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得たから感動したんじゃない、喪失したから感動した
名越康文さん(@nakoshiyasufumi)さんが、以前こんなツイートをされていた。
おそらくだが、人は得るという感覚に感動はしない。むしろ喪失の感覚に感動しているのではないか。たとえば安心を得たのではなく不安の喪失に。愛された時は孤独の喪失に。
— 名越康文 (@nakoshiyasufumi) July 11, 2021
はじめてこのツイートを見た時は、何となく「なるほど」と思ったくらいだったけれど、先日ゲーム実況で感動した際に改めて思い出した。
確かに、感動は喪失によるものかもしれない。
映画も本もゲーム実況も、ストーリーには必ず終わりがある。
ドラマチックな展開、作品から受け取るメッセージ以上に、ずっと触れていたストーリーが終わる、そのストーリーに触れていた自分が一旦いなくなってしまう、そういう喪失に心を動かされているのかもしれない。
何かを得ることは、すなわち何かを失うことでもある。
承認欲求も実は、承認を通して欲求を満たしている感覚ではなく、承認を通して「承認されていなかった自分を喪失した感覚」に、満足しているのかもしれない。
自由を得たことが嬉しいのではなく、不自由を喪失したことが嬉しいのかもしれない。
振り返ってみると、何かを得た時よりも、何かを喪失した時の方が激しく心が動く気がする。
けれど、「何かを喪失する」ということはまた「何かを得る」ということでもあるから、やっぱりぼくらは「得る感覚」によって心を動かされているのだろうか。
何かを得た時、同時に何かを喪失するはずだから、今後何かを得る機会があれば「喪失」の観点でも考えてみたい。
「喪失を得る」という考え方もできるところが、おもしろいんだよね。
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