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完全制覇!謎多し「氣比神宮」越前一之宮・北陸総守!神宮神職が参拝「奥宮・常宮神社」書院・庭園「西福寺」【福井シリーズ】

『古事記』では、武内宿禰に連れられた応神天皇はイザサワケと名の交換をしたと記す。角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケ@氣比神宮祭神が現れて名を交換するよう告げられたそうな。応神天皇が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、応神天皇が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があったとさ。

 朝廷から「北陸道総鎮守」とされ、大陸との交易や畿内守護の要衝地として、古事記にも気比の名が残されている。確かにこの凹みと位置は船の休みどころになるかなと。イコール物流の要で、ここを制するのは大事ですよね。
 さて、この神社ですが色々古社とのつながりがあるので、先に私が記したNOTEを紹介しておきます。本文中にも貼っているので、詳細が知りたい(マニアック?な)方は参照ください。雰囲気だけでよい方は写真だけどうぞ。

本NOTE補足
2017年頃から神社整備されています。写真は2017年より前と2021年以降が混在しています。

変更履歴

参拝履歴
2013年ごろ?、2021年、


▼HP、アクセス、祭神・本尊と脇時

※後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

 景勝地「気比の松原」とセットですね。静岡県の三保の松原、長崎県の虹の松原と共に日本三大松原と呼ばれている。

▽氣比神宮(福井県敦賀市曙町11-68)

 越前國一之宮。地元の方は「けいさん」の愛称で親しまれる。主祭神は伊奢沙別命で、食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般の神。
 氣比大神に八幡系(仲哀、応神、神功皇后、タケノウチスクネ)、ヤマトタケルという豪華メンバー!

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 記紀にも登場する古社で、仲哀天皇の行幸・参拝祈願があるとか。皇族とのこの繋がり気になる。

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 正面入り口の大鳥居は『厳島神社』『春日大社』と並ぶ日本三大鳥居と言われ、国の重要文化財である。

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 まずは左に導きの神が登場します。ひとまず、公式HPの境内案内を見ながら、読んでいただければよいかと。
 内側から外へ振り向いた写真。

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→摂社・末社:猿田彦神社

 まずはサルタヒコを祀る神社から。てっきり古社なので伊勢神宮内宮、出雲大社、大神神社などと同じく祓戸神社から始まると思ったのだが、ここは違う。ちなみに社ですが、日吉神社などにある神猿の彫刻がされていたのが面白い。もしかして・・。

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→長命水

 気比神宮のパワースポットとして人気のある『長命水』。大鳥居から参道を進めば二の鳥居のすぐ手前に見えてきます。亀の口から湧き出ている霊水は、地元民からも信仰されていて「この水を一口、年の初めに飲めばその年は健康でいられる。」などという言い伝えもあるそうです。

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→拝殿・本殿

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 北陸道総鎮守・越前国一之宮。『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。

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 本殿には古くからこの地を守ってきた「伊奢沙別命(いざさわけのみこと)」とし、別名「気比大神」または「御食津大神」としている。祭神は第14代天皇「仲哀天皇」、仲哀天皇の皇后であり滋賀に腰を下ろしていた息長氏の「神功皇后」を祀る。

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 主祭神・イザサワケは『気比宮社記』では「保食神」とも記され、食物神としての性格を持つことを指す名称。敦賀が海産物朝貢地であったことをから、神宮の祭神は当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であるとも。一方、『日本書紀』に出石神社の新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。また、神功皇后は、出石神社の祭神の末裔であることからも正しい気がする。

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 本殿周辺に摂社・末社四社がある。宮東殿宮に「日本武尊」、総社宮に「応神天皇」、平殿宮に「玉姫命」を祀る。玉姫命について、『気比宮社記』では神功皇后の妹・虚空津比売命とする。西殿宮では魅惑の謎に包まれた史上最強の官房長官「武内宿禰命」を祀る。記紀を知る人は「ほお~」と思わせる神社。

九社之宮・神明両社から本殿を見ると本殿周辺の四社が少し見える。

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 やっぱ八幡系ルール(造語)である本殿左に「武内宿禰(タケノウチノスクネ)」の社になっている気がする。

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 『古事記』では、武内宿禰に連れられた応神天皇はイザサワケと名の交換を行ったと記す。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられたそうな。応神天皇が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、応神天皇が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があったとさ。

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→摂社・末社:九社之宮、神明両社

 本殿左側から社務所に向かうと摂社末社が集まった場所がある。由緒もきっちり書いているので、写真を参照で。ちなみに、本殿はこちらの奥から見れます!!
 公式HPに詳細に説明があるので、正確な由緒は公式HPをどうぞ!

