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韓歴二十歳 最終章(5)

コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
最終章(4)から続く
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 ◆

 勉強会が終わると、行き付けの居酒屋「梁山泊」に流れる。僕はいつまでも送別会をせびる迷惑者という扱いで、MTのように感傷的な雰囲気はなかった。最後にこうした日常の場に参加できるのは嬉しい。

 いつもの巨大なケランマリ(卵焼き)やコルベンイムチム(ツブ貝の和え物)がわっと出てくる。食べ慣れたというより、食べ飽きたと言えるぐらいによく食べたが、この日ばかりはすべてが名残惜しい。ゆっくり大事に食べようと思ったが、なんだかこの日は普段よりもみんなのペースが速い。

 平日なので朝まで飲むわけにはいかない。終電までの短い間で瞬発力を駆使して飲もうという雰囲気だった。僕も前のめりでグラスをぶつけ合ったが、途中でふと思い出し、カバンに入れてきたサインTシャツに着替える。MTに来られなかった人たちに、追加でメッセージを書いてもらおうと考えたのだ。

 Tシャツだけを回してもよかったのだが、どうせなら着こんで自分から回ったほうが、みんなと会話もできる。

 その姿を見て、店のアジュンマが声をかけてきた。

「あれ、なんだい。あんた日本に帰るのかい?」

 息子さんが九州で勉強していることもあり、留学生の僕にはずいぶん親切にしてくれた。

「卒業できたので帰ることにしました」
「韓国にいなよ。韓国のほうがいいでしょ。うちの息子も今度日本人の彼女を連れて帰ってくるのよ」
「へー、そうなんですか」
「そうだ。キムチあげるよ。日本にはキムチないじゃない」
「え、そんな。大丈夫ですよ」
「なに言ってるの。遠慮しなさんな」

 アジュンマは厨房に引っ込んだかと思うと、ひと抱えほどもあるタッパーを持って戻ってきた。それは楽にバスケットボールが入るぐらいのサイズであった。

「漬けたばっかりだからね。食べ頃になるまで少し待って食べるんだよ」
「こ、こんなにたくさんですか」
「なーに、大丈夫。すぐ食べられるから」
「食べられるかじゃなくて持ち帰るのに……」
「ああ、そうね。これだと飛行機に乗れないから包んであげよう」
「いや、その、あの……」

 完全帰国をする僕の荷物はただでさえ大量。しばらくキムチに困ることはなさそうだが、日本まで持ち帰るどころか、このあと寄宿舎まで帰るのにも苦労しそうだ。

 僕の心配をよそに周囲は拍手喝采。

「よかったな、日本でもキムチが食べられるぞ」
「毎日キムチを食べてこそ韓国料理研究家だ」
「しっかり持ち帰れよ。それが韓国人の心だ」

 韓国人の心……。

――そうか、これがいちばんの記念かもしれない――

 ずっしりとしたキムチは1年3ヶ月ぶんの重みがあった。

 その後、日本に帰った僕は年末の15日間を抜けがらのように過ごし、新年明けてすぐからは東京、新大久保でアルバイトを始めた。

 心機一転と言えば聞こえはよいが、それにはちょっとしたきっかけがあった。年末に忘年会を兼ねた帰国報告の会があり、そこで韓国語堪能なひとりの先輩が僕に言った。

「語学堂を卒業したくらいじゃなんの役にも立たないよ。韓国語ができる人は山ほどいるし、日本語のできる韓国人はもっと多いんだからね。韓国語を使って仕事をしたいなら、何か武器になるものを身に着けないとダメだよ。この分野だったら絶対の自信があるっていう何かを。話はそれから。全然まだまだ」

 確かに留学中も、語学堂の卒業が出発点とはよく聞いた。

 自分でも理解はしていたつもりだが、改めて面と向かって言われると少なからずショックである。卒業の晴れやかな気分にケチをつけられたようでムッとしたが、冷静になってよく考えると、それはやはり先輩の言葉通りなのであった。

 専門分野と言われたら僕には食の道しかない。

 一念発起した僕はその翌日に新大久保へ向かい、アルバイト募集の貼り紙を出していた韓国式刺身専門店に飛び込んだ。

最終章(6)に続く

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