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共依存の正しい知識

 ずーーーーーーーーーっともやもやしてることがあります。それは『共依存』の使われ方。一般的に使われる言葉というのは、正しい意味を間違えたまま使われることは多々あります。私もあります、普段使う言葉、精神用語とかは全て正しく把握して無いこともあります。
 共依存とかは比較的ポピュラーな言葉だと思うのですが、心理職に関わっている方もたまに間違った使い方をしていたのを見かけますし、特に多いのが恋愛コンサルなるものをしている方々。心理を学んだ人なら、この概念は基本的な部類なので知っているはずだと思いますが、独学だとしたら知らないのも無理はないのかもしれません。正しい共依存の概念を知っている方はとても専門的で特殊な関係にしか当てはまらないと知ってるから安易に使わないです。
 普段はこうゆうのは気にせずスルーするのですが、この件はスルーできない。なぜなら私のカウンセリングの師匠は、日本に「共依存の概念を広めた」斎藤学先生のお弟子さんで、共依存の概念についてはしっかり教えこまれました。その血筋、と言うか、その流派的なものがあるので気になってしまうわけです。師匠はネット上でも間違った認識が多いと言います。
 そこで、今回はせっかくなので共依存の正しい意味を覚えていただきたいのと、みなさんが口にするであろう共依存の状況について書きたいと思います。

恋愛、パートナーの関係においての共依存

 恋人関係で、すごい甘えられてる状況だったり、お世話したり、お金を工面したり、色々ありますが、共に依存しあっている状態「共依存」と、表現していませんか? 結論から言えば、この使い方間違えてます。どこが間違えてるかを説明するより、共依存の正しい概念を説明すると理解が早いです。
『共依存とは、一方はアルコール依存症者であり、一方はその依存症を治そうと努力してる共依存者
 共依存という言葉が生まれた時はアルコール依存症でしたが、今ではギャンブル依存症や買い物依存症、ドラッグなど、依存症におけるものが当てはまります。ちなみにDVやリストカット、摂食障害なども依存症とみなします。この時点で、共に依存し会う意味と全く違うベクトルに向いてることがわかると思います。”治そうと努力”とあり、なんだか健気な人のような印象を持つと思いますが、本質は全く違います。共依存の説明はこのように続きます。
 
共依存者が依存症者を治そうととすればするほど、依存行為が確固たるものとなり依存症が悪化していくこと」これが共依存関係。

 
はい、もうこの時点で認識していた”共依存”の意味と違うことがお分りいただけたかと思います。恋愛コンサルの言う”共依存”に意味を当てはまると、文章が支離滅裂になるかと。もう少し詳しく説明していきます。
 依存症者は共依存者を心配をさせることによって相手の自由を束縛しようとします。一方、共依存者は相手を自分に頼らせ支配しようとします。依存症者をパートナーに持つ相手は搾取されるなどと表現されてるのも見かけますが違います。一見依存症者の方が疾病な感じはしますが、この共依存者もなんらかの心の問題を抱えていて神経症的な部分があります。そして、相手が依存症でいることをどこか喜んでいます。つまり自分にもメリットがあると言うことです。
 例えば、浮気をよくしていた夫。気づいても何も言えなかった妻。そして、何かをきっかけで夫がうつ病になり休職することになりました。家にいるようになったとします。妻は外に出かけられないで自分に頼るしかない夫のことを、心の奥底で喜んでいます。当然、そんなことは人には言えないし、本人でさえ無意識な場合もあります。
 元々は依存症から生まれた言葉ですが、依存症ではなくてもうつ病や体の病気でも共依存というのは成り立つんですね。無意識でも、と言うか、大体無意識だと思いますが、心の奥底に支配したいと言う感情を持ち、病気や依存症を助けてしまい長引かせることが共依存者。とはいえ、パートナーが何かの依存症、病気だからと言って必ずしも共依存関係な訳ではありません。気持ちや状態、それがあるかどうか、ここがポイント!なので、余計に安易に使える言葉ではないことがわかります。
 今は共依存者という言葉より支え手<イネイブラー>と言われることが多いです。依存症者の依存行為を助けている(悪化させる)という意味合いです。
 
