見出し画像

寛ぎ禅────禅について考えつづけて辿り着いた、この世で一番楽な禅とは

私が柳生新陰流(*1)に興味をもち、「剣禅一如」という言葉を知ったのは、もう四半世紀以上前のことだと思います。
剣と禅はひとつのものであり、その根本は同じだ、という意味です。

初めは、剣道の稽古の前に座禅を組む人達のイメージくらいしかありませんでした。禅といえば「座禅」です。
しかし、古い武術に傾倒し始めると、「動禅」という語に出会いました。座禅に対して、武術は「動く禅」であるというのです。
これで剣禅一如に一歩だけ近づきました。禅とは、ただ黙って静かに、じっとしていることではなく、心身の状態が「禅」であれば、動いていてもよいと理解したのです。

その後、体術を学んでいたとき、「立禅」を知りました。これは「座禅」より私に合っていたかもしれません。仕事柄、ずっと座った姿勢でいるため、修行でも長時間座るとなると、抵抗がありました。
立禅は、足を含めた全身を内観しやすく、各所の力の入れ具合や重心の置きどころなども分かり、気づきの多い修行法でした。

ただ、仕事をし過ぎた日など、本当に疲れ切ったとき、「立禅」や「動禅」が行なえるかというと、そうではありません。毎日、義務としてやり続けるという道もあるのでしょうが、私には無理でした。

それでも、禅のことを15年ほど考え、いろいろな形で体験したおかげで、この謎の世界について、自分なりに少しは感覚をつかんだと思いました。

その後、私は柳生新陰流の修行を「身体技法」重視から「心」中心に切り替えました。動く禅や、武術に有効とされる立禅など、身体的な形をいったん捨て、とにかく日頃から自分の心を見つめることにしたのです。

江戸時代、柳生新陰流の顧問的存在であった禅僧、沢庵(*2)は、理想の心の有りようを「不動智」といいました。
沢庵は、心を一所に留めないことが大切だと説きます。何か特定のものや感情に執着してはならない。執着することは「心の病」である、として嫌いました。
柳生宗矩(*3)も同じことを述べています。

若い頃の私は、この教えに違和感や矛盾を感じ、ほとんど理解できませんでした。
私は個人的に、何かに「集中」しやすい性格なのです。小説を書き始めれば、何時間でも時を忘れて夢中になります。そこには喜びもありました。
逆に、いろいろなことに意識を分散させるのは苦手でした。多くの仕事を同時にこなすことはできません。

「一所に心を留めるな」といわれれば、そうかもしれないとは思うものの、自分の気質を否定されているようで辛く感じました。何かに集中し過ぎるより、いろいろなことを適当にうまくこなす。そんな器用な人間のほうがよいといわれているようでした。
自分には禅など修められない──と、昔はある意味、悲観していました。

感情にとらわれるなという教えにも、疑問をもっていました。
私は感情的な人間だという自覚がありましたし、感情を大事にしない人は嫌いでした。
なぜ、禅では、悲しい時に悲しみ、嬉しい時に喜び、落ち込んだ時にとことん落ち込むことをよしとしないのか。禅には心などないのか。そんな反発心さえ感じていました。

ですから、30代半ばくらいまでは、とりあえず柳生新陰流の剣術に没頭しました。実技や身体感覚に意識を向けていたのです。
しかし、剣術の型を習い、一定の技術を得ても、自分の心はあまり成長していないことに気づきました。

やはり心の問題に、真剣に取り組まねばならない。
そこでまず、自分の日々の感情を自覚することから始めたのです。
もともと内省的な性格ではあったため、自覚力には自信がありました。

感情を自覚し、認める。
すると、次の段階へ進みます。その感情を手放すのです。

ある感情を手放すと、どうなるでしょうか。
無感情な、冷たい人間になってしまうのでしょうか。

実は、そうではありません。むしろ逆です。
一つの感情を手放すと、他の感情が自然と湧いてくるのです。感情はむしろ豊かになります。自分の心が、いかに多様で柔軟かが実感できるのです。

