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【173】愛を証明するための結婚、あるいは契約の力を活かす(畑健二郎『トニカクカワイイ』)

新婚夫婦の生活を描いた、畑健二郎『トニカクカワイイ』という漫画が『週刊少年マガジン』で連載中です。場面の設定がそもそも少年誌としてはおそらく珍しく、また作者の力量も円熟に達している感があり、安心して読めます。

一部には、作者とその妻である声優・浅野真澄の実際の新婚生活に取材して書かれたものである、という噂もありますが、その(明らかになりえない)真偽はともかく、私のようにわざわざ深読みをするタイプの読者でなくとも、面白く読める作品であるからこそ、人気を博しているのだと思います。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


少女漫画であれなんであれ、恋愛を主題にするものは私にとっては概ねSFですが、この『トニカクカワイイ』の第3巻第26話にあった文言は、なかなか啓発的でした。

『トニカクカワイイ』は、ある若い新婚夫婦の生活を描いた話です。結婚が地域社会や親族に既に認められているところから出発するのではなく、認められていく過程が、ある程度ファンタジー的な要素を含みながらも、記述されています。

その中で、新婚の男性とその妻の親族とが言い争う場面があります。

その妻の親族は、結婚に反対しているのですね。曰く、長く付き合った末の結婚でもないのに、あなたは妻のことをよく知っているのか、本当に愛しているのか、と非難するわけです。

これに対して、主人公であるところの新婚男性は、次のように答えます。

君に比べたら、僕は彼女のことを、まだ何も知らないけど…この愛を…一生を懸けて…証明していくつもりだ。愛が証明されたから結婚するんじゃない。愛を証明するために…結婚したんだ。

これは、なかなか良い台詞だと思われるのですね。

どういう意味で良いかというと、現代に、というよりある時期以降に流通して広く支配的になっている「恋愛結婚」というドグマを受け入れる限りにおいて、実に価値を転倒させる効力を持った言葉になっているということですも。


社会的な規範という意味での恋愛結婚の観念は、もとより極めて複雑な困難を抱えています。

それは恋愛、ないしはロマンティックラヴというものが、或る種内発的・内面的な感情的要素を強く前提するものであると認められているのに対して、結婚は必ず(書面上での)契約という性質を強く持っているからです。

というのに、この困難はしばしば忘れられるのですね。

恋愛と結婚はほとんど一足とびに結び付けられ、あるいは結婚は恋愛のひとつの終局ないし区切りとして観念され、そうして結婚は、ときに恋愛の付帯物になります。

だからこそ、結婚の契約としての側面を押し出す態度は、場合によっては嫌われます。結婚はもとより契約だというのに、まさに結婚の契約としての側面が軽視されがちだということです。

その忘却たるや、結婚と契約を結びつける態度が、不気味な印象を与えかねないほどです。

例えばサルトルとボーヴォワールの関係に関してよく取り沙汰される「契約結婚」というものはごく有名ですが、「結婚なのに契約なのかよ」という印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。

それはとりもなおさず、二人の生きた20世紀中頃において、あるいは現在においても流通している結婚のすがたというものが、一般に恋愛結婚であって、そして恋愛は契約にそぐわない(とされている)からです。だからこそ、敢えて「契約結婚」という形態をとることに、特殊な意味があったのです。それほどまでに、結婚が契約であるということは、都合よく忘れられがちなのです。

……結婚が恋愛のハッピーエンドである、ということは、一定の時間をかけて「恋愛」のなかで相手を知るということを前提とし、その末に結婚するという観念があるわけです(実に、見合いや政略結婚においては重視されない前提です)。だからこそ、先ほど見たような、長く付き合ったわけでもないのに・よく知りもしないのに結婚しやがって、という非難が一応成立するというわけです。

こうして恋愛結婚の観念の背後には——恋愛というものにもいくつか形態はあるにせよ——愛という実績をある程度積み重ねた上で結婚という果実を得る、という発想があるわけです。


以上のような恋愛結婚に関する観念を封印せず、逆転させているのが、先ほどの発言の末尾にある「愛が証明されたから結婚するんじゃない。愛を証明するために…結婚したんだ」というフレーズなのですね。

愛が証明されたこと・愛が確証されたことの帰結として結婚するのではなくて、結婚(の後の生活)を通じて愛を証明していく、と主人公は言っているのです。

面白くありませんか。

愛があるのはわかっているから結婚しない、という態度も十分に可能であるはずです。結婚しなくても一緒に生活することはできますし、現代ではそういう人も少なくはないですよね。「結婚せよ」という社会的圧力も弱くなっていますし、結婚に付帯する法的困難や儀式にかかるコストも相対的には甚大になっているところです。

ところがこの主人公は、結婚を寧ろ積極的に利用する、と言うわけです。利用しなくても良いはずなのに!

