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生きることの辛さをそのまま受け止める

「考え過ぎ」と何度か言われたことがある。敏感とか繊細とか、同義語かもしれない。その指摘は正しいような気がしていたし、うつ病になったから多分そうなのだろう。「うつ病は真面目な人がなる病気」とも言われたことがあるし。考え過ぎって、なんだろうね。

最近まで「人、世界に期待し過ぎだから落ち込むのかもしれない」と思っていた。僕が会社を実質クビになったとき、絶望した。絶望したのは、期待していたからだと思った。「五年も誠実に働いてきたのに」「言葉や行動で示して信頼を勝ち取ったと思ったのに」「会社や上司を信じて着いてきたのに」と。「裏切られた」「捨てられた」と強く感じた。

そう感じたのは、期待していたから。誠実に働いていたら評価されるだろう、能動的に働き素直に会社と上司に着いていけば成功するだろう、という前提を頭の中にあった。まさか自分がクビになるなんて、そう思った。期待し過ぎた。人、会社という存在、信頼関係、誠実に働くということ、それらを素直に信じて生活をしていたら、報われると思っていた。期待し過ぎたから、落胆していた。そう思った。

でも、そうじゃないかもしれない、と思った。いや、「そうじゃないかもしれない」というより、真理とは離れて、ものの考え方を変えると恨みや辛さから解放され、心が落ち着くかもしれない、そう思った。

ある考え方に出会った。「がっかりした気持ちになるのは、勝手に期待し過ぎてた自分が悪いから、自分にがっかりしてしまう」という相談があった。それに対して誰かがこう回答した。「誰だって腹立つこと、倫理を無視したことをすると、それだけでがっかりしない? 期待なんか関係なくて、本能的に嫌だからがっかりするんだよ。あなたが期待し過ぎていたことが悪いんじゃない」と。

「期待し過ぎていた自分が悪い、だから期待しないようにしよう」と自分を責めるのも一つの考え方かもしれない。でも、そもそも人間として嫌なことは嫌だ。腹の立つことは腹が立つし、がっかりすることはがっかりする。もしかしたらそれだけなのかもしれない。だから「がっかりすることがあったから、私はがっかりした」、これだけで十分なのかもしれない。感情を「そのまま受け止める」、この考え方で十分なのかもしれない。

無駄な心配や絶望は避けたい。ならば自分の受け取り方をどうにかこねくり回して改善したい。自分がある捉え方をしていたから、別にがっかりする必要のないことに余計にがっかりする、ということは避けたいだろう。そうなると、客観視したときに「他の人ならがっかりしなような事柄を、主観的な見方をしたからがっかりしてしまった。だから人への期待を止めよう」と無理に論理立ててしまう。

考え過ぎってこういうことなのかもしれない、と思った。気持ちが沈んだときに論理立ててしまう。理由や意味を問おうとする。原因を自分に追求しようとする。感情を理性的に捉えて、反発しようとする。

でも、心を楽にするには、悩み過ぎず頭を回転させるには、「そのまま受け止める」というものの見方が大事なのかもしれない。腹が立つ出来事があったから腹が立つ、あの人ががっかりさせる行動をしたからがっかりする、それだけ。別にそれ以上追求する必要はない。ある感情が起きた、それだけ。そのまま受け止める。

論理立てようとすると、よくありがちな「期待し過ぎた」という文脈に落ち着こうとする。真実としては「期待し過ぎた」が正解かもしれない。でも「期待し過ぎたから」と自分に矢印を向けて、心が楽になるのか。無理にありがちな理由を付けて、感情を押し殺そうとしているだけじゃないだろうか。

嫌なことをされたら腹が立つ。倫理に反することをされたら絶望する。がっかりさせられることが起きたらそれだけ。以上。そのまま受け止める。おしまい。

その感情を受け止めたから心は沈んでいる。じゃあ、元気になるように努力をしよう、と諦めが付く。切り替えができる。沈んだ心を癒やすために温泉に入ろう、スイーツを食べよう、好きな映画を観よう。そうやってありのままを受け入れて諦めるのも、がっかりしたときの一つの対策ではないか。

「考え過ぎ」とは書いたが、もしかしたら中途半端な論理立てなのかもしれない。「期待しすぎた」なんてよくある文脈を当てはめて自分を納得させようとするけど、実際はそれだけでは割り切れない。でもそこで思考が停止しているから、気持ち悪い。悩んでしまう。

だから「そのまま受け取る」というのは、考えをさらに発展させた処世術なのかもしれないと思った。「期待し過ぎた」だと非は自分にあり納得がいかないから「掘り下げようもなく、嫌なものは嫌」と納得できるように認識を捉え直している。だから「考えずに感情をそのまま受け止める」というのは単純な思考停止ではなく、悩みをさらに深ぼった結果なのかもしれない。

生きることって、憂鬱で窮屈で怖くて不条理で胸糞悪いものだと思う。そういうとき「なぜ否定的に考えてしまうのか、なぜネガティブな感情が起きるのか」って考えてしまいがちだけど、もしかしたら理由、意味なんてなくて、世界がネガティブだからネガティブに感じるのかもしれない。そういうものなのかもしれない。

もしくは理由や意味を中途半端に見つけようとすると余計に気分が沈むから、「ありのまま受け止める」という意識的な対策を講じた方が、切り替えがしやすく、自分を責めなくて済むかもしれない。

「どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え」
「この世は、考える者にとっては喜劇であり、感じるものにとっては悲劇である」
「幸福とは幸福を問題にしない時をいう」
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」

これらは僕が好きな名言だ。「苦しいのは当たり前」「人生は近くで見ると悲劇」と悲観的になっているように聞こえるが、そうではないと思う。生きることは辛い、という前提に立ち諦めた上で、どう喜びを見つけるか、と見出そうとする考え方だと思う。「生きるのは辛い」と考えることで諦めが付いて少し辛さが和らぎ、「辛いなら辛くないような人生の見方をしよう」という極めて楽観的で地に足の着いた、人生謳歌の宣言だと思う。

生きることは、矛盾、不条理、鬱屈まみれで、世界はむさ苦しく胸糞悪い。真面目に考えると、中途半端に悩むと、辛さが主観で膨張する。「なぜだろう、どうしたら抜け出せるのだろう、期待し過ぎているのかな」と理由とか意味を探そうと考えると、辛い。

「がっかりする出来事が起きたからがっかりする、嫌なことをされたから嫌だ、倫理に反することをされたから腹立たしい、人生は辛いから辛い、世界はネガティブだからネガティブに感じる」くらいいいと思う。考え過ぎない、いや、もう一つ掘り下げて認識を捉え直して「嫌なものは嫌、胸糞悪いものは胸糞悪い」と割り切る、諦める、切り替えて気分が上がるように工夫する、それも上手く生きるコツなのかもしれない。

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