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韓歴二十歳 最終章(6)

コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
最終章(5)から続く
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 ◆

 新大久保でのアルバイトは衝撃の連続だった。

「ハッタぁ、パプチュゴク持って来い!」
「ぱ、パプチュゴクってなんですか?」
「パプチュゴクも知らないのか。これだよ」

 しゃもじだった。

 手渡されたしゃもじを持って料理長のもとへ行く。

「ハッタぁ、マッサル買って来い!」
「ま、マッサルってなんですか?」
「マッサルも知らないのか。これだよ」

 カニカマだった。

 近所の韓国スーパーへ走って同じものを買ってくる。

 飲食店で使う言葉は教科書に載っていないものばかりだった。厨房用具や食材名だけではない。調理用語、接客用語、業務関連の特殊な言い回しなど、アルバイトとして必要な語学力を僕はまったく持ち合わせていなかった。

 加えて、その店のスタッフは全員が慶尚道出身であった。

 割れたダミ声の料理長も、ぼそぼそ声の寡黙な副料理長も、やたら陽気で短気な店長も、キッチンスタッフ、ホールスタッフの全員が慶尚道弁で会話をする。僕が学んだのは教科書通りの標準語。伝えたいことは伝わるものの、返ってくるセリフを半分も理解できない。

 それでもスタッフの言葉を理解できないのはまだマシである。お客様の言葉を聞き取れなかったときはたいへんだ。

「すいません、韓国語がまだ充分でなく……」
「だったら充分な人をよこしなさい」

 ついポロッと言い訳したことを、そのあとずっと後悔した。お客様の前に出る以上はプロでなければならない。自分はこんなにも韓国語ができないのか。留学中に積み重ねてきた自信が、もろくも崩壊していく毎日だった。

 救われたのはダミ声の料理長を筆頭に、まわりがこぞってカバーをしてくれたこと。他の店も含めて新大久保の韓国料理店で働く日本人は珍しく、その意味でもかわいがってもらえたのはありがたかった。慣れるまでに時間はかかったが、韓国人に囲まれながら働くのは発見の連続であり楽しかった。

 そこはソウルとはまた違う韓国であり、明らかに僕のほうが外国人だった。

 採用されたのが深夜帯だったため、スタッフだけでなくお客さんもほぼ韓国人。歌舞伎町から流れてくる酔客を中心に、近隣で働く人たちも終わって飲みに来る。日本語で話す機会は皆無であり、働き方や店内ルールもみな韓国式だ。

 出勤したらまずまかないを食べる。全員が新大久保在住なので交通費の概念がない。店内のBGMはソリバダ(音楽共有サイト)。退勤後はみんなでPCバン(ネットカフェ)で遊ぶ。チャジャンミョン(炸醤麺)の出前を取ったら、食べ終えた皿にフェドッパプ(刺身丼)を盛って代金がわりとする。

 あまりに面白かったので僕はそれを近況報告としてまとめ、韓国にいる留学仲間に一斉送信でメールを送った。毎日が新鮮な驚きに満ちていたため、単発ではまったく物足りず、メールマガジンのように週1回定期的に送り付けた。

 タイトルは「週刊サメガレイ」とした。

 そこに深い意味はあまりない。当時、料理長が仕入れを希望し、連呼していた魚の名前が由来。適当もいいところだったが、この私的メールマガジンは仲間内からなかなかの好評を得た。

 それに気をよくして外向きに始めたのが、2001年3月21日創刊のメールマガジン「コリアうめーや!!」である。

 その第7号で僕は以下のように書いた。

――コリアン・フード・コラムニストを名乗ろうかと思っています。頭文字を取ってK・F・Cです。――

 某フライドチキン専門店から取った冗談のつもりだったが、なんとそれは現実のものになった。この直後、メールマガジンを読んだ留学雑誌の編集者から依頼が来て、韓国料理紹介のコラムを書いたのだ。

 コリアン・フード・コラムニストという肩書きはしっかり掲載された。

 物書きになりたいという夢は、留学記を仕上げる前に意外な形でかなった。タイミングもよかったのだろう。世間は翌年に控えた日韓共催のサッカーワールドカップに向けて、韓国への関心が高まり始めていた。

最終章(6)に続く

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