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ノンフィクション 母さんが押された

母さんが押された。駅の下りの階段で知らない男に。
私は見ていない。母さんから話を聞いたんだ。
何故だかわからないけど、その話を半年に1回は必ず思い出している。
頭の空想の中で押された母さんを想像する。
母さんは世界でたった1人の私の母だ。
歳は64歳で、身長156cm。ショートヘアで小柄で可愛い私の母が、知らない男に階段で押されたそのシーン。
私は実際には見ていないが、鮮明に知っている。目を擦らなくても、メガネをかけなくても、一時停止しなくても、私は何度も見た。
隈無く知っているんだ。お前のことを。

場所は門前仲町だ。麻布十番へ向かうため、母は門前仲町で都営王江戸線に乗り換えていた。
その日は雨が降っていた。昼過ぎて人は多くない。ホームに降りる階段を3分の2程降りた。残りはあと3分の1だ。
リュックを背負い、傘を右手に持ち、ヒールの低い黒の革靴を履いた右足を、
「よいしょ」と小さな掛け声と共に降ろしたまさにその時、
急に背中をぐいと押された。
階段を転げ落ちそうになった。
母は堪えた。
運動神経が良いのだ。
心臓が止まるかと思ったが、全神経全筋肉を働かせて母は踏ん張った。
そんな母の横を、男が足早に階段を降りていった。
男を見た。
母は確信した。故意だと。
勘が良いのだ。
実際母の周りにはその男しかいない。
あの男だ。
母は男を追いかけた。
男は足早にどんどんホームを進んで歩いてる。
まさか母が自分を追いかけてるとは思ってないだろう。
男は足早だが、その足取りはどこか間抜けなハイエナのように油断している。

そうだ。
あの日。雨の降る昼下がりの門前仲町は、男にとって惨めなものだった。
普段群れをなして狩りをしているハイエナの男は、いつも獲物を分けてもらっていた。
「獲物どろぼうめ」
「なんて弱い男」
男からも女からも蔑まれていた。
あの日、惨めな気持ちで歩いていると、
前方に年老いた獲物 母を見つけた。
「おい、俺がしとめてやろう」と、ハイエナの男は年老いた獲物の後をおった。
腹はすいてなかった。ただ何かを痛めつけたかったんだ。
だから追いかけ、一思いに引っ掻いてやった。
「俺様は強い!ムキムキ!ムキー!」
ハイエナ男は気分が良かった。
引っ掻かれた獲物は声もあげなかった。
「今頃あの老いぼれは、俺を恐れて草陰に隠れるか、あるいは歩けなくなったかな」
男は、気分が良かった。
知らなかったのだろう。
老いぼれた獲物 母はライオンだったと。

母は走った。
「あのハイエナ野郎」
ハイエナの気の抜けた足取りに、母のダッシュは簡単に追いついた。
母はハイエナの背中に手をかけ、声をかけた。
「さっき、押しましたよね?危なかったんですが」
日本語ではそういう意味だが、
「Do you wanna die?」
「お前殺されたいのか昼飯にしてやろうか?」
ライオン語ではそういう意味だ。

「ごめんなさい」
ハイエナはそう答えた。日本語ではそういう意味だが、
「I don’t wanna die」
「食べないで」
ハイエナ語ではそういう意味だ。

続く


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