八田靖史@コリアン・フード・コラムニスト
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。全10章78記事。 ◆ 韓国に留学生として渡ったのが20年前(1999年9月20日)。そこから1年3ヶ月という期間は、23歳の僕に大きな変化をもたらしました。物書きを志して、その体験を留学記にまとめたのが25歳の頃。世には出なかった拙い没原稿ですが、そこには当時のストレートな本音が詰まっていました。
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <最終章(7)から続く> <第1章(1)から読む><最終章(1)から読む> ◆ <あとがき> 25歳の僕が書いた留学記はおしまい。このあとがきは43歳になった20年後の僕が書いている。20年前の留学時代はたいへんまぶしく、それは留学記を書いた18年前の姿も同様であった。 過去の文章はだいぶ粗削りではあるもの
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <最終章(6)から続く> <第1章(1)から読む><最終章(1)から読む> ◆ さて、ここからは後日談である。 2001年4月をもって僕は大学に復学。うっかり3年間もまわり道をしたので、大学7年生という耳慣れない立場であったが、久しぶりの大学生活を謳歌した。 単位はそこそこ足りていたので、卒業論文を書く以
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <最終章(5)から続く> <第1章(1)から読む><最終章(1)から読む> ◆ 新大久保でのアルバイトは衝撃の連続だった。 「ハッタぁ、パプチュゴク持って来い!」 「ぱ、パプチュゴクってなんですか?」 「パプチュゴクも知らないのか。これだよ」 しゃもじだった。 手渡されたしゃもじを持って料理長のもとへ行
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <最終章(4)から続く> <第1章(1)から読む><最終章(1)から読む> ◆ 勉強会が終わると、行き付けの居酒屋「梁山泊」に流れる。僕はいつまでも送別会をせびる迷惑者という扱いで、MTのように感傷的な雰囲気はなかった。最後にこうした日常の場に参加できるのは嬉しい。 いつもの巨大なケランマリ(卵焼き)やコルベ
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <最終章(3)から続く> <第1章(1)から読む><最終章(1)から読む> ◆ ゲーム大会が終わって部屋の外へ。次はペンションの庭でキャンプファイヤーを行うのだ。トトロ会長による点火の儀式を終えると、盛大な火柱があがってあたりが明るくなった。夜はまだまだ終わらない。歌って、踊って、12月の寒さにも負けずに盛り上が
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <最終章(2)から続く> <第1章(1)から読む><最終章(1)から読む> ◆ 実は留学前。僕は小、中学生と遊ぶボランティアリーダーをしていた。サマーキャンプ、スキーキャンプなどの野外活動をたくさん行ってきたので、団体でのコミュニケーションゲームは得意分野であった。 それをMTスタイルにアレンジしつつ、同好会
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <最終章(1)から続く> <第1章(1)から読む> ◆ 卒業式の日は学校前に花束を売る店が出る。卒業生がいるときは、そこで花束を買ってプレゼントするのが寄宿舎の伝統であった。むさ苦しい男所帯で、なぜそんな伝統が生まれたのかは不明である。 卒業式は半分厳粛、残り半分はお祭りムードといった雰囲気で進行する。国から
キムチの章/キムチ片手に涙の帰国~その後の話◆餞別のキムチを抱えて完全帰国。そして僕はコリアン・フード・コラムニストになる。 コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章おまけコラムから続く> <第1章(1)から読む> ◆ 10、キムチ片手に涙の帰国~その後の話 僕の帰国は12月15日に決まった。語学堂の卒業式は8日だったが、最後ということでビザの
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章(7)から続く> <第1章(1)から読む><第9章(1)から読む> ◆ <会心の例文を二巡目に> 文法の授業では先生が説明をしたあと、 ひとりひとり当てられて例文を作る。 それが僕はあまり好きではなかった。 「これはペンです」 のような日常生活でおよそ使わない、 例文のための例文を作るのが無意味に感
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章(6)から続く> <第1章(1)から読む><第9章(1)から続く> ◆ 居間に移ると中はオンドルが効いて温かく、身体がみるみるうちに精気を取り戻していくようだった。宴会の盛り上がりと寒さのせめぎ合いは、やはり日が暮れてくると寒さのほうに軍配が上がった。 三河シェフが仕込んでおいたイカと大根の煮物を出す
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章(5)から続く> <第1章(1)から読む><第9章(1)から続く> ◆ 宴会当日。買い出しに出かけた僕は、新村駅前のグランドマートでサムギョプサルと丸鶏を購入した。当時サムギョプサル1kgが9000ウォンぐらい。丸鶏は1羽3000ウォンぐらいが相場であった。 韓国にはタッカンマリ以外にもタッペクスク(
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章(4)から続く> <第1章(1)から読む><第9章(1)から続く> ◆ 寄宿舎で送別会の話が持ちあがった。僕のである。送られる立場となると嬉しい反面、気恥ずかしくもある。毎日顔を合わせる面々ゆえに、気持ちだけ頂戴し、かわりに派手な宴会をしようと丸めこんだ。 宴会であれば自分でも料理ができる。せっかくな
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章(3)から続く> <第1章(1)から読む><第9章(1)から続く> ◆ 「新村のグルメマップ? ちょっと貸しなさい」 予想外にいちばん乗ってきたのが担任のジン先生だった。ペンを片手にニコっと笑うと、ジン先生は自分の行きつけをすごい勢いで書き足し始めた。 「ここにある屋台のスンデ(腸詰め)が美味しいのよ
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章(2)から続く> <第1章(1)から読む><第9章(1)から続く> ◆ 語学堂の授業は、だいぶ卒業を意識したものになっていた。 卒業旅行があるのは嬉しかったが、中間、期末の試験は卒業試験であり、特にマラギ(会話)は大教室の舞台で行う卒業座談会が含まれる。 語学堂の各級では、スピーチ大会、喉自慢大会
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第9章(1)から続く> <第1章(1)から読む> ◆ 寄宿舎に新風が吹くのとは対照的に、僕は日本に帰るかどうか真剣に考える時期がやってきていた。季節はもう秋だった。語学堂のクラスも最上級の6級に上がり、この学期が終われば卒業である。 卒業したらどうする。クラスメートの話題は身の振り方が多くを占めるようになっ
タッカンマリの章/寄宿舎に新風が吹くタッカンマリの宴◆帰国前に作ってみたい料理がある。それは丸鶏をそのまま煮込んだ豪快鍋だ。 コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。 ※情報は当時のもの <第8章おまけコラムから続く> <第1章(1)から読む> ◆ 9、寄宿舎に新風が吹くタッカンマリの宴 寄宿舎にキッチンができて、僕らの自炊生活はますます豊かになった。居間のカセットコンロで