「悩む」技術
中学生くらいから今まで、「考え過ぎ」と言われた記憶がある。ネガティブな意味だ。高校生のとき、当時の彼女に振られたときもそんな類のことを言われた。指摘は適切で、あまり気にしなくてもいいこと、一般的にはもう少し簡単に感情の切り替えができそうなことも、悩んでいた。解決策を探し前に進んでいる、というより、同じ場所グルグルと回っている、そんな感じだ。
「考える」には意味があり、「悩む」には意味がない、とよく言われる。「考える」は建設的で前に進んでいる、「悩む」は客観性なく起きた出来事にネガティブな感情を抱いてステイしている。仕事では「『悩む』のではなく『考える』ことして、解決策を見出さないといけない」と言われる。僕が「考え過ぎ」と言われたとき、それは「悩み過ぎ」という意図だった。
悩む意味はあるか
悩むって意味のないことなのだろうか。
例えば、空気清浄機がほしくて、二つの製品のどちらを購入しようか迷っているとする。決断ができない。何で迷っているかも明確でない。あっちに行ったりこっちに来たり、前に進んでいないような気持ちになる。こういうときに「考える」と、選定する要因を分解してりするのかもしれない。「機能性」「デザイン」「価格」とか。「悩む」場合は、境界性が曖昧でぼんやりとしている。
例えば、駅構内で男性とぶつかる。ぶつかったときに、その男性は明らかに意図を持ってあなたとぶつかる方へ体重を掛けた。あなたは考え過ぎる。「なぜわざとぶつかってきたのだろうか」「どうしてか、負けたような気がして悔しい」と、モヤモヤする。帰宅してからも、その出来事と不快な感情で、頭に淀んでいる。
こんな風に書くと、「悩む」行為は非効率で精神的な疲弊に繋がりそうだ。そして「非効率で精神的な疲弊に繋がる」という描写は事実かもしれない。しかし、考え過ぎで、悩んでしまう僕としては、肯定的な意味を見出したい。「悩む」という活動に信頼を置きたい。そうでないと、僕が今まで沢山悩んできた労力、時間が無駄になってしまう。
頭に余白を持たせる
そう、「悩む」という活動にほんの少し意味があるのではないだろうか。
考える必要がないことについて考える。意味がなさそうなことについて考える。その活動で豊かになる感性がある気がする。人はいつも意味のある、正しいことについて考えている訳ではない。そして、意味のない、正しくないことについて考えることで、見えてくることがある気がする。
考えることに遊びを持たせること。無駄に考える、「悩む」を続けることで、どこかのタイミングで「考える」フェーズに突入し、自分らしさ、自分の考えに昇華できるはずだ。悩んで悩んで、悩みをクシャクシャに丸めて捨てる行為を何度も行って、自分らしい輝く考え、勉学だけでは得られない知恵のようなものが生まれると思うのだ。
悩みの中で醸成する感性
悩んでもどうしようもないことについて悩んでしまう。人は理解できないもの、共感できないものに触れると、暴力的なほどの反発の情動が生まれることがあると思う。その情動は泥臭くて生々しくて、ときにすぐに忘れ去ってしまいたい。でも外部との摩擦で生まれた悩みを煮込むことで初めて湧き上がる感情、投影される価値観、解き放たれる自己、みたいなものがある気がする。
もし悩みたくないのなら、外部との接触を避ければいいのかもしれない。外部との摩擦で沸き起こるネガティブな情動を直視するのはエネルギーが必要でときに危険。ずっと家に籠もり、誰とも話さず誰の考えにも触れず、芸術や芸能も全て遮断する。そして、ときにその選択は正しいと思う。僕もうつ病を経験して、外部と遮断することでしか回復できない傷があることを知った。
と同時に、悩んでもどうしようもないことについて悩み続ける。悩みをグツグツと煮込んで初めて見えてくる自分の内側もある気がする。プロセスは辛くて放棄してしまいたくなるし、放棄してしまうことも悪くない。でも悩むことで泥の中から発見できる気付きもあると思う。
微量の悩みを持ち続ける
モヤモヤと悩むこと、頭が整理できてない状態、情報が散乱している状態。そんなときは、紙に書き出したり人と話したりして、頭をクリアにすると思う。しかし、クリアになり過ぎても危険な気がする。もちろん同じことについてモヤモヤし続けることが正解ではないと思うが、モヤモヤが根絶されると虚を突かれる可能性がある。
完璧だと思って提出した課題、資料。蓋を開けてみると大きなミスがある場合がある。整理し尽くして、考慮し尽くしたと信じていたが、間違っていた。完遂したと思ったとき、思考はクリアで選択に誤りがないと確信し、モヤモヤは消えていた。この状態が危険だと思う。悩みがない、ということは、部分的には思考が止まっていることの裏返しだと思うのだ。
情報過多で圧倒されている、酷いことを言われ感情の整理が追いつかないなど、モヤモヤと悩みが残る状態にも種類があるのだろうが、微量の悩みを残す、という技術は価値がある。悩みが消えてしまったときに、あえて「これでいいのか」「まだ考える余地はないか」と思考を継続します。より深く、より豊かに悩みを発展させる技術だと思う。
悩みは感受性の裏返し
「悩む」という活動は精神的負担が大きいと思う。悩みを手放す技術、切り替えて未来を見る技術も同じくらい大切である。しかし、もし悩んでしまう場合は、「悩む」というのは技術で、神経が敏感、感受性が豊かな証拠だと肯定的に捉えるといいと思う。悩む力が転じて、自分らしい尖った考え方、人に見えない角度からの視点に繋がると思う。
これからも悩むことを肯定的にとらえて、あえて悩む活動を続ける選択をしていきたいと思う。「悩む」という一見ネガティブな頭の使い方も、実は物凄くパワフルで価値があり、成長の糧になると信じたい。
もし「考え過ぎだよ」と言われてしまう読者の方がいれば、「悩む素質は技術、恩恵かもしれない」と捉える選択肢を持ってほしい。「悩む」のは感受性が豊かな証拠であり、悩むことで感性を磨くことができ、知恵、本質的思考に昇華できる可能性があるかもしれない、と捉えてみてほしい。僕はそう信じて、もっと悩んでもっと考えて、負けないためのバネにしたいと思う。
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