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秀吉/信長「波太神社/鳥取神社」素晴らしくレアな神「林昌寺」【大阪泉州シリーズ】

「波太神社」の拝殿にビックリ!石清水八幡宮風味で、鳥取氏のレア神社は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が本陣を構えたり、焼き討ちしたり、様々な歴史が詰まった神社だった。
あと、「鳥取神社」も見逃せないし、「林昌寺」もどうぞ!

変更履歴
2023/06/01 初版

▼HP、アクセス、祭神・本尊と脇時

※後述の「▼見どころ」参照。

▼見どころ

▽波太神社/鳥取神社:大阪府阪南市石田167

 延喜式に記載された式内社で、鳥取大宮・波太神社と称される。
 日根郷と鳥取郷の総社で、鳥取部の祖「角凝命(ツノコリノミコト)」を祀ったのが起源とされる。本殿は三間社流造の重文。

 なんか神様の名前を見ていると福井・氣比神宮と繋がっていると思ってしまったのは私だけ??

→一の鳥居から参道

→摂社・末社「厳島神社」

 参道の途中に市杵島姫命を祀る。

→参道

→摂社・末社

→拝殿・本殿@重文

天正5年3月2日 織田信長 波太神社に布陣
天正5(1577)年2月3日、織田信長は京都を出立して和泉(いずみ)を南下、22日には信達(しんだち)に陣を置き山手と浜手に分かれ更に南下を続けていきました。
山手には佐久間右衛門信盛(さくまうえもんのぶもり)・羽柴筑前(はしばちくぜん)・荒木摂津守村重(あらきせっつのかみむらしげ)・堀久太郎秀政(ほりきゅうたろうひでまさ)らが山中から雄山峠(おのやまとうげ)を越えて進軍、雑賀の内へ乱入し端々まで焼き払いました。堀は小雑賀川(こざいかがわ)を挟み対峙(たいじ)した敵方に攻め入るも、岸が高く攻めきれず退却を余儀(よぎ)なくされ、先陣の通行を守るために紀ノ川の渡り口に陣が敷かれました。
一方、浜手には滝川左近一益(たきがわさこんかずます)・惟任日向(これとうひゅうが)・惟住五郎左衛門(これずみごろうざえもん)・筒井順慶(つついじゅんけい)らが、さらに信長の子息である織田信忠・信雄(のぶかつ)・信孝、信長の弟である信包(のぶかね)も参加し、淡輪口(たんのわぐち)から更に三方に分かれて山や谷に分け入りました。28日、信長は淡輪まで進軍。雑賀一揆はこれを見て中野城を放棄、同月晦日(みそか)に淡輪を出立(しゅったつ)。3月1日に滝川、明智、丹羽らに鈴木孫一(すずきまごいち)の城を昼夜問わず攻めさせました。3月2日、信長本人がどの方面にも動きやすいように鳥取郷(とっとりごう)の若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)に本陣をすえました。この陣で信長は堀らを小雑賀、紀ノ川に続く山手に陣取らせました。その後、鈴木ら雑賀の7頭目(とうもく)は降伏(こうふく)、3月21日に信長は陣を払い京へ戻っています。
この時の行軍の記録は、織田信長の家臣、太田牛一(おおたぎゅういち)が信長の行動を記した『信長公記(しんちょうこうき)』巻10に見ることができます。

https://www.city.hannan.lg.jp/kakuka/syogai/syogai_s/bunkazai_shokai/bunkazai_arekore/1428385351558.html
  • 中世には荘園としての鳥取ノ荘にあたる

