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【随筆】拡がった『自己』の先にあるもの

「3億円の税金で、公立の美術館にウォーホルを展示するなんて…」

 夕方のニュースでそんな街頭インタビューを見た。インタビュアーがどんな尋ね方をしたのかは知らないが、他にインタビューを受けていた中高齢の方々は、概ねこんな意見だった。

『芸術を理解しないなんて風情がない!』

 こう捉えてしまうこともできる。けれど、冒頭のコメントが云いたいことはつまり、「自分は満たされていない」という事なのではないか。

 この場合は物理的に「お金がない」ということかもしれない。「そんなお金があったら、もっと私達の生活を豊かにしてほしい」という心の声。もしそうだとしたら、このコメントに対してできることは芸術の尊さを説くことではなく、「本当に良いものが来るのなら一度見に行きたいわ」と云わせるだけの余裕のある生活を提供することだ。

 僕の家もあまり裕福ではなかった。
 行楽シーズンに空港でインタビューされる人々を見るたびに、「暇人はいいな」と嘯く家族のいる家で育った。現実に貧乏暇無し状態だったのかもしれないが、「自分も楽しんで良い」というある種の自己肯定感が希薄な呟きだったと思う。
 戦後を生き抜いてきた世代は兎角「もったいない」と云う。「自分を楽しませる」という発想がなかなか出てこない。僕の生家はそんな家だった。

 
 ところで、僕は、心理学だけではなく、そこと隣接する種々の哲学や仏教、神道にも少し興味を持っている。
 最近、それらの領域に共通しているのが「他への感謝を謳っている事」のような気がしているのだが、どうだろう。

 
 僕は、この「もったいない」思想に浸って育ったせいか、長い間こうした「感謝」を、『自分のような害悪でしかない存在を生かしてくれている事への他者へのおもねり』のように感じていた。要するに『あなたのような人間を生かしてくれてるんだから感謝しなさい!』という事だ。
 だから「感謝」など真っ平だったし、何なら、先回りして「自分のような害悪」は自分で抹消することで周囲の『期待』に応えられるとさえ思っていた。


 しかし、本当の「感謝」とはきっと、そういう事ではないのだろう。


 「自分を楽しませて良い」と思うようになり、自分で自分を満足させてあげようと思うようになる事。自分の存在自体を「居てもいい」と思えること。
 そうやって自分自身を肯定できて初めて、「この自分でよかった」「この自分を生み出してくれた親やご先祖様がありがたい」「自分を支えてくれている色々な存在がありがたい」と連鎖的に思えてくるのではないか。
 
 よく知らないけど、そういう意味で、唯識とかホ・オポノポノとかで、「世界の在り方」=「自分の内面」という捉え方をしているのかもしれない(違っていたらごめんなさい)。


 話が散らかってしまったが、要するに、そうやって良い意味で『世界に向かって自己を拡大する』ことが、自然と周囲への感謝を生み、そういった精神状態が、例えばポリヴェーガル理論で言えば腹側迷走神経系を活性化し、仏教でいえば無我の状態に近づくという事なのかもしれない。『自己を拡大』するには、まず『自己の充実』が不可欠で、つまりは自分を楽しませることが何よりも優先されるのだ。


 僕自身はなかなか、この道を滑らかに進むことができていない。けど、本当に意味で他の存在に「感謝」 できるようになった時、きっと僕は、他の存在だけでなく、自分自身にも同じような感情を向けることが出来るようになって、『世界と自分が同一の存在』に思えるような体験ができるのかもしれない。


2022-10-27

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