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韓歴二十歳 第9章(1)

タッカンマリの章/寄宿舎に新風が吹くタッカンマリの宴◆帰国前に作ってみたい料理がある。それは丸鶏をそのまま煮込んだ豪快鍋だ。
コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第8章おまけコラムから続く
第1章(1)から読む

 ◆

9、寄宿舎に新風が吹くタッカンマリの宴

 寄宿舎にキッチンができて、僕らの自炊生活はますます豊かになった。居間のカセットコンロで煮炊きをし、洗面所を往復しながら料理を作る手間から解放された。

 他の寄宿舎生には内緒だったが、きっかけを作ったのは僕である。語学堂の2級時代に手紙を書くという授業があり、どうせ書くなら意味のあるものをと、その授業を担当していた教務課長宛に手紙を書いた。

――寄宿舎にキッチンがなく不便なので作ってください――

 これが思った以上に大きな話となり、語学堂の事務を巻き込んだ調査のうえ、居間脇の管理人室をキッチンに改装することが決まった。

 作業場を失った管理人の先生には申し訳なかったが、できあがったキッチンは僕らの予想を越えて立派だった。新品の流しに、食器棚、給湯器、換気扇がつき、作業スペースも広々として快適に料理ができる。

 月々のガス代が心配だからと、ガスコンロを買ってもらえず、居間のカセットコンロをそのまま流用することになったのは玉にキズだったが、それでも僕らはおおいに満足だった。冷蔵庫は以前より使っていた大きなものがあったし、みんなで買った炊飯器もある。料理をするうえでの不便はほぼなくなり、僕らはいよいよインスタントラーメン偏重の食生活から脱却するのであった。

 唯一、てっちゃんだけはその直前、

「もうインスタントラーメンだけの生活は嫌なのだ」

と叫んで友達のいるハスクに転がり込んだため、その恩恵には預かれなかったが、食事のストレスがなくなってだいぶ幸せそうだった。

 ほかにも寄宿舎の重鎮である黄さんが語学堂を卒業して去り、韓さんも就職をして出ていった。田辺さんは延世大学の大学院に進学したが、寄宿舎にはそのまま残った。いつのまにか新入りだった僕と田辺さんが最古参となり、重鎮である黄さんの跡を継いで、ふたり体制の寄宿舎長に就任したのだった。

 新しいメンバーも続々と入ってきた。

 わざわざ寄宿舎を選ぶだけあって金銭的な意味での自炊派が多く、新設されたキッチンがますます輝いた。中でも優秀な腕前を誇ったのが、タイ式マッサージの免許を持ち、大道芸人としての特技があり、前職はコピーライターという不思議な経歴の三河さんだった。

 料理といっても、なんとなくの日本料理と、見よう見まねの韓国風料理しか作れなかった僕らに対し、三河さんは入ってきた当初から、松前漬け、イカと里芋の煮物、ラタトゥイユ、ココナッツミルクを使った本格的なタイ式カレーと、まるで次元の違う料理を作った。

 三河さんは料理をするだけでなく、食材に対する探求心もずば抜けていた。韓国に来てすぐ、ろくに韓国語も話せないうちから、産地まで買い出しに出るほど活動的だった。

 とある週末、寄宿舎の電話を僕が取る。

「もしもし、三河です」
「どうしました? みんな寄宿舎で飲んでますよ」
「いま東海岸の束草(ソクチョ)なんですが」
「束草? なんでまたそんな遠いところに」
「コンブを買いに来たんですけど、宿が見つけられなくて。地方ではどういうところに泊まればいいですか?」

 活動的ではあるが、あまり計画的ではないようだった。三河さんからの電話はその後も、週末のたびに韓国各地からかかってきた。

 韓国人の友達がいないと、新村から出るのもままならない僕にとって、その行動力は驚異的だった。

 のちに三河さんは韓国でメディア関係の仕事に就き、駆け出しライターの僕に大きな道筋をつけてくれるのだが、この段階では行動の読めない鉄砲玉気質の新任料理長といった印象だった。

第9章(2)に続く

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