例えば、ある日、誰かに嫌なことを言われたとしましょう。その後、嫌な気持ちが心の全体を占めてしまうことがあります。一日中、「今日は嫌な日だった」という結論で終わるかもしれません。

しかし、それでは残念です。もし、この嫌な気持ちをしっかり認めた上で、手放してしまえば、外界の見え方が変わるでしょう。
その人と別れた直後の帰り道にも、綺麗な緑や花などが目に入るかもしれません。気持ちよい風が吹いてくるかもしれません。
すると「心地よい」感情が、新たに生じます。

その後も、一日のうちには他に、いろいろな出来事があるはずです。自信がもてること、幸せに感じること、あるいは、さっきの嫌なことよりもっと深刻な問題など、心に留めるべきことはたくさんあると気づくでしょう。
 
一つの感情にとらわれると、心の豊かさが奪われるばかりか、大事な進展や気づきの機会も逃してしまいます。

感情というのは、負の感情だけを指しているわけではありません。明るさにも執着しないことが大切です。
例えば、何かとても嬉しいことがあったとしましょう。浮き浮きした気分になったり、興奮してしまうかもしれません。
これは、いいことのように思えます。ところが、その気持ちだけで心がいっぱいになると、ある意味、危険です。

冷静でなくなれば、失敗をしやすくなります。特に、長い間、明るい気分だけに浸っているのはよくありません。
目の前に厳然とある問題から目を逸らすことになるからです。放置すると、問題は徐々に大きくなり、向き合うことがいっそう困難になります。

ですから、早めに負の感情を認め、嫌々ながらも対処することが必要です。嫌でもいいのです。それがすべてではありませんし、嫌なことが永遠に続くわけでもありません。そう自分を慰めつつ、地に足をつけ、真面目に事に当たるのがよいでしょう。

このように、特定の感情を手放すことは、大きな効果を生みます。私たちの心を解放してくれるだけでなく、行動も自由にしてくれるのです。陰陽のバランスもとれ、結果的に平常心を保つことが可能になります。

平常心を保つ上で、特に重要なことのひとつは、恐れの感情を手放すことでしょう。
日頃から、嫌なことや不幸な出来事に対し、負の感情を手放す習慣を身につけていれば、やりやすいと思います。
万一、恐れているような事態が起きても、自分が全面的に崩れ去る心配はない。そう思うことで、心に余裕が生まれ、恐れから解き放たれるのです。

何が起きても、ある程度、冷静に対処できるという確信。これが不動智だと思います。

不動智は心の有り方ですが、現実の人間関係や、自分の行動、またその結果などにも大きな影響を及ぼします。
恐れに支配されていると、心身は委縮し、思い切った行動がとれなくなります。これは、結果や未来を悪化させるもととなります。
ですから、恐れを感じたら、無理に否定せずに認めましょう。顕在化させた上で、恐怖を手放し、心の縛りを解いて、適切な行動をするのがよいと思います。

もう一つ、現代人の大きな課題とされる感情に「怒り」があります。
この感情もぜひ、手放したいものです。怒りを胸いっぱいに抱えていて、よいことはありません。表情もきつくなり、話し方も何となく喧嘩腰になったりします。通常ならばうまくいくことも、いかなくなるでしょう。

ここでもまず、自分の感情をひろい心でしっかりと認めることが第一歩です。
「こんなことくらいで怒る私は短気なのかしら」と自分を責めたり、「この相手に怒ると損だから、我慢我慢」などといって抑圧してはいけません。
もちろん、一時的には我慢も必要ですが、そのまま自分の気持ちを放置していてはまずいと思います。

「本心」は何よりも強いのです。自分の本心と敵対しても、望ましい結果にはつながらないでしょう。我慢はいつか限界に達して爆発しますし、自責の念は自らのパワーを奪っていきます。

ですから、まず「私が怒るのはもっともだ」と思ってみましょう。
怒った理由をよく考えることも大切です。大した理由でなければ軽く流せますし、大事な自分の尊厳や信念に関わることならば、もっと深く考えねばなりません。

