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必ずしも定着したとは言えない日本国内のリベラルアーツ教育。数多くの「ボタンの掛け違い」や、その背景を探る。

海外とは様子が異なってしまった

長い歴史のなかで育まれてきたリベラルアーツ。
ここまで、大学におけるリベラルアーツ教育について、さまざまな角度から見てまいりました。

皆さんもお分かりになったと思いますが、欧米と日本国内とでは、かなり様子が異なっているのです。
もちろん、日本の方は、戦後欧米から導入された“ばかり”ですから、欧米と単純に比較してはいけないのかもしれませんが・・・

日本では、ごく一部の大学では熱心に取り組まれてきてはいるものの、全体としてはまだ手探りで細々行われている、といった感じでしょうか。

しかし、それにしてもなぜ、このようになってしまったか――


ここで、専門家による最新の研究をもとに、日本におけるリベラルアーツ教育導入に関する経緯や問題点を見てまいりましょう。


定義が混乱している!?

現在、各方面でその重要性が改めて取り沙汰されているリベラルアーツ教育ですが、そもそも“リベラルアーツ”の定義が混乱しているのではないかとの指摘があるのです。

慶応義塾大学教授・松浦良充氏は、『「教養教育」とは何か』(「哲學」No66)において、2000年の大学審議会「グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について(答申)」は、各大学の主体的な判断により、「米国におけるリベラルアーツ・カレッジのような教養教育を中心とした幅広い教育プログラムを持つ学部への改組転換を促進することが謳われ、その後の中教審でも同様の提言がなされたことを指摘しています。

しかし、松浦氏は、「中教審の用語には混乱が見られる」とし、次のように忠告しています。

「教養教育」「リベラルアーツ教育」「一般教育」が一体何を指すのかを確かめなければ、「日本の大学を「教養教育」を中心としたリベラルアーツ・カレッジ」に転換しようとしても、再び同じ失敗を繰り返すことになるだろう。

『「教養教育」とは何か』(「哲學」No66、日本哲学会編 知泉書館 2015年4月)
 85頁より一部引用

どうやら、日本では、“リベラルアーツ=教養”と単純に置き換えてしまい、リベラルアーツは教養のことだ、と単純に思い込んでいる傾向がとても強いという背景があるようです。

しかも、“教養” は、知識の多さのことを指すと決めてかかっている方も多いようです。

“教養”についてはこのシリーズの2回目でご紹介した東京大学教授・藤垣裕子氏が、『後期教養教育と統合学』(東京大学出版会『教養教育と統合知』57P)の冒頭で、

「教養とは単なる知識の量ではない」

と明言されています。

教養という言葉の定義にはこれ以上踏み込みませんが、リベラルアーツ同様、教養についても意味の捉え方に問題がありそうです。

いずれにせよ、日本人は、リベラルアーツの本質的な意味合いをいまだによく理解できていない、のかもしれません。

本来であれば、米国流が移植されるはずだった

日本では、第二次大戦後の米軍による占領期において、大学等の高等教育を含めた大規模な教育制度改革が行われ、米国の教育をお手本に、いわゆる6・3・3・4制が導入され、現在につながる新制大学が誕生しました。 

その際、本来であれば、米国流のリベラルアーツ教育が日本の大学に移植されるはずだった、のです。
 
ところが、いろいろな事情で、そうはならなかった・・・ 

少し専門的な話にはなりますが、
当時、日本の教育改革を主導した米国教育使節団は、戦前の日本で行われていた縦割り型の教育ではなく、ヨコ型のリベラルアーツ教育が不可欠であると強調していました。

一方、1940年代の米国では、最古のハーバード大学で創立と共に始まったリベラルアーツ教育がリニューアルされた「ジェネラル・エデュケーション」を導入する動きが始まっていたのです。
具体的には、“人文科学、社会科学、自然科学の3分野から科目を選ばせる”
ことも含めた新しいシステムの導入がジェネラル・エデュケーションの一つの特徴だったのです。 


表面的な移植にとどまってしまった…

日本におけるリベラルアーツ教育の導入において、その発展形である「ジェネラル・エデュケーション」の取り込みに目が向くことになったのは自然なことかもしれません。

ところが、その目玉であった、“人文科学、社会科学、自然科学の3分野から科目を選ばせる”というシステムばかりに目を奪われてしまった、ということがわかってきたのです。

