見出し画像

阿曇族!君が代ルーツ「志賀海神社@福岡」⇔「穂高神社@長野」大遷宮で志賀島砂が使われる

綿津見神社・海神社の総本社「志賀海神社」は阿曇族の神社!なぜか内陸の「穂高神社」にも腰を下ろす!この神社2つを行くことで、阿曇氏つながりだと分かった。

変更履歴
2023/05/21 「
2023/05/21更新」でこのページ検索
2022/01/23 初版

▽志賀海神社⇔穂高神社

 先にオチを言うと「穂高神社で、20年に一度の大遷宮の時には、土台に志賀島の砂が使われる」そうだ。そして穂高神社に行くと「やはりそうなんだ・・」と思わせる、いや、明示的につながりを示していた。神社には土地名と神様で歴史の流れと繋がりがわかるのが面白さの1つかも。

穂髙神社 権宮司 のインタビュー
当社が御祭神に仰ぐ穂髙見命は海神族の祖神であり、その後裔(こうえい)である安曇族は、古代九州北部で栄え海運をつかさどっていました。早くから大陸方面とも交渉を持ち、高い文化を持つ氏族だったようです。その安曇族と関係の深い穂髙神社では、こんな山の中なのに海の文化を見ることができます。

また、海神の総本社である「志賀海神社」とは、毎年小・中学生の交流を行っています。ちなみに、「志賀海神社」の宮司さんの名字は「阿曇」さんです。

https://skima-shinshu.com/azumishi/

 志賀海神社が鎮座する志賀島は「しかのしま」と読み、漢委奴国王の金印が発見された場所として有名。浦島太郎伝説が伝わる「二見岩」もあり、まるで竜宮城を彷彿とさせます。島の先端にある勝馬海岸は「福岡市内にこんな青い海が!」と驚く人も多い、美しいビーチもある。

▽由緒見比べ

画像7
画像61

↓2023/05/21更新------------
 この繋がりは何なのだろうか?一説にはヒスイを求めた説があるが、継体天皇時代に「磐井の乱」で負けたのでここで逃げたのでは?という出雲の国譲り風味な説もある。また、安曇氏は天皇の食事係もしていることから鮭を取りにここに腰を下ろしたとも。ただ、どうやって中央に持っていたのか・・船だよな・・。シンプルに海部は船が必要なので、材料になる真っすぐな巨木を得るためなども説としてある。
↑2023/05/21更新------------

▼HP

▼アクセス

志賀海神社:福岡市東区志賀島877
穂高神社 :長野県安曇野市穂高6079

▼祭神

志賀海神社:綿津見三神
穂高神社 :穂高見命・・・・・綿津見三神の子、神武天皇の叔父神

穂高神社公式HPより「穂高見命」
海神族の祖神であり、その後裔である安曇族は北九州方面に栄え主として海運を司り、早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。

・中殿:穂高見命(ほたかのみこと)
・左殿:綿津見命(わたつみのみこと)
・右殿:瓊瓊杵命(ににぎのみこと)
・別宮:天照大御命(あまてらすおおみみこと)
・若宮:安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)
・相殿:信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎)

▼見どころ

▽志賀海神社

 「君が代」の歌詞は万葉集からいただいたとの認識だったが、この神社で年2回行われる神事「山誉め祭」の神楽歌の冒頭と全く同じ詞が歌われているため「君が代」の起源だとする説もある。

志賀海神社の山誉祭の神楽歌
君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という
花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや
志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな

 海神の総本社と呼ばれ、海上交通の要衝とされる博多湾の総鎮守として、古くから信仰されてきた歴史を持つ。創建は明らかではないが、古くから島北側に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社があり、そのうち表津宮を現在の地・勝山の中腹に遷座したと伝えられてる。

 ↑山之神社

広い駐車場に車を置き、急な階段を上がると末社「山之神社」がある。ご祭神は大山津見神で、主祭神「海の神」とは間逆の神様が参上!もしかして、海幸・山幸??

