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就活をめぐる冒険

渦に呑まれるようにはじまり、やがて没頭し、もう終わりにしてくれと願った就活。そこで得たいちばん大切なもののひとつは、街のちいさな古びたホテルからの一通のメッセージだった。

はじめに

こんにちは!
今日は就活を終えたわたしからこれからみなさんに、絶対にやっておいた方がいいことを五つ、紹介したいと思います〜!ぜひひとつでも実践してみてくださいね。
なんていうテンションで始まる文章では、もちろんない。本当にタメになる就活テクニックみたいなものが読めると思った方、すみませんがそういうものは全く書けません。

就活体験記を書くのに憧れた。さらに溯ると受験体験記を読むのも好きだった。愛読書だった。最新のものだけでなく、何代か前まで読んだと思う。几帳面そうな人、長い間準備を続けてきた人、部活を頑張った勢いで受験勉強する人。わたしも自分の成功について恐縮しながら、でもこの人の信念、すてき‥と思わせるような体験記を書き、後世まで読み継がれたい。なんなら依頼を受けたらこうやって書こうさえ考えていた。準備はできていたんですよ。ついにわたしは書くことはなかったが、ここで挑戦してみようと思う。
ただし、そうやって新卒で就職した会社を一年ほどで辞めてしまったので、かなり意味合いは変わってくると思われる。

就活体験記

わたしが就活をしたのは三年前、大学三年の冬だ。
いまではそれがスタンダードになっているかもしれないが、コロナによってオンライン面接が普及しはじめたときだった。
フリーペーパーの学生団体に所属していたので、印刷やメディア系の企業を中心に受けた。わたしのやったことは、その業界以外評価されないと思った(今思うと致命的に短絡的だ)。そしてもう一つの軸が、東京の企業で働くことだった。名古屋には、ぼんやりと、けれど切実に、いないようになりたいと考えていた。名古屋に支部があるとしても、総合職でも、東京に本社がある企業であればきっと東京で働けると盲信していた。そして会社の制度を利用して、大義名分を引っさげ、東京で暮らすのだ。
インターンはいくつか参加したけれど、採用直結のものはなかった。さらには参加したインターンで、その業界や業務に自分が適性があるか、ということを考えるのも うっかり忘れていたので、インターンはまったく意味がなかったと言えるだろう。コロナにより、その年の新卒採用を見送る企業もちらほらあった。「わたしという人間を採用する機会を失ったんだからな。」と涙を流した。
三月に入って、会社説明会を受け始め、企業研究をし、ESを出し、適性検査を受けた。わたしは愚直な就活生だったので、適性検査をだれかと受けたり、そういう協力プレイみたいなことはしなかった。知らなかった。このことからもほのめかされるように、わたしは就活について無知だったし、まったくもって孤軍奮闘していた。大学のキャリアセンターは頭の固いおばさんだらけで、そんな人の手に負えないようなところに就職したいのだから、きっと当てにならないだろうと決めつけ、結局最後まで一度も利用しなかった。
三月も終わりの頃だったと思う。大学で健康診断があった。本当に久しぶりに学部の友達と会い、やっぱり就活の話をした。固有名詞の出てこない会話だった。みんな面接を受けたと言っていた。わたしはまだ受けたことがなかった。

初めての面接は本当に散々だった。忘れもしない、大阪の企業のオンライン面接だった。自分の部屋の光の当たり方や背景が気に入らなくて、否、それは建前で、家族に面接を受けている声を聞かれるのが恥ずかしくて、わざわざ名古屋駅周辺のマンションの一室を短時間借りるサービスを利用した。昔からそういう子どもだった。英会話塾に行き大学では英語を専攻していたのに、家族の前で一度も英語を話したことはない。借りた部屋には、一人暮らしっぽい感じの家具が揃っていた。日当たりは全然良くなかった。なんていうか不気味だった。管理している人が悪い人で、今にも鍵を開けて入ってきやしないかと気が気じゃなかった。
肝心の面接。下調べをそれはそれは入念に行った。会社名、従業員数、そういう調べればすぐ出てくる会社概要を、ロルバーンのノートを一冊就活用とし、ちまちまと書き写した。盲点は、一度もシミュレーションをしなかったこと、だろうか。あまりに愚かである。ESの「ガクちか」や「自己PR」「志望動機」を音読したことさえなかった。
男性と女性が一人ずつ画面に映った。あ、就活って、向こう側には本当に企業の人がいるんだ。みたいなことをそのときやっと理解した。
そして定番の質問にもおろおろと答えられなかったり、世間話のような軽いトーンで話してしまうわたしを見て、明らかに笑っていた。
わたしも半ば呆れつつ、「え、もうどうしたらいいですか?やめてもらえませんか?」という気分だった。
画面が消えると、息つく暇もなく荷物をまとめ部屋を飛び出し、電車に乗った。
セブンイレブンで冷たいそばと唐揚げ棒を買って、泣きながら自転車にまたがった。何もできなかった、と考えたのを思い出す。

