30歳、三文小説のような人生

30歳になったので、ひとつの区切りに、自分の過去を振り返って書き出してみた。

最初の記憶は、薄暗い夕方追い立てられながら家の裏口から締め出されたことである。段差のあるコンクリートと土の地面の50cmほどに立って、謝りながら中に入れてとドアを叩いた。母親は鍵をかけて消えていった。怖かった。しかし、夢だったかもしれない。

私はドラマチックな人間だった。

私が生まれる前の話。実家は7代に渡り米作農家を行った。祖父は、子供のころ北海道まで親に連れられ家出をしたが、やがて戻ってきており、表玄関には網走刑務所の手錠の土産が飾ってあった。魔よけの意味があった。
外国に戦争に行った祖父は、戦後町娘の祖母と結婚。おそらく見合結婚だと思われる。農家の閉鎖的感覚からの解放を求めてからか祖母は大量の買い物を行った。彼女の死後、未使用で別室に押し込まれた高級な服やカバンが大量に見つかった。祖母は長女であり残りの男兄弟は、実家の田んぼを売った資金で会社を立ち上げ、全員が社長となった。
父が誕生し、叔母が誕生した。父親は名門高校を出て、いつの時点かで精神病院に入院し、分裂症と診断され薬を飲み始め、縁故で祖母の兄弟の会社に入社。以後、定年まで働いたが、私の母は度々会社へ謝罪を入れなければならなかった。運転していた車を十数台事故などで廃車にしていたが祖母の手前、父親を解雇するわけにはいかなった。
叔母はやがて、別の家へ嫁いだ。

母の話。
祖母は田舎出のおおざっぱで噂好きの女性で、祖父は街男らしい遊ぶことに長けた男で厳しい曾祖父家の末弟であったために好きに暮らしてたというが、何人もいた兄弟は亡くなり思いがけず自分が最期の跡取りとなった。この二人も見合い結婚だと思われる。
母が生まれる前、祖母は一度流産し、母と叔母をもうけた。
実に貧しい家だったという。小学生の時、引っ越しを2回経験している。
叔母は幼少期の偏食が原因なのか、ゆっくりと視力を失う病となり、現在は盲目である。
明け透けな母と祖父はよく言い争いをし、夜中に包丁をもって枕元に立ち、この男さえいなければと殺意を何度も抱いたという。
一方の叔母は、何を考えているか感じさせず、いつの間にか結婚し子供を2人もうけたが、ギャンブル癖のある夫に耐えかねて離婚。子供は夫方の祖父のもとで育った。長女はやがて17歳で子供を産み田舎で結婚するも離婚し、その後、結婚、出産、離婚を繰り返し、3回の離婚を経て、シングルマザーをしている。彼女はADHDによる記憶障害にさいなまれながら2人の子供を仕事して育てている。最初の子供は離婚の際、夫に親権があり絶縁し、子供にも障害が出たとされ、夫の父親は疲弊し病死した。
母親は高校卒業後、いくつか仕事をし、実家にいた曾祖母を看病するに至りバブル期を壮絶な苦しみの中、ほとんど家で過ごした。外国優位教育の影響で洋楽や洋画に傾倒するようになり、退廃と耽美な世界好み、純文学を読みふけり、文字中毒者であったという。また、過食症の傾向があった。世渡りは上手いが人間嫌いであった。仲の良い友人はいたが、慕われることに疲れたのか、終活の一部か、連絡を絶つようになった。曾祖母が亡くなり、母は父親と見合いを行った。結婚願望がなかった彼女は、父親を異様な男だと思い、断ったが親戚が跡継ぎのために何度も頼み込まれた為と、すさんだ介護から抜け出すために結婚を受け入れた。そして20年間に渡り、夫が精神疾患があることを知らされずに暮らした。
この時、私の実家は祖父、祖母、曾祖母、父、母、そして脳障害のある祖父の妹で構成されていた。祖母は6歳程度で成長の止まった妹に家事をさせ、無理なこともさせた。憂さ晴らしだったのだろう。
やがて、私が生まれる。父方は長男でないことに大そう失望し、後に婿取りのための教育を私に行うようになった。妹が生まれたとき、また女子であったこと。4年ぶりの子供であること、そして母がこれ以上妊娠すれば命に関わるという理由で卵管を閉じたことで、幕を下ろした。
最初の記憶は、先述の通りである。
そして、私は長い歴史ある家の跡継ぎとして、年中行事に集まる親戚に礼儀作法よくいかに愛されるように喜々として、あるいは必死になった。「いい子」目標は、唯一正しいことのように思われた。農家は、仕事のオンオフが無いため、慢性的なストレスと、私が誕生したころは高齢化による兼業農家であり、米作はもはや惰性でしかなかった。祖父母は体に鞭を打って働き、嫁に行った叔母家族まで呼び込んで、田植えや稲刈りを行った。後に従妹が家を建てるようとして詐欺に遭い、叔母の夫とためていた預貯金が限界となり、生前相続として数百万円を渡したが、それまで農業を数十年手助けした叔母夫婦には一切謝礼金は無かった。
物心ついたころからこれらを聞かされていた私だが、先の祖父の妹が私を友達だと思って遊び相手になってくれ、皮膚がんを患っても病院へ行くことを禁じられた彼女の最後には、一緒の布団で寝ていたという記憶はない。ただ、彼女は実家に「存在しない」という名目で、親戚が来たときは座敷に隠された。親戚はそれを知っていた。


