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韓歴二十歳 最終章(2)

コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
最終章(1)から続く
第1章(1)から読む

 ◆

 卒業式の日は学校前に花束を売る店が出る。卒業生がいるときは、そこで花束を買ってプレゼントするのが寄宿舎の伝統であった。むさ苦しい男所帯で、なぜそんな伝統が生まれたのかは不明である。

 卒業式は半分厳粛、残り半分はお祭りムードといった雰囲気で進行する。国から家族を招待している人がいる反面、終わった後の打ち上げをどうするかしか考えていない人もいる(僕だ)。

 式自体も1時間程度とあっけない。

 学期ごとに送り出す学生がいるので、すなわち3ヶ月に1回は卒業式がある。学生には思い出深い瞬間であっても、語学堂としてはそこまで時間をかけていられないのが本音だろう。それでも卒業生ひとりひとりに学長先生から卒業証書が授与され、卒業生代表のスピーチもある。

 僕らは式開始30分前に、地下の大教室に集合した。

 クラスメートの韓服姿はなかなか決まっており、特に女性陣は色合いも華やかで壮観だった。みんなのやる気をひしひしと感じつつ、僕はピンクのモコモコスリッパをカバンに隠す。卒業証書を受け取るタイミングで履きかえるつもりだった。

「ウケたらいいけど滑ったら地獄だな」

 会場の雰囲気はそれまで見てきたよりもフォーマル寄りである気がした。

 気持ち的に躊躇するところがないわけでもないが、寄宿舎で宣言してしまった以上、覚悟を決めるしかない。

 卒業生はカナダラ順で呼ばれる。僕はハッタなのでほぼ最後。残り数名になったところで靴を履きかえ、舞台に上がる階段脇に立った。最前列に座る先生方から小さな笑いがさざなみのように広がる。

 僕は自分が笑わないよう気を付けながら舞台に上がる。卒業証書を受け取って学長先生に礼。振り向いて礼。このとき足を大げさにピシッと揃え、足元を強調。瞬間、会場は大爆笑に包まれた。

 ああ、よかった。でも何してんだオレ。晴れの場を自らネタにしてしまったことを後悔しつつ、舞台を降りる。

 そこで待ち構えていたのが担任のジン先生だった。

「アナタはもう。どうしてこんなにカワイイことをしてくれるのよ。あっはっは」

 なぜかいちばん喜んだのがジン先生で、勢いのままギュッとハグをされた。紙1枚の卒業証書よりも、はるかに嬉しい記念となった。

 ああ、よかった。よくやったオレ。

 翌日。

 僕らは7台の車でMTに繰り出す。全員が時間を揃えるのは難しかったので、先発隊、中発隊、後発隊、夜出発隊と分かれ、出発場所もバラバラ。この人数で(韓国人が)団体行動をしようと思うと並大抵の苦労ではない。

 僕らが目指した「アチムゴヨ樹木園」はソウル郊外の加平(カピョン)郡にある。

 韓国的な情緒を生かした樹木園として知られ、僕らにとっては名作映画『手紙』の撮影地としても期待の高まる場所であった。

 宿は樹木園近くのペンションを取った。山の中にあるキャンプ場のようなところで、樹木園のイメージに合わせ、木のテーブルやイス、たくさんの遊具が敷地内に点在していた。

 部屋は15人用の大部屋をひとつ。7人用の中部屋をひとつ借りた。人数を考えるとまったく足りていないが、僕らのMTには人数分のスペースがあることのほうが珍しかった。どのみち最後は酔っ払って雑魚寝。15人部屋に30人がみっちり詰まって食事をし、ゲームをし、酔っ払って身体をぶつけながら寝るのだ。

 分乗してきたチームがあらかた到着し、買い置きの食料が揃うと、まずは腹ごしらえから始める。夕食はいつも通りサムギョプサルだ。今回はそこにプデチゲ(ソーセージ入りキムチ鍋)や、ソヤボックム(ソーセージ入り野菜炒め)がついた。あとは焼酎が行き渡れば完璧だが、この日は少し自制の念が働く。

 僕の送別会を兼ねるということで、食事後にイベントが満載。普段とは違い、飲むだけではないゲーム大会も企画されており、その司会進行はなんと僕がすべて受け持つことになっていた。

最終章(3)に続く

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<おまけ写真>
ピンクのモコモコスリッパはその後、僕が初めて出版した本のプロフィール写真になった。

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