  • 鳥取、あるいは鳥取部は『古事記』にも登場する古い名称

  • 『八幡宮来由記』によると、日根郡鳥取郷に居地を持っていた天湯河板挙は、垂仁天皇の皇子に鵠(くぐい:白鳥)を献じ、鳥取姓を賜った

  • その後、天湯河板挙は波太邑(桑畑字奥宮)に社を建て、祖神・角凝命を祀った

  • 鳥取氏はカミムスヒの子に相当し、天湯河棚命はその末裔のようだ

  • 地区名より畑宮・波太宮(はたのみや)と名づけられた

  • 初めは角凝命を池のほとりに祀った小さな神社であった

  • 八幡宮を合祀し、応神天皇を祀るころより「波太八幡宮」の名で呼ばれる

  • 神功皇后、武内宿彌、天湯河板挙命を祀るにあたり次第に整備され、「波太神社」と称するようになる

  • 波太神社の左にある鳥取神社は寺社併合の際、阪南市内の寺社を次々と合祀する

  • 元は山中に存在した馬目王子神社で、八王子山の八王子神社、山中渓の山中神社が合祀された

  • 山中神社は熊野詣での人々が健脚い参拝されており、足神様と呼ばれていた

  • 1380年代、兵火のために焼失

  • 南朝方であった鳥取氏は山名氏清に攻められ滅亡した

  • 残された同氏の耆宿は波太村より、当地に移し、貝掛の指出森より八幡宮を勧請し、相殿に合祀した

  • 「信長公記」によれば、1577年に、織田信長の紀州雑賀攻めの時に本陣を置いたところとか

  • 1585年、豊臣秀吉は根来方とみなし「根来攻め兵火」で焼失

  • 1600年、豊臣秀頼の命により片桐旦元が修復を加えた

  • 再建後、江戸幕府は波太神社は豊臣方とみなされ、家康の命により焼き討ちされる

  • 1638年、誤解を解き、本格的に再建された

 水鳥を捕らえて天皇の食材とする鳥取部の人が移住し氏神を祀ったのが波太神社の起源なんだそうな。ここには「天湯河板挙」という豪族がいたようで、鳥取氏の祖「角凝命」を祀ったのが始まりです。

垂仁天皇の第1皇子・誉津別命は30歳になっても口がきけなかったが、鵠(くぐい、白鳥)が飛ぶのを見て初めて話すことができるようになった。
天湯河板挙は垂仁天皇の命で、出雲で鵠を捕らえて献上した功により鳥取造となり、鳥取部・鳥養部・譽津部を定めた。

 鵠と言えばこの2社ですね。

 えっ・・とびっくりした拝殿ですね。中央に本殿、左に末社・三社がある。この拝殿に楼門がある様式は京都・石清水八幡宮と同じデザインである。

 織田信長の紀州征伐の本陣が置かれ、豊臣秀吉、徳川家康により2度の焼き討ちを経験する。。。現在の本殿・社殿は1638年に再建されたもの。

 拝殿前の石灯篭。慶長五年(1600年)とあり、豊臣家重臣・片桐且元が寄進したものといわれている。

 角凝命を主神とする波太宮と、と応神天皇を祀る八幡宮の二宮がある。奥の社紋からもわかるかと。

→本殿左「三社」

 三社の本殿は中央に「王太神」、左に「若宮」、右に「今宮」と書かれており、神様はそれぞれ「神功皇后」、「武内宿禰」、「天湯河板擧命」である。
 若宮って主祭神の御子神なのでタケノウチノスクネって・・どういうこと??主祭神の応神天皇と武内宿禰は逆??(まっ、次に行きましょう)

 1638年に建立され国の重要文化財に指定されている。

→波太神社から鳥取神社

 ちなみに、下の写真ですが「波太」ではなく「波多」としています。たぶんこの神社すぐそこまで海で波が多かったのではないかと思ってしまう。男神社もしかりで、住吉大社なんか今は内陸部になっているが、明示的に近くまで海だったことは分かっているので、ここもそうなのかも。が、波多氏なのかな。

→摂社「鳥取神社」

 本当は鳥取神社に先に参拝した下の写真のところから出て波太神社に行くのが良いルートかと思います。下鴨神社と河合神社の関係に似ているのかも。
 鳥取神社の祭神は「天忍穂耳命」のようですね、意外・・・。鳥取神社は波太神社の摂社だが、波太神社は鳥取郷の総社として鳥取大宮と呼ばれた時代があるそうな。

 左が「鳥取戎神社」右が「鳥取神社」です。元は紀州街道は山中の宿の山中神社に祀られていた。山越えをする旅人たちが健脚を祈願したことから、今も「足神さん」として信仰が篤い。

  左の「鳥取戎社」の祭神は「蛭子」ことヒルコですね。


→やぐら祭り/伊勢大神楽(7月30日)

▽林昌寺:


▼旅行記

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