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韓歴二十歳 第9章(6)

コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第9章(5)から続く
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 宴会当日。買い出しに出かけた僕は、新村駅前のグランドマートでサムギョプサルと丸鶏を購入した。当時サムギョプサル1kgが9000ウォンぐらい。丸鶏は1羽3000ウォンぐらいが相場であった。

 韓国にはタッカンマリ以外にもタッペクスク(鶏の丸茹で)や、トンダク(丸鶏の素揚げ)といった丸鶏料理が多く、需要が多いせいか、ときに驚くべき価格でのセールを行っていた。僕が見た最安値は2羽で3000ウォン。日本円でわずか300円、1羽150円である。これならタッカンマリが主食でもいいぐらいだ。

 寄宿舎の大鍋で丸鶏を仕込む。手間としてはたいしたことはない。丸鶏を洗って鍋に入れ、ザク切りした長ネギ、皮を剥いたニンニクとともに煮込むだけ。食べる直前にニラをどっさり投入するのが八田式ではあるが、これは汝矣島で食べたとき、つけダレに足すものを鍋に入れたら美味しかったからだ。

 ひと通りの準備が終わった日暮れ前。

 見計らったように客人たちが、各自飲みたいだけのビール、焼酎、マッコリを大量に携えてやってきた。庭で飲むにはやや寒い時期ではあったが、これだけの人数がいれば熱気で勝る。身体を寄せ合いながら、盛大かつ高らかに乾杯を叫び、寄宿舎の宴が始まった。

 メインのサムギョプサルがホットプレートに投入され、横に大量のサンチュが並ぶ。同時に三河シェフの特製料理1品目が運ばれてきた。

 ヒラメのカルパッチョである。

 韓国では肉よりも刺身が高級品。かつ自室の勉強机に備えられたエクストラバージンオリーブオイルは三河シェフの代名詞でもあった。

 温度も味のうちと、直前まで冷蔵庫に入れておく細やかさを見せたが、20人の飢えたオオカミたちによって13秒ですべてなくなった。

 三河シェフが大慌てで次の料理に取りかかる。

 2品目は出し巻き卵。卵15個を使用する巨大なもので、具はワケギだけとシンプルながら、ワケギの量が尋常ではなかった。

 そのどっさり具合が美味しさの秘訣と三河シェフ。全体にグリーンを帯びた美しい色合いの卵焼きが仕上がる。

「特製出し巻き卵です!」

 大皿を見た全員から歓声が上がり、40本の箸が皿上で火花を散らす。ひと口大に切って見栄えよくナナメに積み上げ、大根おろしを添えた入魂のひと品であったが、

 凶暴なハイエナたちの手によって実に56秒ですべてなくなった。

 三河シェフが呆然としながら3品目に取りかかる。と、そこで三河シェフと同室の木下さんが肩を叩いた。

「交代しましょう」

 そうだ。三河シェフはまだほとんど飲んでいない。宴席に合流してもらい、労をねぎらいながら再び乾杯をする。

 木下シェフはキッチンで中華鍋をガツンガツンと振りまわす。やがてできあがったのはサムギョプサルとキムチを流用した豚キムチ炒めである。同じ食材とはいえ、見るからに刺激的。20人の暴徒化したライオンがむらがって、これまた瞬時になくなろうとした瞬間、木下シェフの頭脳プレイが炸裂した。

「ごはん、食べる人いますか!」
「はーい」

 前もって炊飯器の最大容量である10合のごはんを炊いていたのだ。豚キムチ炒めにごはんとなれば、それは黄金の組み合わせ。飲んでいる途中であっても、そこにはあらがえない吸引力がある。

 木下シェフが大盛ごはんをどんぶりで配る。

 ごはんはサムギョプサルやサンチュとも合う。ひとしきり堪能すると、それまでの狂乱状態からふと我にかえり、なんとなく夕暮れを見つめながら談笑する雰囲気にかわっていた。腹が満たされれば心も落ち着くものだ。

 そこで僕らは2次会に移行する。なんてことはない。庭から居間に移動するだけだ。

 ひとしきり庭でサムギョプサルを焼いたあと、居間でさらにジリジリと長く飲むのが僕らの定番だった。夜はまだまだこれからである。

第9章(6)に続く

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