私に物心がつき、まだ母親と寝所を共にしていた頃。部屋は豆電球がつけられ、薄暗がりの下で毎日寝ていた。布団を頭まで被り、体を抱くようにすると眠れた私は、その日も同じように眠りかけていた。ふと、気配に気が付いて布団の端をめくりあげると、全裸の父親があおむけの母親の顔の真横で正座をしてしきりに何か話している。私は総毛立って思わず布団をかぶり直したが、母親が心配で何度か様子を見た。やがて、何度目かで父親が仰向けの母親の上に覆いかぶさって何かしていた。母親は全裸になって、何事も言わなかった。私は部屋を飛び出すという思考が何故か無く、早く終われ、聞こえないようにしろ、と両手で耳を塞いで「んー」と唸って耳に入る音を満たした。いつまで続くのか、怖くてたまらないと思っているうちに私は眠っていた。翌朝、母は平然としていた。そしてその晩から、父親は障子一枚を隔てた自分の寝所から、その障子を開けようとするので私は母を傷つけまいと必至になって、全力で障子の引っ掛かりに指をかけて全体重を乗せて開けさえないようにしたが、父親は「お母さんに話があるだけや」と笑いながら言った。しかしその力のなんと強いことだったろうか。障子が外れんばかりの攻防は幾晩も続いた。一度辞めたと思えば、不意を突いたように引かれそうになるが、私は決して中に入れなかった。母親はその間、何の言動も示さなかった。
 しかし、ある晩、何かあったのだろうが記憶がない。私は母親の寝所を飛び出して、廊下を渡った奥の物置部屋へ逃げ込み、埃とかび臭い畳まれた布団に体を寄せて眠った。その日から、物置部屋は私の部屋になった。
 余談ではあるが、私が生まれ、妹がその4年後に生まれたことを考えると、我ら姉妹は強姦の上に出来た跡取りであったろうと思われるのである。

