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掌篇

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記事一覧

ヨガのあと、女友だちと

ヨガのあと、女友だちと

正座になった私たちは頭上にまっすぐ伸ばした両手をゆっくり下ろしてくる。
肘が胸のあたりにきたところで両手を前に差し出して、腕で円を描くようにしながら良い「気」を胸元に引き寄せる。抱きかかえる。
最後に合掌。

「ありがとうございました」
先生のひと言が静かに響き、生徒たちも同じ言葉を返すと、一時間半のヨガ教室が終わる。
体と心がゆるんだ直後はみな放心したようになり、ほとんど言葉もかわさずヨガマット

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ある朝目覚めたら名前がなくなっていた

ある朝目覚めたら名前がなくなっていた

一年ほど前から、大事なものをなくすようになった。

最初は腕時計だった。

それまでにも何回かなくしたことはあった。
いつどこで外したのか、いつもよく思い出せない。
朝、顔を洗うとき濡れないように取り外したのか。車に乗ったとき、手首に日焼けあとがつかないように外したのか。あるいは金具の留めかたが甘くて寝ているあいだに自然に外れてしまったのか。洗面所や車の中を探したり、ベッドキルトをパタパタはたいた

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掌篇 『化粧ポーチを捨てる』

掌篇 『化粧ポーチを捨てる』

子どもふたりを風呂に入れたあと私は夕食の準備をしていた。
今日は金曜日。ほんとうなら家族四人で夕食のテーブルを囲む日だけれど、今夜はいらないという電話が四時ごろ夫から入っていた。
「ああそうなの、わかった」
ならば用意するおかずの量も少なくてすむ。大人の男がひとり減るだけで調理の負担がずいぶん減る。が、もちろんそんなことはおくびにも出さない。「悪いね」と電話のむこうの声が言う。

なるべく体にいい

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遅れてきた手紙

本棚の整理をしていたら、古い本のあいだから何かがするりと落ちた。
淡い水色の封筒だった。手紙が入っていた。

几帳面な、だけど独特のクセのある字体に、ああ、あのひとが·······と数十年前の顔を思い出した。

そのころ私は大学四年生で、ある大学の理工学部の研究室で秘書のアルバイトをしていた。

たぶんいまは派遣の人がやっているのだろうけれど、そのころは大学の学生課に「教授秘書アルバイト」という募

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