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男と女って、どうしてこうなんだろう:映画『男と女』

「恋愛映画」というジャンルの中に、「許されざる恋」というカテゴリーがあり、その中に「不倫もの」という一大巨頭が君臨する。

この、不倫もの、が、私は大好きである。

不倫が好きなわけではなくて、「不倫もの」が好きなのだ。

何ゆえ不倫ものが好きなのかと言えば、そこに「純」を見るからである。

もちろん、不倫ものと一口に言っても、そこから更に分派しており、不倫を貫いて駆け落ち or 心中してしまう系・泣く泣くさよならして家庭に戻る系・にっちもさっちも行かなくなって、作者がどちらかを殺して決着付けてしまう系・人妻の気まぐれ火遊び系・嫉妬に狂った妻ないし夫が面白過ぎるコメディ系などが挙げられる(今書きながらの雑な思い付き)ので、どれも純愛だ!なんて一概には言えないけれど。

ただ、「頭で考えれば駄目だと分かっている。それでも、貫いてしまう。理性を持つ人間であっても抗えないの程の熱情」という点で、そこに純真性を感じてしまう、ということは共通しています。

さて、そんな私が新たに不倫映画を仕入れてしまいました。2016年公開の韓国映画『男と女』だ。

フィンランドのヘルシンキ、子供たちの国際学校で出会ったサンミン(チョン・ドヨン)とギホン(コン・ユ)は、遠く離れた北のキャンプ場に 2人で向かうことになる。
大雪で通行止めとなり、誰もいない真っ白な森の小屋で2人は体を重ね合わせ、互いの名前も知らないまま別れる。
8か月後のソウル。
フィンランドでのひとときを雪原が見せた夢だと思い、日常に戻ったサンミンの前に、突然ギホンが現れ、2人はどうしようもないほど熱く惹かれ恋に落ちる。

2人がめぐり合うのは必然だった

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そうです、今作、W不倫ものなのです。男も女も、それぞれに家庭を持っている。

家の外に喜びを求める(つまり不倫に走ってしまう)のって、何かしら家庭に問題を抱えているパターンが殆ど。サンミンの息子は自閉症で何かと手を焼いているし、ギホンの娘はうつ病で妻はメンヘラ&ヒステリー気質。

本来、人は、安らぎや癒しを求めて家庭を持つと思うけれど、いつの間にか家の中こそが息の詰まる場所に変わってしまっている。どうにも家路に着く足取りが重い。どうしてこうなってしまったんだっけ、みたいな。

今作、フィンランド・ヘルシンキの美しい雪原の中で、サンミンが煙草をふかすシーンから始まる。サンミン母さん、作中でもやったらと煙草を吸いまくります。彼女が如何に疲弊し摩耗しているか、それが生々しく伝わって来る。

そして、それはギホンも同じで。2人とも、全てに絶望した人間の様な瞳を湛えている。余りにも疲れ切っている。

そんな、孤独を抱える男女が、異国の地で、偶然にも出逢ったら。

私には、2人が互いを求め合うのは至極当然で、身体を重ねるのも極めて自然なこととして映った。2人がそうなるのは出逢った瞬間から恐らく決まっていたのだろうし、2人もそれを最初からわかっていたはず。

自分と同じ、深くて暗い水底の様な瞳をした人間が目の前に現れたら、間違いなく人は相手を求めてしまうものなのですよ、たぶん(そんな経験は無いけれど)。

条件が整ってこそ、情事に至れる

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これは私の好みの話になってしまうけれど、ドラマとしてのベストなセックスの始まり方とは、言葉を介在しない始まり方だ、というのが私の持論です(改めて言うと変態っぽい)。

それは「カーンチ、セックスしよ!」という直接的な表現だけでなく、「帰りたくない」とか「この後どうする?」とか「映画でも見よっか?」といった暗喩的な誘い文句も含めた下心込みの言葉を一切発さずにベッドインする、ということ。

しかし、大概の場合、何の口説き文句もなしに事に至るのは不可能で。だって、大体誰か居るし。公共の場だし。

だがしかし、サンミンとギホンの場合、それが叶ってしまっている。というのも、彼らが会うのは、いつだって「2人きりの密室」だから。

相手とどうにかなろうとしてそこに足を踏み入れるわけでもなく、自然な成り行きの結果(雪深い森を散歩しているとサウナ小屋を見付ける、とか、それぞれに社長・所長であるから自由に職場で会えてしまう、とか)「2人きりの密室」という条件を整えてしまっている。

だから、まずはそのシチュエーションに持ち込める様に尽力しましょう!