 私の日常はこうである。
朝、父親が祖母を怒鳴る声で目覚め、階段を降りて台所に「おはよう」という。返事は返ってこない。ただ、ピリピリとしていた。
父親が出勤したあと、私も学校へ行き、学校では大いに愛想を振りまき、好かれることに喜びを感じ、勉学が出来ると知るやそれを誇りをもった。「いい子」「気遣いができる子」「頭のいい子」である。それは中学まで続いたが、音楽がしたかった私は吹奏楽部に入ったが、思うように上達しないことで嫌になり、疎まれているとも感じちたので、卒業前に辞めた。その年、部は初の全国大会へ進んだ。
帰宅すると、母はとにかく疲れていた。愚痴をこぼしていた。実際、ストレス性のがんになった。
 母親のがんは父親が原因であることは吹き込まれるように、同時に同じく異様に感じていたので、高校進学は愛する歌が出来る有名な合唱部がある進学することが目標になり、達成したとき、力尽き、発病した。私は遺伝性のADHDに環境原因、つまり極度の不安とストレスの元、発症したのである。
これは父親がまだ隠しており、50年近く前にはADHDという病気が知られていないことによる鬱とされた。私は頑なに精神病院に行くのを嫌がった。父親と一緒になるのが、何よりも泣くほど嫌だった。
 しかし、本格的に落ち込む前にやるべきことが見つかったために、治療は数年先になった。
 このころ、やりがいが母親が病気で不在のための家事担当であった。
 入院時に母親から受け取った数千円は自炊してもすぐになくなった。食料棚にあるインスタント食品を用いても限界がある。私は食費を貯金から出し、バス代が着いたら駅まで歩き、途中の八百屋で買い物をして両手にビニール袋を食い込ませて電車に乗った。父親から金銭不足を理由に食費を出すよう頼む訳にもいかなかった。父親は周囲からは母親のがんの原因である疲労をなぜ和らげてやらなかったのか、と責め続けられ、被害妄想に輪がかかり突けば何をするか分からない。病院の見舞いで耳の遠くなった祖母が大声を出すと「怒るから静かにな。あの人、怒るの、嫌やろ?」と諫めながら私もびくついていた。奇行は、さまざまだった。私が料理をしていると茶の間のガラス戸を少し開けて、隙間から私を覗いている。煮物の大皿を別の家族に回そうと持ち上げると「わしに食わせられんて言うがか!何のつもりや!」と怒鳴る。今でもトラウマなのは、入浴後の私が脱衣所で着替えをしていると、何事が怒鳴り込んできた父親が半裸の私に迫ってきた事である。私は制服のブラウスをひっかけて家を飛び出し、神社まで走った。鳥居の前でうずくまっていると、一台の車が止まったのを覚えている。それは余程ひどい恰好だったから気になったからだろうが、その時の私は変な奴が迷惑な事をしていると思われた、と、立ち上がって奥の境内へ身を隠した。車のライトが消えていった。しかしいつまでもここに居たら、今度は妹の番である。何が起こっていてもおかしくないと思いながら、家に帰ったが、何事もなく静かだった。おそらく。
 一度、母親の見舞いで後で行くからと父親たちを先に帰らせたあと30分ほど、無言で母親にとりすがって泣いたことがあった。この時、私は母親は助からないと聞かされていたので、心労をかけまいと家庭の事情は話さなかった。母親は「どうした」と言いながら、背中を撫でさすり、隣の患者さんは「でかねんねがおかあさん恋しがっとるわ」と笑っていた。
 そうして、2週間で私は10Kg痩せた。
 母親の手術は成功したが、それからの不調は現在に至るまで回復しなかった。
 私はこの頃、元からあった守銭奴具合に拍車がかり、成績も落ちていたので就職を進路相談員に話したが、進学高校生の卒業後の就職は現実としてかなり難しいとされ、ならばと4年制公立大学と入学から卒業までの費用が同じほどの短期女子大学に通った。

