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好きなことでしか苦しみたくない

最近小説のことばかりここでも話してしまいますが、実際毎日「小説を書くとはどういうことなのか」「わたしにとって小説とは何か」「小説を書くこととどのように向き合えばいいのか」みたいなことばかり考えて過ごしています。この20年間何度も考え、その都度答えを出してきたような気がするのに、気づけば振り出しに戻っている問いかけ。同じことばかり書いちゃってごめんなさい。

村谷由香里です。
noteをご覧いただきありがとうございます。

実際小説の本文を書いている時間はそんな概念めいたものを考える余裕はないんですが、企画を立てたりプロットを考えたりしているとどうしてもそういう問いが浮かんできてしまう。
なお本文を書いている間は物語に没入しているか、「もう一文字たりとも書きたくない」としか考えていません。シンプルで純度の高い感情。小説を書くのは苦しいことです。

自分の作ったものを当然わたしは愛しているんだけど、それでも誰かが作る「わたしが好きなもの」には到底適わない。
「好きなもの」は誰かの書く小説に限らず、音楽や動画であったりする。わたしを救うのはいつだってわたし以外の誰かが作るものです。その現実は果たして希望なのか絶望なのか、わたしには今ひとつわかりません。

苦しまずに生きたいという気持ちはあるけれど、小説を書くことを苦しまなくなるのは嫌だと思っている。それは「生み出す苦しみの末に良いものが書けるから」とかいう祈りのようなものじゃなくて、この道の悲しみも苦しみも怒りも、全部感じないともったいない気がするからという強欲な理由です。

他人のために苦しみたくない。好きでもないことで苦しみたくない。本当に好きなものでしか苦しみたくない。嫌いになるまで向き合って、それでも手放せなかったもののためだけに苦しんで生きていたい。

外部から叩かれるとかそういうのは普通に嫌なんだけど、わたしがものを書き始めて書き終わるまでの間にある、すべての感情が欲しい。書くことへの歪んだ愛情です。人は多分これを執着と呼ぶのだと思います。

楽しいことも嬉しいことも、手を叩いて笑えることも、大切にしたいものも生きる喜びも幸福を祈る対象も、全部わたしの外側にある。わたしが受け取るものの中に、わたしに与えられるものの中にある。

憧れにこの手が届くことは一生なく、夢をかなえたところで報われることは一生なく、それでも書いて生きていくこと。それが希望なのか絶望なのか、わたしにはやはり、今ひとつわからないのです。

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