それからというもの、二度と同じ轍を踏むまいと、わたしは無双状態だった。面接の貸し部屋は矢場町にあるホテルのデイユースをを利用することにした。フロントに誰かがいてくれると防犯的にも安心だろうと考えたためだった。喫煙だった頃の香りが染み付いた部屋。キーホルダーのついた鍵と熱いおしぼりを受け取り、一階のフリードリンクで薄い薄いコーヒーをもらって部屋まで上がった。自室ではなくホテルの部屋なのですが、気合いを入れて臨みたいと思ったので場所を借りました、というと非常に受けがよかったので定番の挨拶となった。一日で三つの面接をはしごするような日々が続き、自己PRは淀みなく言えるようになった。今でも言えるかもしれない。志望動機は業界ごとに何パターンか作り、社名やサービス名を入れ替え、それを言い間違えさえしなければOK。面接官を人として意識したことがないくらい、まばたきもせずパソコンの上部のちいさなカメラを見つめて演説をし、大げさなリアクションをとった。面接が終わると、聞かれた質問などを記憶が新しいうちにびっしりとノートに書き残した。悪知恵がまったく働かないので、面接の様子を動画なり録音なりで記録したり、カンペの付箋画面に貼っておくなんて思いつきもしなかった。たまに面接や会社説明会で東京に行くと、やたら夜景の綺麗なホテルに泊まった。そして予約時には部屋のデスクの大きさを確認した、そこでオンライン面接を受けられるように。

そういう日々を繰り返すうちに、わたしは受ける会社受ける会社、それぞれのサービスを通して社会の役に立ちたいと、本気で、心の底から、願うようになっていた。ガクチカにはこの就職活動のことを言いたいとさえ思った。高校や大学受験で不合格ばかりだった自分にとって(自分の性格にそこまで影響を及ぼしているとは考えていないが)、自分なりに研究や工夫をし、自力で初めて掴み取る成功体験──内定が、自分の中でそのようなものになる手応えを感じていた。そして採用サイトに掲載された借り上げの女子寮の写真の、その白い壁、狭いキッチンを、毎日毎日、穴が開きそうなほど見つめた。少なくとも当時の自分にとって、就活のゴールは、就職やもっと先の未来ではなく、内定を得ること、そして上京するための片道切符を得ることだった。
普段は、アンチ「社不(社会不適合者)」である。自分がそうであろうとなかろうと、そんな言葉を使って自分を貶めたりすることは絶対にしない。しかし当時の自分に激励の意を込めて、あえてこの言葉を使うなら、社不の片鱗はこの頃にはもう見えている。就活に、自分のメソッドに酔っていた。

その後の就活状況は一進一退で、一喜一憂する日々だった。持ち駒を増やしに増やした。意味のわからない触手の広げ方をし、母からも「???」というリアクションをされ、自分でもよくわからないのだ、しかし就職するにはこうするしかないのだ、と思いつつ、企業理念や、新入社員の華々しい「一日のスケジュール」などを見てまた、本気でこの会社と社会のために働きたいと恋焦がれるようになる。その繰り返しだった。全部やりたいの、頑張りたいの、でも結局、どこでもいいの。

わたしの就活は、岐阜の田んぼの中の車も通れないような細い畦道で終幕を迎えた。小雨が降る日。母からは、本気でその会社に行こうと考えているの?と送り出された、ちいさな町の印刷会社の会社説明会兼一次面接の帰り道。養老鉄道とかいう私鉄の、30分に一本しかない電車に乗り、住宅街を通って、田んぼ道を抜けると、工場があるのだった。
わたしも、何をしているのだろうと思った。東京で働きたくて、東京での面接を終えた次の日に、なぜ岐阜のこんな田舎道を歩いているのか。その会社に勤めるイメージはまったく抱けなかった。なぜ就職するつもりのない会社の面接を受け続けるのだろう?
わたしの就活は、この頃には完全に本質的ではなく、的を得ず、空回りまくっていた。
そう思った帰りの電車で、第一希望だった企業から内定のメールを受け取った。一も二もなく受け入れた。

最後にもう一社、いけたらいいなという会社の最終面接を受けに東京に行った。結果にかかわらず就活は辞めるつもりだった。家族、バイト先、そして部屋を借りていたホテルにお土産を買って帰った。
その頃にはホテルのフロントスタッフのおじさまたちとは不思議な関係で結ばれていた。いつもにこやかに対応してくれたし、鍵を返すときには、WiFi大丈夫でしたか、延長料金いらないし、予約サイトでは値上がりしてますけど安くしますよ、みんなで応援しているんですよ、と声をかけてもらっていた。いつからか日当たりが良く、人があまり来ないフロアの部屋を割り当ててくれているのだと気づいた。今までありがとうございましたというちいさな手紙を添えて渡し、サイトにも口コミを残した。我ながら粋なことをするものだと満足した。
すると返信が届いた。

当時の自分を映した鏡を、いまの自分が覗くような感覚。
今、そのホテルでは、会議用のライトやマイクを貸し出すサービスをしているそうだ

渦に呑まれるようにはじまり、やがて没頭し、もう終わりにしてくれと願った就活。その巻き込まれっぷりが いまでも目に浮かぶ。わたしが特に悪いのでもないし、だいたいの就活生がそんな感覚だと思う。よくやったよ。そしてそこで得たいちばん大切なものは一通のメッセージだった。受け取った当時の誇らしさとはまた違う、切実に胸に迫るような言葉たち。これからどうやって向き合っていけばいいのだろうか。どうかお元気で。そして本当にありがとうございました。

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