画像3


画像4

楼門というか山門?をくぐると境内には「烏帽子石」と「陰陽石」があった。

画像5
画像6

↑拝殿・本殿

画像8

 ご祭神は「底津綿津見神」「仲津綿津見神」「表津綿津見神」の3柱で、いわゆる「綿津神三神」。 拝殿の隣にある鹿角庫にも注目で、これは神功皇后が三韓出兵のときに対馬で鹿狩りをし、帰還後にその角を奉納されたのが始まりだそうだ。その後、武将や権力者が奉納をし続け、1万本を超える鹿の角が納められている。たぶん、この鹿の角は古社に多い生贄の儀式の名残なのではと思う。

画像9

 筥崎宮にもあった「御潮井(清め砂)」が拝殿前にある。ここでの参拝方法は、手水舎と似た作法で、砂を左右の腕に降り、2礼2拍手となっている。

画像19

1600年に黒田長政によって造営されたものである。

画像12
画像24

↑遥拝所、亀石

画像10

 本殿右側には遥拝所がある。遥拝所の多くは伊勢神宮内宮・外宮を指していることが多いのだが、ここは違う。神功皇后が三韓征伐の際に、無事凱旋できるように海神・阿曇磯良丸(あづみのいそらまる)を通じて祈願したところ、海から雄雌の黄金の亀に乗った神々が現れ、航路を守り導いたと伝えられています。後にその亀が、石になって志賀島の海岸に流れ着き奉納されたことから「亀石」としている。
 もしかしたら、香椎宮から志賀海神社を通って、神功皇后は三韓征伐に向かったのか。人々はここで見送ったのかもしれない。

画像11

↑摂社・末社

本殿裏には摂社・末社が並んでおり、八百萬神を祀っている。どうも、この地域の神社が廃れたきた神社の神様を合祀していったようだ。

画像13
画像14
画像15
画像16

病気平癒のご利益があるとされる末社「磯崎社」には出雲コンビのスクナヒコとオオクニヌシの別名オオムナチとなっている。

画像17
画像18
画像20
画像21

↑今宮神社

 ラストの社の名前でびっくりした。まさかの「今宮神社」。。えっ。。京都で好きな神社の一つで、こんなところにあるとは??という感じだ。
 この地域は安曇氏の本拠地で、宮司は今でも安曇氏の末裔であるそうだ。ということは京都・今宮神社は安曇氏なのか??最後に安曇氏と言えば長野・穂高神社で、20年に一度の大遷宮の時には、土台に志賀島の砂が使われるそうだ。

画像22
画像23

↑おまけ:金印公園

画像25

 1784年に、漢委奴国王と記された金印が志賀島で発掘されました。 発見されたとされる場所に作られたのが金印公園です。こちらは志賀海神社から徒歩で約23分程(車で約5分)の場所にあります。 目の前に広がる博多湾、こちらも絶景ポイントなのでぜひ訪れて欲しい場所です! 発見された金印は国宝に指定されている為、福岡市博物館に展示されています。

画像26
画像27

▽穂高神社

 境内にある「穂高神社略記」によると 安曇族は、北九州に起こり海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。    その後豊かな土地を求め。いつしかこの地に移住した安曇族が海神を祀る穂高神社を創建したと伝えられている。

画像58

 信州の中心である安曇野市穂高に鎮座。奥宮は穂高連峰の麓の上高地に祀られており、嶺宮は北アルプスの主峰奥穂高岳に祀られている。
 この神社は古社でお馴染みの20年ごとに式年大遷宮祭と20年に2度行う小遷宮祭がある。祭神は「穂高見命」で、北アルプス穂高岳の麓に奥宮・嶺宮がある。古代豪族・安曇氏の神社である。

画像62
画像59
画像30


画像43
画像49

 石上神宮など由緒ある神社に多い日本鶏が境内をテクテク歩いている。ちなみに安曇氏は海族であり、朝廷の武を司る部族である。出雲族(オオクニヌシの次男坊・タケミナカの諏訪大社)を監視するためここに構えたか?鉄を輸入するため、製鉄に必要な巨木を得るためにここに腰を下ろしたかは、気になるところ。

画像50
画像31
画像51
画像52

・中殿:穂高見神(ほたかみのかみ)
・左殿:綿津見神(わたつみのかみ)
・右殿:瓊瓊杵神(ににぎのかみ)
・別宮:天照大御神(あまてらすおおみかみ)
・若宮:安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)
・相殿:信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎) 

 社伝によると、神代の昔に人跡未踏の穂高岳に、祭神・穗高見神が降臨し、重畳なる中部山岳を開発。さらに梓川流域の安曇筑摩地方を開拓したという。

画像32
画像53

↑孝養杉

 拝殿の前に樹齢500年という杉の木があり、昔その杉の木にお参りしたら難病が治ったと言われる。

画像54
画像55

欅の隣に神馬社があります。

画像48
画像42

↑摂社・末社

 来るたびに境内では鶏が鳴いている。上高地に奥宮があり、穂高山頂に嶺宮がある。境内には鹿島社、八幡社、秋葉社、扼神社@スサノオ、若宮社、四神社(スクナヒコ、オモカネ、ホンダワケ、ヒルコ、サルタヒコ)、保食社、子安社@コノハナ、事比羅社、八坂社など摂社・末社も多い。

画像56

では個別に紹介!

