけれど、もう、無敵な私ではない。

でも、あの頃を一緒に過ごした仲間たちが集えば話は別。

「全然変わってなーい!すぐわかったー!」この一言さえ言ってしまえば、すぐにあの頃に引き戻される。タイムマシン並みの大発明。

たとえば、病院のベッドで寝ころびながらバナナ(日本版だとうまい棒)を食べる、現代のアラフォー4人。内容は夫の浮気についての愚痴、という生々しいものだけれど、その雰囲気は、修学旅行の夜、好きな男子の話に華を咲かせているみたいで。すっかり、あの頃に戻ったみたいなのだ。

でも、それは、皆で雑魚寝する宿泊所の部屋ではない。今の40代の自分の現実の一コマで。かけがえのない高校時代、それは決して戻らないけれど、幾つになっても、あの頃を取り戻させてくれる仲間の存在。沁みるぜ。

もう一つ、現代パートで大好きなシーンがある。メンバーの一人の娘をいじめる現役女子高生(日本版だと、浮気しまくりの夫)に奇襲をかける場面だ。

彼女達は、元不良・元ギャルであり、且つ、サニーが再集結してすっかり無敵気分となっているため、そこいらのマダム達には絶対に真似出来ない方法で戦に出る。容赦ない武力行使だ。ドレスアップした彼女達が、横並びで颯爽と歩いて来る姿はある意味圧巻。チャーリーズ・エンジェルやキャッツアイを目指したのだろうか、という面ヅラなのだ(別にセクシーというわけではない)。

日本版では、アラフォー4人が女子高生の制服姿に身を包んでいる点が、これまた胸アツ(男子には、この、制服の高揚感が解るまい)。篠原涼子・板谷由夏・小池栄子・渡辺直美の面々だから出来ることだろうが、意外と板にはまってしまっている(というか、めちゃくちゃ格好良い)。私も、同級生を誘って制服コスプレをしたいと、本気で今考えている。誰かやってくれるだろうか。

あの頃の仲間が近くにいれば、なんか、なんだって出来る気がする。あいつらがいれば、力は何倍にも増して、強くなれる。輝ける。また人生の主役に戻ることが出来る。

「退学になったらそれでサニーは解散?違うだろ?もし苦しんでたら幸せになるまで一緒にいる。誰が先に死ぬか分からないけど、死んでもサニーは永遠だ」

サニーの場合は、長い年月を経た後、めでたく再会を果たすことが出来た。でも、それがたとえ実現していなかったとしても、遠い昔にそう言い合える仲間がいたことがどれだけ人を支えるだろう。その思い出で、それだけで、生きて行けそうな気がする。

おばあちゃんになってもバカやってようね。そう約束した、私にとってのサニー達と、これからもパワフルにエネルギッシュに付き合って行きたいものです。

韓国版は男子の様に、日本版は女子らしく

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韓国版と日本版、最も異なっていた点は、男性との関わり方であると感じた。

オリジナル版だと、サニーVS少女時代という、女子の不良グループ同士の決闘があって、ラップバトルの様な、スラムダンクの試合前の囁きの様な、「お前の母ちゃん出べそ」の様な、苦笑してしまうレベルの、可愛げのある罵り合いが繰り広げられる。

韓国版のサニーや同級生達の関わり合い方は、男同士の友情を思わせる。幼稚であどけなさも残るが、からっとした湿度を保っているし、寝たら明日には全部忘れている、みたいな。女子達が男子ばりの逞しさで、男なんてこの世にいないかの如く、女だけで世界を成立してしまっているし(初々しい初恋はきちんと描かれるが)、故に見た目も素朴で可愛らしい。

一方、日本の女子高生、当時のコギャルは「リーマン狩りとかダッセえことやってんじゃねえぞ」「うちら売りだけはやらないって決めてるから」と、ボキャブラリーの陳列からしてVシネのヤクザ映画を彷彿とさせる恐ろしさ。いじめ方にしても、拳で殴り合いではなく「ブルセラにパンツ売るぞ」とか「裸の写真撮って売りさばいてやる」とか、いじめ方が陰湿で生々しい。当時の女子高生って、本当にこんな感じだったのだろうか。