 では、ここから写真と公式HPの由緒などから感想文です。他の神社との繋がりが色々ありますよね~。

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では、写真の下に各社の感想など書きます。

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 伊佐々別神社(いささわけじんじゃ)の祭神は本殿の荒魂のようです!個人的なお願いはこちらで!ということで、本殿は和魂のみなのでしょうね。

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 擬領神社(おおみやつこ)は武功狹日命(たけいさひ)という神様で大美屋都古神とも云う。ということで、スサノオの息子・イタケルとか。


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 天伊弉奈彦神社(あめのいざなひこ)の祭神は天伊弉奈彦大神(アメノイザナヒコ)らしい。正直、初めて知る神様ですね。熱田神宮もそうなのですが、力強く、その地の開拓に貢献し、クニを作った豪族は摂社・末社に大事にされているところが日本の良いところだと思う。大陸文化は勝者が敗者を飲み込み、時には歴史を断絶させるべく、抹殺することが多いと思っているので。これは島国であることが常時攻められる!という危機感が薄かったことが関係しているのだろうが。

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 天利劔神社(あめのとつるぎじんじゃ)の祭神は天利劔大神。仲哀天皇が参拝し宝劔を奉納したようだ。つまり、応神天皇が生まれる前に仲哀天皇はお隠れ(崩御)したので、元々、繋がりがあったということか。仲哀天皇は香椎宮あたりでお隠れになり、応神天皇を身籠った神功皇后が三韓討伐で海を渡る。戦勝して帰国し応神天皇が生まれる。
 そして、本NOTE冒頭の謎の名前変更(入れ替え)が行われた・・崇敬者が多いと公式HPは記載されているが、崇敬者はこの謎の入れ替えに関係する末裔なのではないかと疑ってしまう。

香椎宮
武内宿禰が応神天皇を抱いた像。実は、応神天皇の父は仲哀天皇ではなく、武内宿禰では説がある。という意味で、この像は意味深である。

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鏡神社は現在の北九州にここから移動し、夫・仲哀天皇と落ち会ったとされる。そのときに訪れたということだろう。

公式HPより
神功皇后角鹿に行啓の際種々の神宝を当宮に捧げ奉った。其の中の宝鏡が霊異を現わされたので別殿に國常立尊(くにのとこたちのみこと)と共に崇め奉り天鏡宮(あめのかがみのみや)と称え奉ったと云う。慈悲の大神として知られる。

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 林神社の祭神は林山姫神(ハヤマヒメ)を祀る。延喜式の越中國礪波郡林神社と同体らしい。その後、「林神社の霊鏡を請ひ比叡山日吉神社に遷し奉った。即ち当社が江州比叡山氣比明神の本社である。」とのこと。
 参拝したけど、見つけていないな・・違う日吉??

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 金神社には鉄の神様かなと思っていたが、素盞鳴尊(スサノオ)だったので意外・・。公式HPには『垣武天皇延暦23年8月28日、僧空海当宮に詣で、大般若経1千巻を転読求法(てんどくぐほう)にて渡唐を祈る。嵯峨天皇弘仁7年に復び詣でて当神社の霊鏡を高野山に遷して、鎮守の杜とした。即ち紀州高野山の氣比明神はこれである。』とある。
 ああ~繋がった!「壇上伽藍:御社(明神社)」ですね。

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劍神社(つるぎ)の祭神は「姫大神尊(ヒメノオオカミ)」。って、ヤマトタケルやスサノオじゃないんだ・・。