 共依存関係は二人の支配したい力のせめぎ合いになります。本人たちは愚痴やら嫌だと周りの人へ言いますが、別れることは選択しません。
 普通にみると共依存は良くない関係と思うかもしれません。どこかのネットサイトで「共依存関係を解決するには別れるしかない」と見ることもありますが、別れを選択しないし、別れても解決しないです。と言うか、そうゆう問題ではないです。二人の関係としては終わりますが、共依存者は頼らせて支配したいと望んでいるので、別れてもまた同じような人と付き合います。聞いたことありませんか?DVを受けた人が、その人と別れ、次に付き合った人がまたDVする人だったと言う話し。これは無意識ですが、本人がそれを望んでるんですよね。DVする人ではなくても相手をDVするように仕向ける人もいます。望んでるんですよね。
 逆を言うと、共依存症者ではなく、健常なら悩む間も無くすぐ別れて未練なく終了です。
 
斎藤学先生はこうおっしゃいました。
 「共依存だから別れた方がいい。なんて、一言も言っていない」
このお言葉、私は結構衝撃でした。目から魚でした。鱗より大きいという意味で。友人カップルが、一方がアルコール依存症になり一方は止めようと必死でまさに共依存関係になっていました。でも、別れずに乗り越えました。これもひとつの愛の形。他人が何と言おうと本人たちが満たされていたらそれが一番幸せなんですよね。乗り越えたら二人の絆は強くなりますよね。「共依存関係を解決するには別れるしかない」と言う言葉がお門違いだとわかります。
 
 余談ですが、共依存と同時期に生まれたのがアダルトチルドレン(AC)という言葉。これも斎藤学先生が日本で広め、今では一般的に使われてる言葉でもありますが、アダルトチルドレンは元々アルコール依存症の親を持つ子供とういう意味合いです。そして、父親=依存症、母親=共依存者、子供=AC、その家族を総じて機能不全家族と呼び、斎藤先生は今はACではなくこちらの言葉をよく使うそうです。細かい説明は省きますが、このような両親を持つ場合、家族として(親として)の機能が正常に機能しておらず、そのしわ寄せが子供にいくという感じです。ざっくりですが。 

言葉が足りていない 

 共依存は使ってた意味合いは間違っていたと理解できたと思いますが、「頼りすぎてる」「甘えすぎてる」「共に依存し合っている状況」など、確かにそのような状況はあるし、それを表現する言葉がない。ここにひとつ言葉が欲しいと思うのですが、加藤諦三先生の著書でちょうどいいお言葉を見つけました。それが『幼児的依存心』という言葉です。
 幼児的依存心というのは、色々な角度で見解が変わりますが、ここで言う幼児的依存心は平たくいうならば「〇〇してくれて当たり前」という考え。例えば、、、たくさんありますね。構ってくれて当たり前、連絡してくれて当たり前、お金出してくれて当たり前など、結婚してると掃除してくれて当たり前、料理してくれて当たり前、パンツ洗ってくれて当たり前、パンツにシミつけて当たり前。それと、よくあるのがわかってくれて当たり前、察してくれて当たり前だと思います。当たり前と言うことは〇〇してくれないと腹が立ち怒る、スネる。そして喧嘩になる。こんな痴話喧嘩よく聞くと思います。
 パートナーのみならず人間関係が拗れたり、険悪になる人というのは、ほとんどがこのわかってくれて当たり前という依存心の考えがベースあったりします。依存してるから敵意を持つものです。