 先述したADHDという病名と治療法が分かったのはここ数か月前のことである。
 女子短大に進んで、私の対人恐怖症と逃げ癖に拍車がかかり、家にひきこもってチョコレートやアイスクリーム、ポップコーンなど菓子が無いと不安でいっぱいになる日々が続いた。摂食障害の本格化である。後に医師は本来の病気に加えて勉学での挫折からの自信喪失と寂しさが原因であると説明してくれた。
 講義はなるべく出るようにしたが、休む日も多く、学費を計算すると1講義5千円だとわかると罪悪感で押しつぶされそうになり一層食べる。
 成人式のとき、私は157cm88kgとなり、着るものは男物で贅肉で疲れやすくなり、呼吸がしにくくなった。醜いと恥じる感情は強く、他人が自分をどう見ているかという自意識過剰な状態が続いた。成績こそ学年首位ではあるものの、進学校から来た私に対して、同学年の学生は「なぜここにいるの?」と言った。これには別に落ち込むことはなかった。ただ、嫌みな奴だと思われたくなかった。
 卒業後は、安定した職業を目指し地方公務員試験を受けるも、二次の面接では「形だけの面接で実は縁故で決まった人材がいる」という噂も多少本当だったのか、面接で町長は居眠りをしていた。どんな理由があるにせよ、私は不採用となり、大学のセミナーで講師を務めた教員の誘いでベンチャー企業に就職した。
 防災関係のIT企業であり、ゆっくりとプログラミングを学びながら手に職をつけるつもりだった。実際、後の転職にベンチャー特有の「どんな仕事も担当する」という経験が身を助ける一部になった。しかし、入社した数か月後に東日本大震災が発生し、私は現地と会社を2週間おきに高速道路を行き来して通うことになった。慣れない環境やほぼ24時間体制の仕事で、2週間ごとに5kg痩せては帰ってきた。これには新人ゆえにまともに成果が出せない代償として体重を落とすという結果で埋め合わせ的喜びを感じていたせいもある。ストレスで口が開かなかったこともある。出張手当は出ないため、コンビニで8枚切りのパンと飲み物を備蓄して過ごした。外食にお金を出すことはとてつもなく嫌だったので、衝動食いをする日は、男性社員のいない日の夜、ドラッグストアに車を止めてドガ食いをした。公民館で寝泊まりしたあとは、やっとアパートの一部屋を借りたが、障子1枚向こうでは男性社員が寝泊まりしている。移動中の運転は男性社員が行ったが、彼の持病による鼻息を絶えず助手席で聞いているのは、気持ちが悪かった。気が許せない状態がしばらく続いたが、ひと段落したころ、社長がのちのパワハラ上司を呼び込んで運転資金を確保すると、新入社員のプログラマーが標的にされ体調を崩し、辞職。私は2番手だったので、これ以上は耐えられないと退職した。この前後、私は大学病院で治療を開始していた。
 大学病院で処方された抗うつ剤の効果で一時食欲が消えたのをきっかけに今度は42kgまでほぼ寝たきりの何も食べないに等しい状況で体重をおとした。この時ほど、幸せだった瞬間はない。頭を働かせず、治療=痩せて普通になる、ということだけが目標だったからだ。しかしほどなくして体重はリバウンド。少し食べても自己嫌悪し今度こそ食べないと決めては食べてしまうという繰り返し。治療薬も1日90錠を越え、これ以上は何もできないと大学病院が言ったので、病状はそのままに仕事を転々とした。清掃業、介護職、温泉施設の洗濯業、新聞配達、灯油の注文受付など。どれも1年と続かなかった。
 このとき勢いで家を出て、今のアパートで暮らし、父親が病気であるということもようやく知り、父親ははなから話を聞き入れたり相談するということができない「病人」だったのだと思うと、これまで家業について長女なりに「変わり者」と話をしようとしり言動を改めさせようとした私の努力がいかに無駄だったか、どこに怒りをぶつけていいのかわからなく、空しかった。
 ある夏の日、私は通勤中にカミソリで最初は手首、次は首の動脈を探して波打つ場所めがけて切り裂き、血が出るほどに喜んだ。終わりにしたかった。死にたいのではない、もう考えたり感じたりする苦痛を終わらせたかった。とても疲れていた。職場につくと、同僚は慌てて救急処置を行い、救急車に乗せられ、いつの間にか入院していた。
 強制入院の生活は、2度と送りたくない日々である。異常な人々に囲まれ、常に気が立ち、夜は眠れず、起きても好きなものは食べられない。替わりにガムを一日中噛んだが、コーヒーを飲みタバコを吸うせいかすぐにしょっぱくなり、顎が疲れた。日中は朝から晩まで図書館の本を読んだ。医者は1週間に1度様子をみたり、忙しいと休診になるため、いつ出られるか分からない。外出はもちろん、売店にも行けないので内心身もだえした。このとき、唯一CDプレーヤーを許された。最初はCDを割って自殺する可能性があるため保留となったが、その心配はなさそうだと許され、歌えないが聴いている間はとても幸せだった。一日中、タバコを吸いたい気持ち、食べたい、眠りたい欲求の不満は、これがあったから過ごせたのだろう。泣きわめいたこともあったが、何とか退院した。
 その後、しばらく仕事をしないで生活のリズムを取り戻すうち、これまで考えてもいなかった性の自覚があった。
 当時、25歳。
 人に嫌われないようにすることで精いっぱいで、まともに衣食住ができる「人間」を目指し、ようやく道が開けてきたときに見えた、恋愛というものを考えた初めての時だった。