画像33
画像34


画像35


画像36

若宮社
 摂社・末社で一番目立つ若宮社。祭神は安曇連比羅夫命と信濃中将となっている。
 大錦中阿曇連比羅夫は、662年に天智天皇の命を受け、船師を率いて百済王子・豊璋を百済に護送救援し王位につかせた将軍で、信濃中将は御伽草子のものぐさ太郎のモデルとのこと。

画像37
画像28
画像29

 樹齢500年超の大きな欅で天然記念物。川端康成・井上靖・東山魁夷が揃って参拝した際、若葉繁るこの欅を絶賛し、後に井上靖はこの欅をモデルに小説「欅の木」を書いています。

画像41
画像60
画像38

絶世の美女コノハナサクヤヒメを祀る子安社。

画像39
画像40
画像47

↑健康長寿 道祖神

 日本一大きいステンレス製の夫婦道祖神。2013年に長野県が日本一の長寿県となった記念に作られました。手を触れて、家族の健康長寿を祈念します。

画像57

↑宝物館

 穂高神社駐車場入り口に宝物館があったので入った。館内では御船祭に使用される山車や穂高人形、奉納された絵馬などが展示されている。古代日本の部族で皇族に仕えたことがわかる。

画像44

 福岡・志賀海神社の宮司は安曇氏の末裔で、ここ安曇野と繋がりが強いことは知っていたが、穂高神社でもその旨が記されている。
 歴史がつながった・・。

画像45

穂髙神社 権宮司の話
もともと九州北部の志賀島(しかのしま)を本拠地にしていたが、海を移動し山へ。安曇野を流れる穂髙川を遡るサケを追って、移住してきたとも考えられている。
こうして、海の文化を山へと持ち込んだ安曇野族の独特の文化が、安曇野の地には今も残っている。安曇野族の祖神(おやがみ)「海神(わたつみ)」を、ご神体としてまつる穂髙神社を訪れてみる。

画像46

 そして、ここの祭りの風景写真が多く展示されていた。京都・大江山に残る「酒呑童子(しゅてんどうじ)」の演目が定期的にされている。一説には酒呑童子は八岐大蛇の子孫とされ、出雲からスサノオに敗れて丹波に落ち伸びた大蛇が、その地の豪族の娘と契りを交わして生まれたという。ここも出雲繋がりがあるのかも。いや、元々は出雲族の地でそこに大和朝廷が入った。そこに安曇氏に監視・管理を任せたのかも。

↑安曇野神竹灯

▽穂高神社嶺宮 ※未参拝

▽穂高神社奥宮 ※未参拝

▼セットで行くところ(▼旅行記)

・志賀海神社


・穂高神社

----
#やんまあ
#やんまあ旅行記
#やんまあ神社仏閣
#神社仏閣
#神社
#神社巡り
#仏像
#磐座
#御朱印
#志賀海神社
#穂高神社
#神社仏閣
#神社
#磐座

#長野
#安曇野
#福岡
#福岡市東区

#安曇
#阿曇
#君が代ルーツ
#志賀海神社
#福岡
#穂高神社
#長野
#志賀島
#綿津見神社
#海神社
#穂髙見命
#福岡市
#綿津見三神穂高神社
#ニニギ
#山誉め祭
#君が代
#山之神社
#烏帽子石
#陰陽石
#底津綿津見
#仲津綿津見
#表津綿津見
#綿津神三神
#鹿の角
#御潮井
#清め砂
#亀石
#阿曇磯良丸
#香椎宮
#神功皇后
#三韓征伐
#八百萬神
#磯崎社
#スクナヒコ
#オオクニヌシ
#オオナム
#今宮神社
#金印公園
#穂高神社
#奥宮
#穂高連峰
#孝養杉
#鹿島社
#八幡社
#秋葉社
#扼神社
#若宮社
#四神社
#保食社
#子安社
#事比羅社
#八坂社
#コノハナサクヤヒメを祀る子安社
#道祖神



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?