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韓歴二十歳 第9章(7)

コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第9章(6)から続く
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 居間に移ると中はオンドルが効いて温かく、身体がみるみるうちに精気を取り戻していくようだった。宴会の盛り上がりと寒さのせめぎ合いは、やはり日が暮れてくると寒さのほうに軍配が上がった。

 三河シェフが仕込んでおいたイカと大根の煮物を出す。僕は余ったサムギョプサルとキムチでチゲを作った。さすがにこの人数だと、作るそばからどんどん消費されていくのが嬉しい。

 アルコールも次から次へと空いてしまうので、僕は隠しておいた自家製のエンドゥ(ユスラウメ)酒を出すことにした。

 寄宿舎の玄関脇にエンドゥの木があり、6月に真っ赤な実をつけた。サクランボをひとまわり小さくしたような実は、そのまま食べても甘酸っぱくて美味しかったが、量がずいぶんあったので焼酎に漬けておいたのだ。特別なときのためにとっておいたものだが、まさしくそれが今夜であるように思われた。

 鮮やかなルビー色のエンドゥ酒は特に女性陣から好評であり、場の雰囲気もあって僕は必要以上に褒め称えられた。そのタイミングを利用して本日のメインを運ぶ。

「タッカンマリでーす」
「うわー、すごーい」

 テーブルの中央に大鍋をドンと置くと、期待通りの反応が返ってきて思わずほくそ笑む。この時点でもう鼻高々だが、その気持ちを抑えつつ、注目を集めてキッチンバサミを取り出す。

 丸鶏入刀。

 この瞬間こそが最大の見せ場である。これをやりたかったがためにタッカンマリを作ったとも言える。モモの付け根をバツン。手羽元のあたりをジャキン。じっくり煮込んであるので身は柔らかいが、

 関節の継ぎ目を見極めるのがやや難しい。専門店ほどスムーズにはいかなかったが、なんとか食べやすい大きさにはなった。器に取り分けて振舞うと……。

「うまい!」
「肉が柔らかいねえ」
「よく作ったなぁ」

 賞賛の声が飛び交った。調理法を尋ねる声もあったが、それには答えず、笑って受け流す。なにしろ大鍋で丸鶏を煮るだけ。あまりに単純なので、タネを明かしてしまうとありがたみがない。

 ひと通りの料理が全部出て、完全なる満腹になると、のんびりまったりとした雰囲気になった。酒は続けて飲んでいたが、途中のごはんがズシンときたようで、いくら飲んでも酔っ払うまではいかなかった。

 寄宿舎生は徐々に片付けを始め、客人たちは三々五々帰途についた。時間はいつのまにか12時を回っており、あたりはだいぶ冷え込んできていた。

 僕は空になったタッカンマリの鍋を見ながら、不思議となにか満足したような気分に浸っていた。エンドゥ酒の容器もすっかり底をついている。

 自分の中にあるやりたかったことや、身のまわりにあるものが、ひとつひとつ片付いていくことにホッとする感覚があった。きっと心残りはまだまだあるのだろうが、どうやら気持ちのうえでも、帰ることへの整理がつき始めているのかもしれない。

 数枚の小銭を手に、僕は寄宿舎の外に出る。

 日本の彼女に電話をしようと思ったのだが、携帯電話を解約してしまったので、大学敷地内の公衆電話まで行く必要があった。庭の温度計はマイナス10度を指している。僕にとっては2度目となる、身体の芯から凍えるソウルの冬がやってきていた。

 深夜にもかかわらず彼女はまだ起きていた。

「もしもし、卒業式が終わったら完全帰国するから。大学に戻るまでは3ヶ月以上あるからね。いままでのぶんゆっくり一緒に遊ぼう」

 思えば、その約束を果たせなかったことが、僕にとって大きな人生の転機であった。

第9章終わり、おまけコラム(7)に続く

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