「愛が証明されたから結婚するんじゃない。愛を証明するために…結婚したんだ」というフレーズそれ自体は、もちろん恋愛結婚という構造自体を無化するのではありません。結婚をわざわざ愛を証明する手段として用いているからには、結婚と恋愛の間に不即不離の繋がりをみているのであって、主人公は恋愛結婚の規範のうちに囚われています。 

こうした逆転の試みは、なるほど、恋愛結婚の規範の強さを物語るものではあるかもしれません。

しかし、積極的な価値を読み込むことができるのも確かです。

恋愛と結婚の結びつきをはっきりと前提し逆転させていることに寧ろ積極的な価値を見るのであれば、恋愛結婚の規範において愛という実質が受肉するところの諸々の可視的な契約を結び、積極的に拘束を得ることで、寧ろ逆向きに愛という実質を実現することを、この主人公は狙っているのかもしれません。

言い換えるのであれば、主人公が採用しているのは、愛に関して、確信やそれを抱かせる実績がないとしても、実績を積んで確信を構築するためにこそ結婚を利用する、という態度であると言ってよいかもしれません。

「結婚している」という契約の持つ効力は絶大で、それはこの『トニカクカワイイ』という作品の持つ魅力それ自体にも関わります。

主人公のふたりが単なるカップルであれば、目下実現されているような興味深い魅力のある作品にはならなかったことでしょう。作品中の周辺人物はもちろん強い驚きをもってふたりの結婚を受け止めますが、読者である我々もまた、十分にそうなのです。

結婚という公然たる契約の形態をとることで、様々な可能性、様々な法的義務、様々な慣習的義務、周囲の認識の変化、といった一連の事態が次々に招来されるわけです。

結婚に付帯するこうした諸要素による洗礼は、結婚と恋愛が依然かたく結ばれつづけている現代にあっては、愛(への確信)を強化することになるでしょう。主人公は明確には口にしませんが、彼の発言の背後には、こうした作用、つまり契約≒拘束によって確信を強化する作用が前提されていたのではないでしょうか。

キリスト教徒が秘跡(≒印として機能する儀式)を通じて救済に関する確信を得るように、そして(究極的には神を原因とするところの)救済を実現するように、結婚生活によって愛を確信し、愛を実現するという態度があるのではないか、ということです。

(ついでに言えば、カトリックの7つの秘跡のうちの最後のものはまさに「結婚」です。これはもちろん、結婚する者同士の解きえぬ結びつきと、両者と神の間の契約に関わるもので、秘跡論のうちには愛に関する語彙は驚くほど貧弱ですが。)


結婚という、どうしてもロマンティックなものに寄せて見がちな文脈を避けてみると、確信と実践の間の順序を逆転させることの価値が、立体的に見えてくるかもしれません。

なるほど、愛着や意欲が確認されたから何かをする、という図式はとてもわかりやすいものですが、これが実際に行われているかどうかは微妙です。寧ろ、やっていくうちに愛着や意欲が湧いてくる、ということも多いのではないか、ということです。


たとえば小さい頃に習い事をやっていた人は、最初から〇〇をやりたいと完璧に望んでいたはずはないでしょう。

漠然とやりたいと思って、親に頼んでやらせてもらったのが初めかもしれません。

あるいは、別にやりたいと思っていなかったのに、いつの間にか親に連れて行かれたというケースも大いでしょう。

そうしているうちに、いつの間にかに愛着が湧いていた、というシナリオは、特に珍しいものではないでしょう。

私は今でこそクラシック音楽にかなり入れ込んでいる面がありますが、よくよく考えてみると、始まりは、一定程度に裕福な家庭によくあるように、ピアノを習いに行かされたことでした。