…あぶない。これじゃあ、ナンパ塾の講師じゃないか。危険危険。そもそも、この見出しからして、ナンパ師の名言の様に、ナンパ塾の謳い文句の様になっているではないか。大変失礼しました。

兎にも角にも、色っぽいことは一言も口にしないまま、流れ星が流れ落ちるのと同じ位の刹那的瞬間見つめ合っただけで全てを了承し、唇を重ね合わせてしまうのだから、エロいのなんのって。ということを、私は伝えたかったのです(益々言い訳がましい)。

コン・ユの背中だけでも見て欲しい

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頭の中身が男子高校生の様な思考回路で綴ってしまいましたが、ここからは昼ドラを見る主婦の如き、更に恥じらいのない目線でお送りします。もう少々我慢ください。

ギホンを演じるコン・ユは、『コーヒープリンス1号店』や『トッケビ~君がくれた愛しい日々~』等のドラマや『トガニ 幼き瞳の告発』『新感染 ファイナル・エクスプレス』等の映画の出演で知られる、名実共に人気のイケメン俳優だけれど、今作では本格的なラブシーンに挑戦。と言うと、Yahoo!のタイムラインに流れる芸能記事みたいだ。芸能記事ついでに言えば、コン・ユは「キス王子」の異名を取って日本でも有名になったとか(どんな異名だよ)。

そんな、キス王子のコン・ユなので、ラブシーンもね、めちゃくちゃ良い。

コン・ユって、垂れ目で下がり眉気味で、デフォルトの顔の造形が優しげだけれど、このね、好きな女を抱く時にね、世界中でいっっっっっちばん優しいんじゃないか、という瞳をするの。

ガラスを扱うかの様な丁重さと生まれたての子どもの様な幼さで女を見上げ、でも、そのコン・ユ自身が今にも壊れてしまいそうな繊細さを纏っている。尊い永遠を見つめながらも、その先の終わりを見据えている。そんな、脆さや危うさを感じさせる眼差しこそが彼の唯一無二の魅力であると、私は考えるのです。

そして、何と言ったって、その背中。冬のフィンランドに勝るとも劣らない美しさ。

鍛え上げられた、僧帽筋(そうぼうきん)・三角筋(さんかくきん)・肩甲挙筋(けんこうきょきん)・広背筋(こうはいきん)・下後鋸筋(かこうきょきん)・外腹斜筋(がいふくしゃきん)といった、早口言葉の如き筋肉の数々が逞し過ぎて、生まれて初めて「背中 肩 筋肉 名称」でGoogle検索してしまいました。

人体模型レベルにくっきりと浮かび上がる筋肉、それによって形作られる陰影。おまけに、背骨も上から6つ位見えとる。生物の授業の図解よりもよっぽど分かりやすい、コン・ユの肉体。

私もあの背中に抱かれたいなあ、と妄想を膨らませた女性がこの世にどれだけ居るでしょう。

まだ見ていない方は、ぜひコン・ユの背中を見て下さい。それだけでも一見の価値があります。もう、キス王子じゃなくて僧帽筋王子にして欲しい。いや、キス王子も捨て難いか。

ストーカーでも訴えられない、コン・ユの圧倒的イケメン度

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フィンランドのサウナ小屋で一時交わった2人(エロい!)だけれど、互いの名前も知らないまま別れてしまうのね。んでもって、8ヶ月後にいきなりサンミンの職場に現れるギホン。彼女の職場が「〇〇山の近く」という情報だけしっかりと記憶していて、それを辿りに職場を探し当ててしまう執念深さ(それに8ヶ月を要したのだろうか)。