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伊勢神宮の内宮・外宮から勧請したとのこと。祭神は天照皇大神(内宮)と豊受大神(外宮)です。
本殿右側に回り込みます。

→本殿右側:松尾芭蕉、神水苑(庭園)

 『奥の細道』に「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊に晴れたり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶ほ明夜の陰晴はかりがたしと、あるじに酒すすめられて、けいの明神に夜参す。」とあり、「けいの明神」が気比神宮です。これに因んで、気比神宮には芭蕉像と、この時芭蕉が詠んだ句碑が建てたらしい。

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→摂社・末社:角鹿神社、コノ宮、大神下前神社

 気比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者・海人族であり、一説には角鹿国造の氏族ともいわれる。
 敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳が残るが、その副葬品には被葬者と朝鮮半島の深いつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。

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↑角鹿神社

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 境内の東側に位置し、御祭神・都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)が祀られているのが「角鹿神社(つぬがじんじゃ)」。

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 「日本書記」には崇神天皇時代の出来事で、朝鮮半島の大加羅国の貴人で、額に角があったというツヌガアラシトが訪れたと描かれている。角鹿神社はこのツヌガアラシトを祭神とし、ツヌガアラシトは地域首長である角鹿国造家の祖ともされている。後に角鹿氏の社家が、京都に在住する大宮司に代わって気比社の社務を担ったいた。
 つまり、元々はここの祭神の人たちがこの地域を開拓したのだと思います。

↑兒宮(このみや)

 「大神下前神社」の右手にあるのが、「兒宮(このみや)」。伊弉冊尊(イザナミノミコト)を祭神とし、平安時代の986年に遷宮された事が残され、その以前からの鎮座が明らかとなっている。

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↑大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)

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 「大神下前神社(おおみわしもさきじんじゃ)」が鎮座している。祭神はオオクニヌシの別名「大巳貴命(オオムナチノミコト)」で。元々は「気比神宮」の北東に位置する天筒山(てづつやま)に鎮座していたが、こちらに移築した。「大神」という神社名と神様の名前から奈良・桜井市の大神神社との繋がりも感じる人もいるかな。私はそう思ったんですよね。。

→古殿地

古殿地と言えば旧社殿場所で、伊勢神宮の場合、古殿地が20年に一度左右で変わりますが、ここや伊勢の猿田彦神社、熊野本宮大社などの古殿地は変わりません。

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 って、学校のグラウンドの真ん中やないかい(笑)

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→最後に、公式HPや宮司のお話が聞ける動画などをどうぞ!

→例大祭

公益社団法人福井県観光連盟より

▽奥宮:常宮神社(福井県敦賀市常宮13-11)

 敦賀半島を少し北に行ったところにある神社。かつては気比神宮の摂社だったそうです。地元では「お産のじょうぐうさん」と呼ばれ親しまれている。
 神功皇后がここで応神天皇を安産したことから、安産の神様として崇められている。神功皇后は、気比神宮の祭神・仲哀天皇の妻であるため、常宮神社は気比神宮と夫婦とされ、常宮神社は奥宮といわれており、今でも気比神宮との共同祭りがある。

 気比神宮の奥宮と呼ばれる神社だけあって、社宝「朝鮮鐘(新羅鐘)」は国宝である。大分県宇佐市の八幡本宮「宇佐八幡宮」にもあるらしいが、宇佐の鐘よりも古いらしい。とどこかで知ったのですが、文禄・慶長の役で持ち帰ったものらしく、秀吉の命により常宮神社に奉納されたらしい。

福井県立敦賀高校商業・情報経理科の動画をどうぞ!

 おっと、祭神は、「天八百萬比咩命(常宮大神)」、「神功皇后」、「仲哀天皇」です。

▽西福寺(福井県敦賀市原13-7)

 良如上人によって開かれた浄土宗の寺院です。見所は極楽浄土を表現したといわれる書院庭園です。

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本堂左には阿弥陀堂がある。有料拝観すると堂内に入ることができ、見仏可能。

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 国の名勝に指定された1400坪の広さを有し、紅葉時には極楽浄土を思わせるような絶景を見ることができるそうです。

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▼旅行記(▼セットで行くところ)

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