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自分とは何か その3

自分とは何かということについて、【トーク】2回に渡って語りました。

それについて、今度は文章に残しておこうと思います。

まあ文章と言っても口述筆記なので、あんまり整ってないところはあるんだけれども、やっぱり文章に残す面白さもあるから、あえて文章で残したいと思います。

今回の面白いところは、自分とは何かってことをまずは決めることができないと。

それを定めることはできないというところから出発して、でも自分を説明しようとしたり、自分を認識しようとするから、人は難しくなってしまう、困難を抱えてしまうし、辛くなってしまうということがあると。

じゃあそのことにどう向き合っていけばいいのかって言うと、一つには自分自身の理解をなるべく細かく精度が高い状態で認識していた方がいいんじゃないかと。

単に明るい人とか暗い人とか、器用とか不器用っていうようなくくりじゃなくって、もっと精密に、自分でものを捉えるようにして行った方がいいんじゃないかと。

そうじゃないと、なんとなくステレオタイプなキャラクターになってしまって、自分の実際の感性とか感じ方とギャップが生じてしまうんじゃないかと思うんですよね。

だからまずは、自分自身の説明を疑ってみる。

もっと自分の実態と重ねて、違和感を感じとってみる。

で、その中でうまく言葉にできないこともあるだろうけども、それを丁寧に言葉にしてみて。

例えば、「自分は明るい」でも、明るいという言葉ではちょっと足りないなと思ったら、快活だとかテンションが高いとか違う言葉に言い換えてみて。

また同時に、時と場合を限定していく。

例えば、食事をする時は明るいとか、恋人といる時は明るいとか、この人といる時は明るいとか。

そうやってやっていくと、自然とわかることもあるんじゃないかと。

そうやって自分自身ってものをなるべく正確に捉えようとしていくってことが、たぶん、自分自身を理解するっていうこと、自分とは何かを追求していくことにとって大事なんじゃないかと思うんですよね。

その上でもう一つ厄介なのが、自分ってものが絶えず変化していくってことなんですよね。

特に人と話なんかしてると、やっぱこういうところあるなとか、やっぱこうじゃないかなっていう、その自分自身の理解とは別に自分自身も変化していってしまう。

前にも語ったように、映画を見た後とか、本を読んだ後とか、食事をした後に、自分自身の考え方や感性が変わってしまう事っていうのはあるわけで。

それを踏まえると、ある段階で一旦自分ってものを区切って、そしてその段階での自分がどういう人間なのか、自分とは何かを見つめざるを得ないと思うんですよね。

でもこれって、結構不可能に近くて。

自分をただ言おうとした瞬間に、自分が変化していくから、その自分が捕らえられたと思った瞬間に、もうすでに変化しているわけだから、その変化した自分とその自分が掴んだ自分とでは明らかに相違があるわけで、そこに違和感を感じざるを得ないと。

だと、自分としてはどうしても違和感から逃げ出せないんですよね。

必ず自分に違和感が残ってしまう。

そこが難しいところだなと思いますね。

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