見出し画像

韓歴二十歳 第9章(2)

コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第9章(1)から続く
第1章(1)から読む

 ◆

 寄宿舎に新風が吹くのとは対照的に、僕は日本に帰るかどうか真剣に考える時期がやってきていた。季節はもう秋だった。語学堂のクラスも最上級の6級に上がり、この学期が終われば卒業である。

 卒業したらどうする。クラスメートの話題は身の振り方が多くを占めるようになっていた。韓国で就職するのか。または進学するのか。自分の国に帰るのか。帰ったらどうするのか。

 てっちゃんは韓国での就職を目指し、教務課長の先生に相談したり、ネット上の就職サイトで情報を集めているようだった。スヒさんと亜貴さんは、一定の希望者がいるときだけ開講される特別クラスの7級に通うことに決めていた。ヒョヌも日本での仕事はあるものの、しばらくは韓国に残るつもりとのことだった。大学や大学院への進学を決めている人もいたし、日本に帰る準備を始めた人もいた。

 僕はどうしようか。

 気持ちとしては韓国に残りたかったが、帰るべき明確な理由がいくつかあった。僕は大学を休学して韓国に来ているので、仮に韓国で就職しようと思っても、まず日本の大学を卒業しなければならない。それにはあと1年間大学に通う必要があったし、留学の名目である卒業論文を書かなければならなかった。

 ただ、その点に関して言えば、大学は4月からなので、あと3ヶ月だけなら韓国に残ることは可能だった。6級を終えて卒業するのが12月。1月からの冬学期を7級で過ごしたとしても、3月末には日本に帰れる。

 日常的な会話には困らなくなっていたが、専門的な話となるとまるで実力が足りない。韓国語の入口に立った段階で帰るのはもったいないと思えたし、比較的時間のある7級なら自分なりの勉強もできる。

 気にかかったひとつは日本にいる彼女とのこと。僕のワガママに1年3ヶ月も付き合わせてしまった以上、区切りのついた時点で帰るのは、今後の関係を考えても必要な誠意かと思われた。

 もうひとつは家庭の事情だった。

 実はこの留学中に父が亡くなった。夏学期と秋学期の間、僕が4級から5級に上がる6月の休みだ。病気が発覚したのは僕が留学に出た直後。それを知った時点で留学を中止しようかとも思ったが、父は息子の妨げになるのを極端に嫌い、帰ってくるなときっぱり言った。なので僕は3ヶ月ごとの休みを待って帰国し、授業が始まるころにはまた韓国へと戻った。

 それを考えると、最後に会話ができたのは幸運だったかもしれない。4級の終了式を終えた翌日、僕は日本に帰って病院に直行した。ようやく少し韓国語に自信を持てたころだったので、留学生活が順調であること、

 しっかり頑張っていることを伝えた。それが最後の会話となり、その2日後に父は帰らぬ人となった。

 最後に会話をしたとき、僕は父に黙って次の秋学期をキャンセルし、10月からの冬学期に再登録しようと考えた。次の休みまで持たないように思われたからだ。学期をひとつ飛ばしても3ヶ月の余裕はある。

 ところがその後が急展開だった。父が息を引き取り、通夜、葬式とすべて終えてみると、そのまま秋学期の始まりに間に合うタイミングだった。

「あんた、韓国に行ったら?」

 母が僕に言った。僕は迷っていた。日程的に無理ではないが、日本でいくらか整理をつけてからのほうが自然な気がした。

 だが、この奇妙な日程のめぐりあわせは、早く韓国に行けと言われているような気もする。母にではなく父にである。僕はひと晩考えて、留学生活に戻るほうを選んだ。

 その3ヶ月が最後になって余った。

 韓国に留まることもできたが、僕はやはり日本に戻るべきだと考えた。心情的には韓国にいたいが、当初の予定をきちんと終えたなら、もう胸を張って帰ってもよいだろう。今度は日本ですべきことをする番だ。

第9章(3)に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?