 これも現在の主治医のいう事であったが、ADHDである場合、服用する薬の副作用が強く出ることがあり、また依存することが多いらしい。私は例に漏れずそれだったので、不安、不眠、強張りに対して出してもらえるだけの薬を処方され、眠気覚ましと食欲をなくすとされるコーヒーをスプーン4杯で1回分、一日5,6回飲んだ。同時に安くて強い煙草を一日中吸っており、一種のハイであった。これに乗じて、私は近くのスポーツジムに通い始めた。見る間に痩せ、見た目に自身が出てきた頃、果たしてこの姿をどういった相手に認めてもらいたいのか考えた。
 そのとき、対象は女性であると認識した。
 しばらくして、ジムで働くある女性に恋をした。
 見るからに家庭を持っていそうな女性で、優し気で明るそうな人だった。
 この人と恋人として過ごす自分を想像して、とても幸せだった。肉欲も伴った。
 恋をしても、病気もしていなさそうな一般女性を引きずり込もうなど思いもしないので、やがてそこは退会した。
 東京の大手のイベントに出向いて気に入られた女の子と付き合うことになったが、非常に精神の不安定な子だったので、最終的には振られる形となったが、まともにキスもしないで別れたのが、唯一の交際らしい経験である。この頃、大吹雪のなかアルコール中毒で連絡の途絶えた関東まで北陸から車を飛ばし、帰りに事故で車を廃車にもした。
 その後も、SNSやオフ会に出てみたがこれと言ってよいことはない。
 自分もそうだが、「メンタル持ちお断り」という条件もよく目にする。正確には障害だが、感情の不安定なことに変わりはない。
 その後数年間で、コーヒーの過剰摂取によるパニック発作で何度か救急車に運ばれたりもした。特に鎮痛剤などは出ない。
 そんな中、県内で有名だという精神病院に通う場所を変えた。そこで、しばらくして私はADHDであり、父親の遺伝であり、また私に仮に子供ができた場合その子に遺伝するものだと知った。私は子供を産まないことにした。同時に、こんな病気に付き合わされるかもしれない恋人や伴侶は持たないことを決意した。
 生きるなら、自力で。
 いい加減、自分は病気なのだから、「慣らし」から始めるべきだと自覚し、障害者就労支援の職場に1年間通院し、奇跡的に安定した立派な会社の事務員になった。
 当時28歳。フルタイム勤務でたまに休みもしたが、今でも続いており、これまでで最高の職場環境だという有難さを噛み締め、勤め続けている。
 29歳のある日、落ち込んでいた私は母親に電話を掛けた。これまでも相談に乗ってくれていたが、どうもこのところ塞ぎ気味であった彼女は、電話中にこう言った。
「あんたと話してると自分が怖くなる」
 電話がかかってくるたびに怯えているし、説教しているとそれが果たして正しいことなのか逆効果になってはしないかと思うようになっていた。
 そして、数日後実家を訪れたとき、彼女はそう言ったことを覚えていなかった。
 私はお互いのために縁を切ることにした。
 30歳になり、ほぼ放心状態になった。まさか、生きているとは思わなかった。ましてまともに仕事をし、自立している。
 これ以上、トラブルに巻き込まれるのは御免だと、1月に一種の決意表明として絶縁状を実家に送った。法的効力はないものの、将来相続問題が発生したときに相続放棄するという意思を示していたという証拠になるよう、手元にコピーもとった。
 しばらくして、父親が勝手に捨てた可能性もあるので、この時だけ着信拒否を解き母親に連絡すると、届いているらしかったが、電話は彼女が自身を憐れんで錯乱し始めたところで私から切り、再び着信拒否にした。
 それから今に至るまで、親族関係から連絡は来ていない。
 誰が死に、結婚しようと、私は知らないし、他人となったのだと思うことにした。

 これから、ひとり。
 死ぬまでのおまけの人生をどう生きようか。
 それを思うとき、最初の祖父の言葉が思い出される。

 好きな事を愛し、人に迷惑をかけず、終わる。

 ただひとつ願うなら、何か残せたらいいと思う。
 小説でもエッセイでも、絵でも歌でも。

 こう思うのは、私がまだ若くエゴや夢を諦めきれていないからだろう。

 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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