友人との会話がきっかけで出会えた古典、「蘭亭集序」が教えてくれたこと。
「蘭亭集序」を読んで、人生の喜び、対話することの大切さ、記録することの意味、表現することの価値、諸行無常のこの世の中にある「不変」。こんな事を感じました。そこに行き着くまでの成り行きは、ここから書いていこうと思います。
僕の考え事
色々と最近自分は思い悩んでいるというか、考えているんです。時間があるからこそのありがたい考え事だと思います。
頭の中は、こんな感じです。
とある日の帰り道
先日、友人と夕方に待ち合わせて、深夜まで飲んでいた日がありました。久々に会えてとても楽しかった時間でした。友達と分かれたその後は「深夜の罪深マック」が食べたくなって1人でマクドナルドへ。限定の北海道じゃがバター味のバーガーセット(飲み物はスプライト)を完食しました。
食べている間も、帰り道もどこか寂しくて、この世を彷徨っているかのような感覚が強かったです。上の日記の内容とどこか似ていました。でも、今回はある友達に話を聞いて欲しいと連絡をしました。自分でも上手く言語化出来ない「感情の洪水状態」だったけれど、その友達は一緒に座って僕の言葉をしっかり受け止めて、共感出来る部分はしてくれて、「そんなとき、自分ならこう考える」という考え方を共有してくれました。気付けば午前四時近くでした。
友達へのメッセージ①
こんなメッセージを送りました。
友達へのメッセージ②
そこから少しチャットでやり取りをしていて、自分はまたこんな事を送りました。
※今はまさに「書く」という自分自身との時間。
そこからまたチャットで話していると、友達は、一つの文章をオススメしてくれました。その内容が、非常に好きだったので、この「文章との出会い」までの流れを文章にして残しておきたい、表現しておきたい。そう思って今はパソコンに向かっています。
ここからが肝心の、その友人オススメの文章です!👇
蘭亭集序(書き下し文)
永和九年(三五三年)癸丑(みづのとうし)の歳、五節句の一つ、上巳の日である三月三日に、會稽山の山陰(山の北側:ここでは地名でもある)にある私の別荘、蘭亭に詩仲間が参集して、曲水の宴を催すこととなった。上巳の本来の目的は、沐浴して除災祈福することにある。今日のこの日、幸いにして、年寄りから若者まで、多くの友人が集まってくれたのが何とも嬉しい。
私の別荘、蘭亭が存在するところは、高い山には険しい峰が聳え、森には木々が生い茂り竹が伸び、また、清流が激しく流れたり、川辺を映していたりする。私の別荘、蘭亭はその清流を引いて、曲水の宴の場としている。そこで、皆は曲水の周囲に並んで座り、作詩することになる。今回の酒宴では、音楽を奏でるようなことはしないけれども、参集した皆は、曲水の宴のしきたりに従って、盃(さかづき)を受けては詩を作る作業をするので、心の深奥を速やかに表現するには十分なのではないか。
この日、幸いにして空は晴れわたり、空気は澄み、春風が穏やかにのんびりと吹いて来る。仰いでみると空の広さが何処までも望めるし、周囲を見回すと春の息吹を実感する。今日のような天気が私たちに春の園遊に駆り立て、私たちに人生の思いを述べさせようとするのであって、今日の天気とこの曲水の舞台は、まさに作詩に相応しい。心から、今日の曲水の宴を楽しんで欲しい。
そもそも、人がお互い仲良くこの世に生きて行くには、心に抱く様々な思いを気兼ねなく部屋の中で述べ合ったり、詩とか絵に託して、身体の外にさらけ出すことが、どうしても必要になる。人の生き方は人それぞれで、皆違うけれども、少しでも人と共通するところがあれば人は誰でもそれを喜ぶし、少しでも人に納得するところがあれば人はそれに満足して、年を取るのも忘れてしまう。しかし、人生長く生きていると、それに飽きてしまい、人の心情は世事にかまけて、本来の人情を忘れてしまう。若い時に感じていた人生の喜びも、年を経るに連れて次第に色褪せたものとなってしまう。それでもなお、人は思いを述べたり、表現したりすることを止めることはできない。それほど表現することは人生にとって重要なことである。まして、人生とは長い短いの差はあっても、最後には誰もが死に至るのである。古人の言葉に「死生もまた重大事である」とあるけれども、これほど痛ましいことはない。
昔の人の書いた感動の一文が、私たちを感動させて止まない。そのわけを考えてみるたびに、何時でもみな符丁を合わせたように見事に一致しているのに驚く。私たちはそれらの感動の一文を見るたびに感動せずにはいられないし、その感動は、何時までも自分の心に響き、抑えることはできない。
もとより、生と死は同じだと言うのは虚偽の説であって、長命も短命も同じだと言うのは出鱈目であることを、私は知っている。生は生であって、死は死に過ぎない。生を大事にしない人が、どうして死を大事にすることができようか。
今、ここに生きていて感動し、その生の感動をここで表現することが諸君に求められていることは言うまでもない。将来、後世の人が、私たちが催す蘭亭の集いの記録を見るのは、それはまた、やはり、私たちが、昔の人の文を見て感動するようなものであるに違いない。それは極めて悲しいことでもある。そういうわけで、私はここに参集なさった人々の名を列挙し、皆が作詩したものをここに記録する。世の中が変わり、事物が異なることになったとしても、人が感動する所以は、決して変わるものではない。後世、この蘭亭の集いの記録を見る者は、間違いなく、この文に感動してくれるに違いない。
さいごに
ここ最近の考え事に対して、答えの一つ、その中でもとても考え抜かれていて、洗練されていて、説得力がある内容を示してもらえたような気がしています。
冒頭でも書いたように、こんな事を感じました。なんだか、とても力強い文章で、元気づけられた気がしています。
皆さんにも、この感情を共有したくて。心に抱く様々な思いを、身体の外にさらけ出すことがしたくて。文章を書くという形で思いを述べ、自己表現をしておきたくて。それを通して少しでも共通するところを見つけて、喜んでほしくて。
こんな思いでこのnoteを書きました!響く人に響いてくれたら良いなと願ってます。でも、期待はし過ぎず、あくまで自己満足で。
最後まで読んでくださってありがとうございます!また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋
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