ただ、そこに居たのは、フィンランドでの、すっぴんで髪ボサボサで疲れ切った「主婦のサンミン」ではなく、明るい茶色に髪を染め、ばっちりメイクで仕事に勤しむ「社長サンミン」の姿。ナチュラルな雰囲気も生々しい色っぽさがあったけれど、これはこれで可愛い。

サンミンは、何からも逃れて、母や妻や社長といったあらゆる肩書を捨てて、ただ一人の「女」としてあの夜交わったはずで。だから、それきりのこと、一夜のこととして捉え、自分の中で終わらせた。記憶から消し去った。だから、ギホンの唐突な来訪に戸惑いまくり。

一方のギホンは、「ギホン」という人間の延長として、彼女と出逢ってしまった。彼にとっては、あのフィンランドでの出来事は、自らの生活の一部の中に組み入れてしまったのだろう。だから、日常に戻っても、彼女を忘れられないし、忘れたくない。取り戻したい。

そんな、「男と女」の違いもあって、2人の距離は、近付いたかと思えば離れたり、離れたかと思えばまた近付いたり。ああ、じれったい。

それでも、諦めの悪いギホン。

「服を見に来たんだけど、遅かったかな?」と、さも自然な体で夜遅く彼女の職場に乗り込んで来るし、気が付けば会社の前に路駐して張り込んでるし、駅まで車で送って別れたはずなのに同じ電車に乗り込んで来るし。

これだけ見たら、完全にストーカー。今すぐにでも通報して良い。

でも、しない。だって、ギホンだもん。コン・ユだもん。

というか、途中からコン・ユが幽霊に見えて来た。僕はいつだってどこでだって君を見守っているよ、君を守るよ、という程の付きまとい方。

あれ、この映画って『ゴースト』だったっけ?と一瞬錯覚し、日本リメイク版の松嶋菜々子の相手役を調べたら、ソン・スンホンという違う韓国人俳優でした。

世の中というのは極めて不平等なもので、これをそんじょそこらの男がやったら間違いなく110番に電話されてしまうけれど、あのルックスなら何をやったって良いのです。許されてしまうのです。世知辛い世の中ですね。

ギホンの余裕綽々な態度やどこまでも強引なアプローチは、イケメンだから出来ることで、モテる男だから身に付いたたやり方。今までどれだけ遊んで来たことか。

しかもね、そのコン・ユの可愛らしいことと言ったら。

まあ、サンミンがまんざらでもなさそうだから、ということもあるけれど、どんなに煙たがられても一人でうきうきと楽しそうなのね。童貞みたいな舞い上がり方で、処女みたいな脳内お花畑っぷり。その、子どもの様な無邪気さが、思わず笑ってしまう程に可愛くて可愛くて。

ああ。私も、コン・ユにストーカーされたい。

「曖昧さを捨てる」とは

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しかし、この可愛さたっぷりの時点では、サンミンのことを真に大切に想っていたという訳ではなく、冷たくされるほど落としたくなる、逃げられる度に追い回したくなる、という、男ならではの狩猟本能が起因の、火遊び楽しんじゃえ・現実逃避しちゃえマインドだったかもしれない(サンミンに「何の悩みも無いみたい」と評される始末)。

韓国に戻ってから、サンミンは日常を懸命に生き、現実の一部としてギホンとの関係を模索しようと努めていたが、ギホンは現実から目を背けるためのツールとしてサンミンを求めた感が否めない。女は現実の中に、男は現実の外に、相手を置いてしまうものなのかな。

そんなギホンくんですが、サンミンと出逢ったことで、「何故こんなに曖昧に生きてるんだろう」という、今まで目を背けて来たであろう問題にも目を向ける様に。

あれ、現実逃避のために不倫をおっぱじめたのに、結果、自ら進んで現実と向き合い始めてる。でもこれも、不倫の必然であり宿命。彼女との関係を継続させるには、どうしたって現実と向き合わざるを得ないからね。

これは私の推測だけれど、あのルックスで、仕事でも実績をきちんと残していて、というギホンだから、誰の前でも弱音を吐くことなどなく、いつだって「格好良い自分」を演出して生きて来たのではないかと。彼は、ありのままの素顔を晒すことを酷く恐れていて、だから今まで曖昧に自分を取り繕ってはあらゆる問題でさえも何となく受け流して来た、はず。