前者のような軽い怒りであれば、「そうだね。腹が立ったね」と、自分で自分に同意し、感情を認めた上で、手放します。

私は、感情を手放すとき、まずはその気持ちを胸に抱くような感じで、よく味わいます。その後、胸を開くような姿勢で大きく息を吐き出しながら、手放します。
これで心がスッキリします。すると、他のことに意識が向くようになります。

軽い怒りやストレスだと分かっているならば、何か好きな方法、楽しいやり方で発散することも可能でしょう。
思い切り走るとか、踊るとか、誰にも迷惑のかからない場所で大声で歌うなど、手段はいろいろとあります。

難しいのは後者の場合です。
こちらは怒ったことや相手に対し、長い目で戦略的に対処する必要があります。
ただ怒るのではなく、うまく工夫や交渉を重ねて問題を解決したほうがよいでしょう。

相手がひど過ぎる場合は、そっと距離を置くことも重要です。
ダイレクトに怒りをぶつけてしまうと、相手とより深く絡むことになります。自他ともに傷つき、問題が大きくなる危険性があります。そんな恐れがあるときは、冷静にうまく退くほうが無難でしょう。

個人的な問題ではなく、社会に対する義憤のような「大きな怒り」については、どうでしょう。そんな大事な問題意識を手放してしまってよいのか、と迷いがちです。
しかし、思い切って手放してみましょう。永遠に忘れ去るというのではありません。「いったん」手放すのです。

ずっと、その問題のみにとらわれていても、他のことができませんし、毎日、不機嫌に怒りながら暮らすのは不幸です。
ですから、いったん心を解放します。

これは驚くべきことですが、問題に対しては、「何とかしよう」と頑張るより、怒りや恐れを手放したほうが、ずっとよい結果が出ます。
自分自身でふと、よいアイディアや対処法を思いつく場合もありますし、そうでなくとも、様々な人間関係や時代の流れなどが自然と働いて、物事がよい方向へ動くのです。

社会や万物は常に変化しています。
自分が何かしなければ、状況は変わらない。そう思えるときもありますが、実際は違います。
感情を手放すということは、自分の中だけに固めていた気持ちを、広い世界に投げかけることだと、私は思っています。
胸の内にあった氷のような心を、認めることで溶かし、水になった感情を、外へ向かって霧のように放つのです。

物理的にも、これは何か効果がありそうだと思います。
昔は、私たち人間を取り巻く空間には何もないと考えられていました。空気はあっても、基本的にはカラであると……。
しかし、近年の科学では、空間にも何かが常に存在しているという説があります。空間は、音や臭いはもちろんのこと、電気信号などの細かいものも伝えますから、人間の意識も、伝わったり、存在したりすることは可能かもしれません。

とにかく、ただ怒りなど一つの感情にとらわれているより、空(くう)に解き放つほうが得策です。
これは昔から、多くの日本人が行なってきた心法なのです。

一つの問題が、一つの原因から発生しているとは限りません。誰も気づかないところに、最も大きな原因が隠れているかもしれないのです。怒りや恐れに支配されていると、そういう部分が見えてこないと思います。
感情だけではありません。何かひとつのこと、概念、物、人などに思考がとらわれているのも不自由な状態で、物事の本質に気づきにくくなります。

一つのことを思い詰めるのはよくない。しかしもちろん、楽観的過ぎても問題の解決は難しいでしょう。
問題を認め、その本質を探ろうとする姿勢は重要です。
じっくりと考えた上で、いったん手放しておく。そうすれば、重苦しい気持ちにならず、課題に取り込めます。何か閃いたとき、自由に行動へも移せます。
自分はどんどん成長できるのです。