 本来、幼児的依存心は生育歴の中で甘えの欲求を親が満たしてくれるもの。しかし、満たされていないと、大人になってもこの欲求が残ります。これがいわゆるインナーチャイルドですほとんどの人は少なからずあると思いますが、この度合いによっては精神障害や依存症、精神疾病の原因ともなります。
 親ならば無条件に〇〇してくれて当たり前は、当たり前なんです。求めていいんです。衣食住だけではなく愛情を与えるというのは親の義務です。しかし、大人になり、他人との人間関係には当たり前なことは何一つ存在しません。安易にその欲求を出すと嫌われます。人が離れていきます。
 では、幼児的依存心を卒業し、いきなりメンタル自立できるかと言うと、それもまた不可能です。そんな人間はいません。幼児的依存心を卒業するにはインナーチャイルドの甘えの欲求を満たしてあげる必要があります。そこで必要なのが、パートナーなどの安全基地の存在です。
 離れると言ったり、必要と言ったりでダブルバインドになっていますが、言いたいのは求めすぎたり、理想にハメようとしたり、別れたり、付き合ったりトライ&エラーを繰り返しながら、成長していくしかないと言うことです。ちょっと失敗したからと言って、愛情を簡単に諦めたらダメ。

  『共に依存しあってる関係』は世間的に悪いことのように言われてますが成長過程に必要なので問題無いです。心の成長は一人ではできません。人と心を通わせることでしか成長できないんです。安全基地を持ちながら、甘えの欲求を満たし、いずれ精神的自立を目指せばいい。そして自立した同士で相互依存関係になればいいんですよね。人は甘えの欲求がしっかりみたされたら、勝手に自立するものです。
 仮にそのような依存しあってる関係で悩んでいる時は、本心では自分は居心地がいいし、良い関係だと思ってるはずです。それが自分にとっての良い選択なのに、世間的として恥ずかしいこと、ダメなこと、かっこ悪いことなどと思い、もっと理想な暮らしがある、人から憧れられたいなどの欲求もあり、本心と世間体の矛盾に悩んでるんですよね。世間体うんぬんではなく、自分が自分を許してないだけ。その世間体って具体的に誰でしょうか、実在する人なのでしょうか。。。当たり前のことですが、世間体ばかり気にすると幸せが遠のいていきますし、苦しくなり、孤独になります。欲求不満から優越感や虚栄心を求めるようになると、その欲求は一生満たされることはありません。逆に枯渇感が増していきます。パートナーというのはインスタで自慢するためにいるのではありません。笑

 成長の過程で依存場所、依存心はあっても何も問題はない。ただ、時折わがまま言いすぎていないか、言葉は足りているか、自分を見直しましょ。思いやりは忘れずに。年齢はいくつとも言えませんが40歳過ぎてきたら、してくれなくて当たり前、わかってもらえなくて当たり前と言う考えを持ちましょ。こう思うことで、何かしてくれた時にありがとうと言えるし、わかっていないから言葉や態度に礼を尽くすし、隣に居てくれるだけでも感謝できるものなんですよ。

終わりに

 共依存の正しい知識から、少し話逸れて幼児的依存心について書きました。今回は少し専門的だったかもしれないですね。共依存は思っていた意味と大分違ったのではないでしょか。私もカウンセリング学ぶ前は正しい意味なんて知りませんでした。素人なのでそれこそ共に依存し合うと思っていました。笑 だいぶ専門的な言葉というのがお分かりいただけたかと思います。もっと詳しく知りたい方は斎藤学先生の著書を読んでみてください。 ちなみに、共依存関係で悩んでる場合、夫婦カウンセリングができるカウンセラーに相談してみてください。
 幼児的依存心については、少しインパクトが強く悪いことのように見えたかもしれませんが、そう悪いことではありません、誰だってあります。ただ、努力してインナーチャイルドをインナーマッスルに変えていきましょ。。。芯を強くするという意味です。

 〇〇してくれて当たり前という世界に生き、思ったように動いてくれず人々に怒りを感じながら生きるか、〇〇してくれないのが当たり前という世界に生き、関わってくれる人々に感謝をしながら生きるか。

愛される人生は後者ですよ。

最後まで読んでくださいまして、ありがとうございます。
次回はこの流れで依存症について書こうかと思います。が、他のこと書くかもしれません。。。


 
 

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