別に、最初からやりたかったわけではありません。3歳の子供にそんな自我は
ありません。今思いだしても小賢しいなと思われるのですが、はじめのうちは行くのが億劫なこともあって、仮病を使うこともありました。

それでも徐々に馴染んで、ある程度確かな愛を抱くにいたったわけです。


中学受験の折にも、事情は似ていました。

別に積極的に受験をしたいと思ったわけでもなければ、親がなんとなくほのめかすのでもなければ、受験などという選択肢は頭に浮かぶことすらなかったに違いありません。

いくつか中学校は受験して、そのうちで最も偏差値の高いところに行くのかと思ったら、そうではない別の学校に親が早々と入学金を振り込んでおり、めでたく(?)そちらに入学することになったわけです。

この親の選択が不本意だったと言うわけではありませんが、当時こそ疑問に思ったものです。

とはいえ、中学と高校の6年間をその学校で過ごしていくうちに、愛校心のようなものが芽生え、確実なものになっていったのは確かです。


同じようなことは、皆さんの専門や職業といったものにも当てはまるのではないでしょうか。

ご自身がそれぞれお持ちの専門や職業というものは、一生涯とは言わぬまでも、長く付き合うことになるものが多いことでしょう。そして皆さんは、そうした専門や職業というものになることを、最初からはっきりと望んでいたわけではないと思います。

たとえば高校卒業の段階で将来の夢がきちんと決まっていて、もうこの道で私は生きていくのだ、と決めていたような人は稀だと思いますし、大学で四年間過ごしつつ就活をして22、23歳で就職したという方も、その職業や専門分野に関して最初から絶対的な確信を持って就職した、というケースはなかなか珍しいはずです。

おそらくは、社会や環境や風評や給与の額面に流されて、あるいはその時の自分の考えやその時の自分のあるかなきかの適性に応じて、職業や分野・業種といったものを選んだのだと思われます。どこまでいっても「なんとなく」という面はあったのではないでしょうか。

つまり、最初から納得ずくで、完全に確信をもってその職業や専門分野と関係を持ちはじめたわけではない、と言えるのではないでしょうか。
 
おそらくは決め打ちで選んで、目の前に降りかかってくる仕事に必死になっているうちに、その職業に対する愛着や、そうした愛着に対する確信というものが芽生え、育っていったのではないでしょうか。

割と多くの場合、職業や専門というものには比較的長い時間携わってゆくことになるわけで、その結果として現在の皆さんがあるのだと思います。とすると、みなさんはここまで生きてきたなかで、かなりの時間やその他のリソースを、今携わっている領域や仕事へと捧げてきたわけです。

今現在その仕事を専門に対して全く愛着がない人は別ですが、一定の愛着が生まれているのだとすれば、その愛というものは、皆さんの最初の思い切った選択、あるいはおずおずとした選択の後で、徐々に・事後的に証明されたのではないでしょうか。あるいは、言い方は悪いかもしれませんが、捏造されてきたのではないでしょうか。

職業や専門分野への確固とした愛・確固とした意欲というものが証明されたからその分野や会社を志望して入ってみたということではなく、寧ろその逆の順序がとられることが多いのではないか、ということです。

もちろん、確固とした確信や意欲があって、その企業や業種業界を選ばれたという方は、それはそれでご自身の最大限の力を発揮されればよいと思いますが、必ずしもそうではない場合の方が多いのではないか、という(おそらくは正しい)疑いを、私は抱いているのです。

そして、そのように確信がないままに入っていった業界や専門に対して、今現在一定の愛着がたしかに持たれているのだとすれば、それはまさに先ほど見た主人公のセリフにある通りです。

つまり、愛が証明されたから結婚したのではなく、愛を証明するためにこそ結婚した、というのに似た論理を持つ現象が生じてしまっている。つまり愛というものが最初からあったのではなくて、徐々に証明され(捏造され)ていったのではないか、ということです。


さてこれは、単なる過去の事実、あるいは皆さんの経歴に対する解釈としてももちろん有効なものだと思いますが、考えてみると、これから何かを新しく始めるというときにも、極めて有効になる考え方なのではないかと思われます。

