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ありがた迷惑と思うな!感謝の言葉のありがとうを伝えた上で断る勇気を持てば良い!

まずはnoteさんありがとうございます!(^o^)/
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これ、この記事のことですが早速の対応に感謝です!ありがとう!


・・・っていう流れに乗っかって、今回はありがとうを話題にした記事を投稿しますね。🤣

ではさっそく参ります。

断りたいのに相手のことを考えるとなかなか断れないとか、せっかくの厚意を無にしてはいけないからと、自分の本当の思いとは別の行動をとってしまい、それがストレスや鬱々とした気分の原因になっている人、いませんか?

いますよね、絶対に。😅

今回の記事はそんなことに対する処方箋・・・になればいいかな、と。

何かのお誘いや、オススメ商品の情報提供として他の人からオススメを受けたときに、ありがた迷惑だと思っていてもなかなか断れないのは、相手との関係を悪くしたくないという意識が働くからだと思います。

そういう点では相手との関係を大切にしているように見えるけど、実際のところはギクシャクしたりゴタゴタに巻き込まれたくないという、事なかれ主義の意識が、目の前の事態を無難にやり過ごすように命じているように思えるのですよね。(^_^)b

自分の素直な思いとは別に、社交辞令としての「ありがとう」を言っているものだから、その「ありがとう」の感謝の言葉にしても、素直に相手に響きにくく伝わりにくいわけですね。

この「ありがとう」という感謝の言葉を、ありがた迷惑という思いと切り離して、相手の善意と厚意の行動に対して感謝する「ありがとう」を言えるようになれば、ストレスの元にもなりにくいし、ありがた迷惑の思いも湧かないと思うのです。

ありがた迷惑と思うのではなく、ありがたい善意・厚意と受け止めさえすれば問題は解決します。(^_^)b

そのありがたい善意・厚意を、そのまま行動に移すかどうかはまた別の問題ということですね。

相手が示してくれた善意・厚意を、いったんありがたく感謝して受け取るのです。

そのうえで、相手の善意・厚意を元にして行動を起こすかどうかを、自分で判断して決めれば良いということですね。

結果的に相手のオススメどおりに行動しなかったとしても、行動しなかった理由を添えたうえで改めて相手の善意と厚意に対して、ありがとうという感謝を述べれば良いだけなんですよね。(^_^)b

そこまでしても無理強いしてくる相手というのは、善意・厚意の気持を超えてただのお節介ということになるので、聞き流しておけば良い話です。

あまり余計な心配をしなくても、相手の善意や厚意に対して心を込めて感謝したならば、その感謝の思いは必ず相手に届くと思いますよ。

要はその感謝の思いに、心を込められるかどうかっていうところが肝心なんですけどね。🤣


つい先日の話ですが、感謝することが、感謝できることが才能だ、という記事を読ませていただきましたが、その【習慣応援家 shogo】さんの意見に同じ思いでした。

【習慣応援家 shogo】さんの記事はこちらです。^^


感謝することって大事なことですもんね。(^_^)b

人に何かを勧めてもらったり、良かれと思って他の人から行動を促されたときに、これを断ったら角が立つとか申し訳ないという気持から、断りにくいという思いが先に立つんだけど、これは日本人特有の感じ方のようです。

でもあれこれ考えずに、相手の厚意に対してまず「ありがとう」を言えば良いだけのことなんですね。

相手の勧めるとおりに行動を起こすかどうかは、また別のこととして切り分けて、相手の厚意に対する感謝を伝えることが大切だと思います。

オススメを断りにくいというのは、日本人の行動原理が「善意」を基準にしているからで、断ったら相手の善意を踏みにじる行為になる、といった思いが強いからだと思います。

特に島国という閉鎖的な住環境の中で文化を育んできたからか、狭い意味での身内意識を持っていて、同じ身内である以上は善人に違いない、善人であるべきだ、という暗黙知みたいな共有意識があるからだと思うのです。

だから日本という狭い国で生きていくのに、性善説を前提とした人間関係が当たり前だったから、相互の関係をギクシャクさせずに助け合いながらある程度秩序のある社会を、現代まで維持して来られたのではないかと。

最近でこそ外出するときには、都会だけでなく地方においても必ず鍵をかけるようになったけど、昭和の時代に少しさかのぼれば、施錠しないままの家が多かったのですよ。😅

私の幼い頃から中学・高校までの記憶を辿っても、友人の家を尋ねるときにその家が無人であっても、家の入り口の引き戸や扉には施錠なんてしていませんでした。

そうそう、玄関と言えるような区劃自体が無い家がほとんどでしたしね。😅
引き戸を開けたら土間があるだけとか、いきなり茶の間か台所につながっているような、生活感にあふれた空間があるだけというのは農家でも町家でも同じでしたね。

もちろん立派な玄関を備えた家もありましたが、その家は地元の名士や分限者と目されていた富裕な家で、大概は玄関無しのいきなり土間っていう家が多かったです。

まぁね、家の入り口をすべて玄関と呼ぶのなら、どの家にも玄関はあったわけですが、式台を備えた出入り口という玄関の定義に照らすと、あれは玄関じゃ無かったと思いますね。🤔

ま、昭和の時代も前半の頃はそんな家ばかりでしたが、みんな心はそんなに貧しくなかったと思うのですよ。

そういう無施錠で暮らすことができたのも、日本人特有の同じコミュニティに属する身内には悪い人はいないという、性善説のゆえだと言い切ってもそう間違ってはいないのではないかと。

実例で言うと、商家の貴重品をしまってある金庫代わりの引き出しなどに鍵をかけるのでは無く、開けたらすぐわかるように、和紙で封印をする習慣があったそうです。

これは貴重品の入っているその引き出しや扉を、開けられないようにするための物理的な施錠の替わりに、開けてはいけないという良心に訴えるという心理的な施錠になっていたわけですね。

まさに性善説での論理になると思うけど、信頼し信頼されることや道徳観の上に立った、してはいけないこと悪いことを封じるために、その気があればすぐ破いて開けられるような和紙の封印でも、役に立っていた時代があるという事実が、日本人の「善意」を前提とした行動規範になっていたことがわかりますよね。(^_^)b

話が逸れちゃいましたが、こういう日本人の特性のような行動規範・行動原理が、オススメされたら断りにくいという状況を作り出すんだと思います。

他の人からオススメされたことを、そのまま受入れることが美徳なわけじゃないのでそこを勘違いせずに、相手に対して感謝の気持で接することとそのオススメに従うか、別の行動をとるかは自分で決めたら良いのです。(^_^)b


その点では日本人と違って西洋人の多くは、それぞれの利己主義に対して寛容であるという特性を持っています。

オススメに対してもそれが行動に値するかどうか、決定するのは自分でありオススメした側もそれを当然としているので、相手がオススメを断っても関係がギクシャクする事態にまで発展しないのではないでしょうか。

そういう寛容な利己主義の見ならうべき点を取り入れて、自分の行動は自分で決めるという自分らしい生き方を目指したいもんですね。🤗


ってことで、今回は
ありがた迷惑と思うな!感謝の言葉のありがとうを伝えた上で断る勇気を持てば良い!」という善意・厚意に対する処し方の話題でした。(^_^)b
※見出し画像のイラストは、メイプル楓さんからお借りしました。


では!

感謝する  才能磨き  のほほんと


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