つまり、ジェネラル・エデュケーションの“表面的”な部分だけが導入されるにとどまってしまったわけです。

このあたりの事情について、土持ゲーリー法一氏(京都情報大学院大学・副学長)は、最新の著書『戦後日本の大学の近未来』のなかで、当時の日本における教育関係の専門家たちは、ジェネラル・エデュケーションのみならず、そもそもリベラルアーツとはどういうものか、理解できていなかったのではないか、と指摘しています。

(米国教育使節団の)『報告書』、CI&E教育課、日本側の三者において「一般教育」に対する理解に齟齬があり、出発点から「ボタンのかけ違い」が鮮明であり、混迷のルーツがそこにあったことが判明した。

土持ゲーリー法一『戦後日本の大学の近未来』(東信堂、2022年11月刊)92頁より引用

土持氏は、当時の日本側の交渉担当者たち自身が、ジェネラル・エデュケーションなるものがよくわかっていなかったとの証言を紹介しながら、どうやら、このシステムを導入しさえすれば、それで事足りると錯覚してしまったのだ、との結論を導いています。

つまり、表面的な移植にとどまって、リベラルアーツ教育、あるいはジェネラル・エデュケーションの本質的な部分は置き去りになってしまった、というわけです。

残念ながら、ギリシャや中世以来、欧米の大学で営々と行われてきたリベラルアーツ教育の本質にまで思いが至らなかった、あるいは、深く調べたり熟考したりする余裕がななかったのです。


リベラルアーツについての“教養”がなかった!?

時代背景に思いを巡らせば、終戦直後は新生日本を建設する大事業に国を挙げて取り掛かっていた時代。
短時間で教育の大改革を成し遂げなければいけないという切羽詰まった大変な状況下であったことは充分に理解できます。

しかし、それよりも、もともとリベラルアーツを理解する土台がなかったことが露呈した。

つまり、少々皮肉めきますが、リベラルアーツについての“教養”が日本人にはなかった、と言えるのかもしれません。

このように、リベラルアーツやジェネラル・エデュケーションについてのきちんとした理解がないまま、新制大学がスタートし、その結果、やがて一般教養や一般教育は、厄介者のように扱われ、その後、大学の大綱化によって、案の定?霧散霧消してしまったことは、すでに申し上げたとおりです。

日本におけるリベラルアーツ教育は、1945年の終戦から1990年代初めにかけて、まさに失われた40余年となってしまったわけです。
ちょっと残念な話ですね。


 

「ボタンの掛け違い」を重ね続け

さらに遡ると、この「ボタンの掛け違い」は一つではなく、いくつも重なっていることを、東京大学大学院教授・吉見俊哉氏は、『大学は何処へ 未来への設計』のなかで、指摘しています。

吉見氏は、現在生じている大学に関する深刻化する諸問題の起源は1930年代末から40年代末までの約10年間に高等教育で起きたことまで遡ることができると、述べています。

 この約10年間は、大学が総力戦体制に組み込まれていく戦時期を経て、占領下で「大学」の再定義が行われ、新制大学が出発した時期である。この時期に、日本の大学はいくつもの再定義や強制的な転換を経験する。それらは熟慮を経てというよりも、国家の激動のなかで、有無を言わせぬ力の介入と、その力との交渉を通じてなされたものだった。その結果、戦後の大学にはいくつもの「ボタンの掛け違い」が生じていくこととなった。

吉見俊哉『大学は何処へ 未来への設計』(岩波新書、2021年4月刊)52頁より引用

戦中から戦後にかけて生じた重大な変化とは、一つは理工医の応用研究機関の大増強、そしてもう一つは、旧制高校廃止や専門学校・師範学校の新制大学への統合であり、前者は、戦後における理系・文系の関係を構造的に規定し、後者はリベラルアーツ教育に未解決の問題を残していった、と吉見氏は指摘しています。

つまり、現在でも、「リベラルアーツ教育には未解決の問題が残されている」と吉見氏は指摘しているのです。

 

日本の「大学」は、大学ではない!?

さらに吉見氏は、同著(298頁)のなかで、

日本の「大学」は、実は大学=ユニバーシティではなかったのだ!

とまで、述べています。

痛烈な皮肉であり、絶望感も感じられます。

日本の大学は、はたして大丈夫なのでしょうか?
 

次回は、これから求められるリベラルアーツへの期待と展望について
考えてみたいと思います。


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