さて、話を進めましょう。以下、ネタバレを含むのでご注意を。

ドラマの転換点となるのが、サンミンの一人息子・ジョンファが行方不明となるシーン。

ジョンファがいなくなったと連絡を受けた時にたまたま一緒に居たために、ギホンと共に息子を探すサンミン(この時、サンミンはギホンに別れを告げたはずだった)。捜索を続けていると、川で一人しゃがみ込むジョンファを発見。

サンミンは、ざーざーと雨が降りしきる中、何の躊躇いもなく、ずぶ濡れになりながら川に足を踏み入れ、息子に向かってずんずん進む。そして、「ママが見つけたよ!」と、屈託のない笑顔でジョンファに呼びかける(ジョンファは幼い頃に川で失くしたものを探していたのだ)。

ここでギホンが見たのは、母としてのサンミンの顔だ。

たった一人の息子に向けられた、心からの笑顔。顔をくしゃっと歪めた、何の自意識も働いていない、素直な表情。この世の全てを包み込む柔らかさを持ちながら、世界中を敵に回しても立ち向かえるんじゃないか、と思う強さを湛えてもいる。

それを目にしたギホンは、ジョンファからたった一人の母を奪えない、その、本来であれば当たり前の倫理に、気が付いてしまったのではなかろうか。

海を眺めながら肩を寄せ合う2人。

「帰るのよそうか」

「そうね」

「本気だよ」

「困ったわね」

そこには、それが恐らく叶わないと分かっていながら、それでも夢見てしまうという切なさが立ち込めている。永遠には続かない今この時を必死で噛み締めよう、一秒たりとも見逃したくない。穏やかでありながら、そんな切実さが流れる。

この時、ギホンはこれが最後のひと時だと噛み締めながら、サンミンはこれからの未来に腹を括って、この一瞬の悠久を過ごしていたのかもしれない。

そう。2人はこの後、決定的にすれ違う。

サンミンが家族を捨てて彼との2人の未来を選び取った時、ギホンは家族と生きることを、まさに今、ちょうど今、たった今、決めたところで。

2人の決意のタイミングが、そのどちらかが少しでもずれていたら。2人の選択がちょうど噛み合っていたら。

私達が、何にも背負わずに、まっさらの自由を手にしていたら、一番会いたい人に、今すぐ会いに行けるというのに。

そんな、捨てようにも捨て去ることの出来ないタラレバを抱えて生きる人生も、私はとっても美しく羨ましく感じます。悔しくてもどかしくてはち切れそうだけれどね。ああ、もう。

しかし、この2人、この1年後に、出逢いの地・フィンランドで再会を果たします。

冒頭と同じく、雪原で煙草をふかすサンミン。彼女は、家族と別れる決断をしたにも関わらず、ギホンの愛を得ることが出来なかった。今は、一人ぼっち。

家族を持っていた1年前との対比が哀しいと言えば哀しいのだけれど、1年前の彼女は、家族と居ながらも孤独を纏っていた。だけれど、今は、一人になりながらも、強烈に誰かを想う心を抱えた女に変化を遂げている。

彼女にとっては、それが曖昧さを捨てた結果であり、一回り強い人間になったことは確かだと思う。

ここからの展開は、ぜひ映画を観て確かめて頂きたい。

『男と女』というタイトルの考察

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今作のタイトルは『男と女』。フランスのオリジナル版『男と女』のリメイクだから、この題名なわけだけれど、男と女の間には、恋愛や結婚に対する価値観やスタンスの違いがある、そしてそれは、どの男女にも共通の命題として、古今東西、過去から現在・未来にまで永久に横たわるものだ、というテーマの提示であると感じた。

男と女の違い、が、様々な幸福を産出し、それと同じくらいに悲劇を創り出す。ただし、悲劇=不幸という公式が成り立たないことをここに注意書きしておきたい。

ああ、男と女って、どうしてこうなんだろう。男ならば、女ならば、誰しもそう感じたことが一度や二度は必ずあるはず。

でも、だから、生きていることを実感できるのかもしれない、ですよね。

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