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韓歴二十歳 第9章(5)

コリアン・フード・コラムニストの八田靖史(はったやすし)が25歳のときに書いた23歳だった20年前(1999~2000年)の韓国留学記。
※情報は当時のもの
第9章(4)から続く
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 ◆

 寄宿舎で送別会の話が持ちあがった。僕のである。送られる立場となると嬉しい反面、気恥ずかしくもある。毎日顔を合わせる面々ゆえに、気持ちだけ頂戴し、かわりに派手な宴会をしようと丸めこんだ。

 宴会であれば自分でも料理ができる。せっかくなので僕らはそれぞれ身近な人たちにも声をかけ、寄宿舎を中心としたちょっと早い忘年会という形にした。寄宿舎生の友人をはじめ、友人の友人、同じ下宿の誰それといった形で参加者はどんどん組み入れ、総勢20名が寄宿舎の庭に集まることになった。

 僕はこの日、念願だったタッカンマリを作ることにした。

 タッカンマリとは丸鶏を煮込んだ鍋料理のこと。直訳すると「鶏1羽」であり、鍋に鎮座する丸鶏の見ためそのままがネーミングとなっている。初めて食べたのはビジネス街として知られる汝矣島(ヨイド)であった。日本語同好会の面々と汝矣島公園で遊んだ後、たまたま近くで入ったのがタッカンマリの専門店だった。

 僕にとっては初めて聞く料理だったが、韓国人メンバーにとっても馴染みのないものだったらしい。タッカンマリという直球勝負のネーミングにひとしきり笑い、

「トリイッピキ!」

と日本語が飛び交ったのを覚えている。

 だが、実際に食べてみると思った以上にいい。登場のインパクトもさることながら、大きめのキッチンバサミでバツンバツンと解体するのにも迫力があり、ぶつ切りになった鶏肉はつけダレとの相性がよかった。

 むしろつけダレの勝利と言ってよいのかもしれない。酢醤油をベースに、生のニラ、カラシ、タデギ(唐辛子ペースト)を混ぜ合わせると実によいアクセントとなった。ぶつ切りの鶏肉はまたたく間になくなり、残ったスープでカルグクス(手打ちうどん)を煮て食べるところまで僕らは夢中になって楽しんだ。

 あまりに美味しかったので、僕は自分でも作れないか寄宿舎で試してみた。

 いきなり丸鶏を買うのは自信がなかったので、手始めに手羽元5本で作ってみたが、味は似たようなものになった。ポイントはやはりつけダレであり、少し甘味のあるチンガンジャン(濃口醤油)を使うことでイメージに近い味となった。いずれ丸鶏で本格的に、と思っていたところにこの話。渡りに船である。

 寄宿舎での宴会は頻繁にやっていたが、準備を整えて人を招くのは久し振りだった。すっかり寄宿舎専属料理人のようになった三河さんとふたり、気合を入れて凝った料理を作ろうと計画を練った。

 メインはそれでもサムギョプサルである。それも寄宿舎式のサンチュ大量サムギョプサルが当時の定番だった。

 寄宿舎の庭では春から夏にかけて、管理人の先生がサンチュの栽培を始めた。ネコのひたいほどの狭い空間ではあったが、僕らもせっせと水やり、草取りを手伝ったところ、思った以上の豊作となって大量に収穫できた。むしろどんどん育つので、食べないと余ってしまうぐらいであった。

「収穫したからみんな食べろよ」

という先生の好意を無駄にはできず、一時期はいかにサンチュを消費するかが寄宿舎での重要課題になったぐらいだ。サラダや、サムパプ(葉野菜の包みごはん)にもしてみたが、庭でサムギョプサルを焼いて一緒に食べるのがいちばん手っ取り早かった。

「サンチュをメインに食べますからね」
「1枚だけじゃなく、5枚ぐらい重ねて包んでください」
「あっ、いまサムギョプサルだけで食べたでしょう」
「サンチュを食べてください、サンチュを」

 サンチュでギスギスする妙な宴会だったが、普段から野菜不足の寄宿舎生にとっては貴重な機会でもあった。

 冬になってサンチュ生活からは解放されていたが、庭でサムギョプサルを焼くとなれば、大量にサンチュを用意しないと、なにやら気持ちが落ち着かない僕らであった。

第9章(6)に続く

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