ここ十年余りで、私の禅に対する感覚は変わりました。沢庵和尚の教えは、もっともだったと、今は思えます。
私の心は随分と豊かに、自由になりました。

「集中力」は今も大事にしています。いろいろなことを考え、気を散らすのが禅ではありません。
禅には「三昧」という言葉があります。一つのことに深く集中する、というのも禅の修行のひとつなのです。
「集中する」しかし「執着はしない」。この矛盾が、今はもう気にならなくなりました。

集中することで、今まで思いつかなかったような発想が生まれることはよくあります。固定観念が外れるのです。
余計な感情や思考から解き放たれることもしばしばです。

禅とは、鉄のように、あるいは空っぽの器のように、感情を無くすための修行ではないと思います。
以前は何となく、怖く厳しいものというイメージもありましたが、どうも違う気がしてきました。

本物の禅僧になろう、などと思えば、もちろん厳しい試練も必要でしょう。しかし、これは極、限られた、強い人のための修行です。
そもそも、禅寺で暮らそうなどと思えば、人一倍の体力と気力がいります。粗食で、修行ばかりし続ける人生だからです。
頭脳や閃きも求められるでしょう。難しい経典などを多く学び、禅問答にも即答しなければなりません。常人には、とても入っていけない世界です。

しかし、私は日々、禅で自分の心を解放し、精神的にかなり穏やかな暮らしが送れるようになりました。
体力のない私でも、くたびれることもなく、義務感にとらわれることもなく、楽々、続けられる禅とはどういうものか。
それを今後、提唱していきたいと思っています。

私が、多くの人に親しんでいただきたい禅は、名づけるならば「寛ぎ禅」です。ただ、くつろげばいいだけです。

座禅などで瞑想を行なうと、人はリラックス状態へ入ります。同時に、集中力や閃きなど、冴えた感覚もあるといわれています。
究極は、この心身の状態へ至るべきなのでしょうが、とにかく現代人は疲れているので、まずはリラックスを優先したいと思います。
しかも、心を温かく、豊かにするような寛ぎ方です。

私の場合は、思い切って寝転んでしまいます。
姿勢は自由ですが、そのまま眠ってしまう場合に備えて、私は横向きに寝ることが多いです。横向きに寝ると、いびきなどが防止でき、脳の疲労もとれるという説があります。
もちろん、仰向けが好きな人はそれでよいと思います。左右対称な姿勢で寝ると、身体が整うといいます。

とにかく、楽にしましょう。
あたたかい布団など、快適な場所であること。更に、抱き枕やクッションなどを胸に抱えるのがお勧めです。
より幸福感を高めるには、カワイイめいぐるみなどもよいと思います。おとなしければ、ペットを抱くのもいいでしょう。
何でも「温かく、柔らかい、自分の好きなもの」で身を包みましょう。

「どこが禅なの?」と、問いたい方も多いかもしれません。しかし、ここから「寛ぎ禅」が始まります。

自分は今、温かいものに包まれ、柔らかいものに触れている。純粋に、感覚的に、この今を味わうことが大事です。
「過去や未来から解き放たれ、今、ここに集中する」というのは、禅の教えのひとつです。心地よい感覚に、思い切り浸りましょう。枕やクッションや布団などの肌触りがよければ、それを触り、触覚に意識を集中させていきます。

基本的には静かな場所で寛ぎますが、鳥のさえずりや小川のせせらぎなど、穏やかな自然の音がある環境もよいと思います。音に心を集中させるというリラックス法もあります。
周りに自然がなくても、最近はYouTubeなどで探せばいろいろな音を聴くことができます。その時の気分に合わせて選びましょう。

こうした工夫で、だいぶ寛げたのではないでしょうか。
それでも、過去にあったことや、未来への不安、計画などが心に浮かんでくるかもしれません。そういう場合は否定せず、一つずつ味わってみましょう。

しばらく感情を大事に感じたら、手放していきます。徐々に心が解放され、今の心地よさに浸れる度合いが深まると思います。

抱き枕などに抱き着いていれば、身体的に、好ましい物にしがみついているため、他の感情にしがみつく割合が減ります。
どうしても忘れられない根深い感情があっても、今はいったん手放して、心地よいものに身を委ね、休んでみようか。そんな気になるのです。