日本版は、日本の女子は、結局いつだって男の目を気にしているし、男ありきで何でも進行する。おっさんに援交を持ち掛けられたり、援交目的で引っ掛かったおっさんをカツアゲしたり、男の目を気にして制服を着崩しばっちりメイクを欠かさなかったり。

オリジナル版では、娘をいじめる女子高生に殴り込む下りも、日本版では浮気する夫へのそれに変更していたし、水商売に就くキャラクターは、オリジナル版では女性の下でなのに、日本版では男の下で働いていた。これらの変更点は、女が男に媚びることで日本社会は成り立っている、日本の女は男ありきなのだ、という提示に感じられて、同じ日本女性としては無性に空しくなった。

サニーのリーダーのキャラクター設定を書き換えたことも、個人的には戴けなかったポイントの一つ。

韓国版のサニーのリーダー・チュナは、白ジャケットに白パンというコーディネートもさらっと着こなす、女子高の王子様的なポジションで、喧嘩もめちゃくちゃ強い。誰よりも高く跳んで蹴りを喰らわせてみせる。イケメンかよ、と漏らしてしまう場面が幾度もあり、誰もが一目置く存在としての輝きを放っていた。

だがしかし、日本版を見てみると、リーダー・芹香は普通に女子。口が悪いだけの、そこら辺にいる女子。リーダーというよりかは、性格の悪い女子の、しかも、その取り巻きの一人的な小物感だったので、どうにも説得力が薄かった。

その他、韓国版では「美人でごめんね」「私も美人でごめん」と、泣きながら和解するシーンが、日本版では「奈々に比べたら私なんか全然ブスじゃーん」「私だって奈美を初めて見た時めっちゃ可愛いって思った」という謙遜の応酬に変わっている。やっぱり、日本の女子ってじめっとしてるよねえ。

90年代の音楽は、すっかり懐メロ

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リメイク版をちくちくと刺す内容が続いてしまったが、日本人であるならば、日本版をぜひ観て欲しい。特に、90年代に青春を送った人は。

安室奈美恵、TRF、ジュディマリ、オザケン、PUFFY、CHARAといった、当時を彩ったヒットナンバーの数々が流れ、写ルンです、ノストラダムスの大予言、耳をすませば、プリクラ(というよりプリントシールの方がしっくり来る画質と機能の低さ)、マジックテープの財布、伊東家の食卓、といった懐かしのアイテムが画面を埋め尽くす。サニーの面々は、もちろんルーズソックスに小麦色の肌、金髪に細い眉という仕上がりだ(広瀬すずと池田エライザだけは眉を細く出来なかったらしい)。

私は90年代初頭生まれだけれど、わかるわかる。あったあった。と、ウォーリーをさがせ!的な感覚で、その当時を象徴するアイテムを見付けては心を弾ませてしまう。

ちなみに、今の10代に「好きな懐メロは?」と聞いたランキングがあるのだけれど、その1位がGReeeeNの『キセキ』(2008年)らしい。そして、2位がAKB48の『ヘビーローテーション』(2010年)。え、懐メロじゃないじゃん、それ。と愕然としたのは私だけではないだろう。小室哲哉の時代のサウンドを懐メロと認めたくなくて、2段落前に「当時を彩ったヒットナンバー」と書いてしまったが、これらは間違いなく懐メロだ。いい加減その事実を、時の流れを受け容れなくては。

団塊世代には『ALWAYS』、アムラー世代には『SUNNY』という、自身の青春を懐かしむための映画がある。1990年代生まれの私達ゆとり世代にどんぴしゃの作品も、あと10年位したら世に出て来るだろうか。その日を楽しみに、楽しみながら歳を重ねて行こうっと。

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