もちろん皆さんの中には、この歳になって何か新しくはじめるなんて、と笑われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、おそらくこの文章を読まれている方の大多数は、まだまだあと10年20年、あるいはそれ以上の単位で生きていくわけです。今後の長い時間、ずっと今と同じことしかやらないという方は、おそらくほとんどいらっしゃらないのではないかと思われます。

どこかのタイミングで何かを新しく始めることになるわけですし、始めていきたいと思うようになるはずですが、その場合に持っておくべき心構えというものが明らかになるようでもあります。

直感的に魅力を覚えるけれどもその対象に対する愛について確信を持てない確証がないというときに、その愛をこれから証明するのだ、という気持ちで、あえて一定の期間・一定の労力を割いてやってみる、ということが必要になるのではないかと思われるのです。

「やりたいのか、やりたくないのか確信が持てないからやらずにおこう」というのではなくて、あえてやってしまおうということです。

そして、やってしまうときに重要なのは、まさに私が先ほど結婚ということについて言ってみたことです。つまり、先ほどの主人公は考えていないかもしれませんが、愛を証明するためにこそ、拘束を伴う広い意味での「契約」を用いる、という所作です。


もちろん紙面上の「契約」ではなく、破っても裁判で訴えられるようなことのない「契約」で問題ありません。

——例えば親しい友達に、私はこれから何ヶ月間この作業・この仕事に集中すると宣言してみる、ということはひとつの方策になるかもしれません。

宣言ということでいえば、誰にも頼まれていないのに170本くらい毎日ずっと書いていられるのは、ある種の宣言による契約が発生しているためです。

ここを見る人全員が毎日読んでいるとは思いませんし、更新を止めても誰も私を攻撃しないはずですが、それでも私は抽象的な契約を結んでいるのであって、だからこそ書きつづけていられる、という面はあるのです。

——あるいは単に良い道具を手に入れてみる。良い道具を買ってみると、あのいくらその道具というものがそれほど根の張らないものであったとしてもやる気が起きて、それを多少やりつづけてみようという気になるものです。

私の知人でも、ランニングを行うにあたってまず良い靴を買って、その結果ランニングの習慣がつづいているという人はいます。

——後は、上に見たことにも関わりますが、(特にお金を払って)人に習いはじめるというのも良いですね。

ものぐさながらなんとか(運動量としてはキツいはずの)アシュタンガヨガを続けられているのは、とりもなおさず、1週間に1度知り合いに教わっているからです。仮に自習だとしたら、楽に流れて「運動は散歩でいいや」ということになっているでしょう。

お金も払えば、なおさら「元を取らねば」という気になって、身を入れて頑張るというものです。

……ともかく続けられているのは、ある種の「契約」があるからです。


さて、『トニカクカワイイ』における愛と結婚の関係の転倒ということから、専門や職業に対する愛着のあり方、そしてこれから何かを始める際の心の持ち方について、見てきました。

換骨奪胎してしまえば、形式から入っていくことで確かになる内容がある、ということです。あるいは、愛する努力を行うことで愛が確証されることもある、ということです。

もちろん、愛する努力をして、その努力が無駄に終わることもあるかもしれません。

とはいえ、人間との関係であるならばいざ知らず、専門分野とか芸事とかであれば、宣言・契約してなお失敗したからといって誰から咎められるわけでもありませんし、何かしらの果実は得られることでしょう。

であれば、少しでも興味が持たれた分野には、人やお金を巻き込んで気楽に挑戦していく、そうしたフットワークの軽さはあっても良いのかもしれません。

■【まとめ】
・「愛が証明されたから結婚するんじゃない。愛を証明するために…結婚したんだ」という文言を抽象化する。

・愛着に確信を抱くからこそ物事を始めるのではなく、ともかく始めて、実践する中で自分の愛着や意欲が確証されてゆく、という考え方を持ってもよいのではないだろうか。

・実際、私たちの専門分野や職業に対する愛着は、行っていく中で固められるものであるようで、最初から確信がある、ということは稀であるように思われる。

・こうした観点は、何かを新しく始める際にはとても重要である。

・直感的に魅力を覚えるような対象に対して、その愛に確信が持てないとしても、やっていく中でおぼろげな愛は確信に変わるかもしれない。

・あるいはその愛は証明されないかもしれないけれども、とりあえず行ってみるということが大切ではないだろうか。

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