私はもともと、寝つきが悪いほうでしたが、最近はかなり改善されました。「寛ぎ禅」のおかげです。

「寛ぎ禅」の最中には、新しい知恵が得られることもしばしばです。これまで蓄積してきた知識や経験が、思わぬ形で結びつき、より高い次元でものが見られるようになったりします。
原稿のネタもだいたい、深い寛ぎの中から生まれてきます。
気分もよくなり、幸福感に包まれ、疲れもとれますから、これはもうやめられません。

眠れないときも、「寝よう、寝よう」と焦るのではなく、「今、私は禅を行なっているのだ」と思えば、気持ちが楽になります。身体は休めておいて、頭と心は、座禅のような瞑想状態でいればいいのです。

「寛ぎ禅」などしたら、ただ寝て終わりだ、という人もいるかもしれません。
よいアイディアが得たいとか、潜在意識を呼び覚ましたいという場合は、「半睡の状態」が適しています。「座禅」が基本になるのもこのためと考えられます。
「寛ぎ禅」ですぐに眠ってしまった場合は、目覚めた後、しばらくぼんやり過ごすことがお勧めです。毎日でなくとも、休日など時々でも試してみると、よいと思います。

「禅」に形など無い。これは古くからいわれてきたことです。
つまり、何でもありということです。沢庵和尚のような高僧には、ちょっと怒られるかもしれませんが、私は「寛ぎ禅」を続けていきたいと思います。
和尚ほどの人物なら、疲れ切った現代人に慈悲のお心もあるはずです。
厳しいばかりが禅ではないでしょう。

身体感覚を存分に使ってリラックスする。そして、心を解放する。この方法を知っていれば、安心して、どんな感情も感じることができます。
負の感情やディープな心とも向き合えますし、嬉しければ好きなだけ喜べばいいのです。感情を出してよい時には思い切り出しましょう。

平常心に戻るべきときには、すぐに禅で戻れる。これは自信と安心の源です。

「不動智」とは、心が動かずに固まることではありません。特定の強い感情や思い込みによって、心が振り回されたり、偏ったりしないということです。柔軟に、豊かに、様々な感情をもつことによって、心をひろく自由にする。結果的に自分の本心、根幹が揺るぎなく落ち着く、ということだと思います。

冷静で、かつ温かい心の奥底からは、無限の叡智が溢れ出してきます。そんな素晴らしい心こそが、私たちの「本心」なのです。
ですから安心して、自分や広い世界を信じ、寛いでみましょう。


       ────この記事は2019年6月、公式サイト「自然草紙」
         に書いたものです。加筆、修正して掲載しました。


*1 柳生新陰流……剣の流儀。江戸時代、徳川将軍が習った。「人を切らない平和の剣」で、将軍はじめ大名などの教育に広く用いられた。武士は戦って敵の首を取るものとされていた乱世の価値観を覆し、「争いを平和に治めるのが武士の仕事」という考え方、感覚を定着させた。

*2 沢庵……沢庵宗彭(たくあんそうほう)。禅僧。江戸初期に活躍。上方を拠点とし、江戸幕府に遠慮なくものを申して流罪となる。後に許されて、江戸へ。柳生宗矩と交流があり、その紹介で徳川三代将軍家光の相談役となった。柳生新陰流の心法の確立に貢献し、「剣禅一如」を提唱。
家光は心を病んでいたともいわれるが、宗矩や沢庵の導きにより、立派に政務を行ない、名君と呼ばれるまでになった。

*3 柳生宗矩(むねのり)……柳生新陰流の流祖、柳生石舟斎の子。江戸柳生初代。若くして徳川家康に仕え、関ヶ原合戦や大坂の陣で功あり。徳川二代将軍秀忠、三代将軍家光の兵法師範となる。大名の教育にも尽力し、幕府大目付に就任。剣術者としては異例の出世をとげ、柳生家は大名となった。

よろしければ、サポートをお願いいたします。