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人間ぎらいだった私へ0)はじめに

 こんにちは。やまのうえのきのこです。はじめましての方も、またお会いできた方も、お元気でいらっしゃるでしょうか。

 前作の、ひきこもりや不登校の当事者に向けて書いたお手紙、「K君への手紙」シリーズを書き終えて、ああ、やれやれ、わたしの社会に対する役目は果たした、もう終わりだと安心していたのですが、しばらく休んでいる間に、今度はわたしの「人間ぎらい」について書きたくなってしまいましたので、再び筆をとった次第であります。

 「人間ぎらい」ってなんなの、ってことについては、本編で詳しく書いていきたいので、ここでは言葉の意味を深く考えずに聞いてほしいのですが、じつは、わたしは「人間ぎらい」だったのです。それも、筋金入りの。
 そして、それが、ついこの間、なんていうのかな…。落ち着いたんです。直った、といいますか。「人間ぎらい」が直りました。だから、人間ぎらい「だった」という、過去形なのです。
 いや、そんなこと急に言われても…。そもそも、「人間ぎらい」ってなんなの? どうやって直ったの? 「人間ぎらい」が直ったってどういうこと? とか、いろいろ突っ込みどころがあると思います。
 これについて的確に、簡潔に、説得力を持って説明するのは、なかなか難しい仕事だと感じています。なんでしょうね、2000字のレポートにまとめてしまうことも、できなくはないけど、それだとどうしても軽薄で、嘘っぽくなってしまいそうで…。

 なので、長くはなってしまいますが、ここはひとつ、自伝を書いてみようと思ったのです。というのは、わたしがどのような家庭で生まれ育って、どのような子どもで、どのように生きてきたのかを書いていけば、自然と、わたしという人間の中に、「人間ぎらい」が育っていく過程も、「人間ぎらい」とは一体なんなのかも、そして、どのように「人間ぎらい」と決別するに至ったかも、一挙にあきらかにできるからです。
 よわい26歳にして自伝を書くなんて、馬鹿げている、自伝なんてのはもっと年を取って、大成してから書くものだよ、と、ご親切にもこの「若造」をたしなめてくださる方もいらっしゃるかもしれません。でも、人間はいつ死ぬか分かりませんから、まあ、書けるうちに書いちゃえばいいんじゃないでしょうか。書く気分になった時に書く、というのも、大事なことですし。機を逃さない、というのでしょうか。
 ということで、ちょうどいま、まとまった文章を書く時間があって、体力も、まあ、元気はつらつではないけど、とりあえず起きて普通の生活ができる程度には充実しており、さらに、ちょうど長年つきあってきた自分の中の「人間ぎらい」について、一区切りついたような気がしているので、まあこのタイミングで自分の人生を振り返ってみてもいいんじゃないかなと思ったわけです。

 そうですね…。こないだ書いた、ひきこもりがテーマの一連のお手紙は、フィクションということにして書きましたが、本当のところ、自分自身についての記述は、ほぼ事実なんですよね(すべて、だと思うのですが、ちょっと自信がないので、「ほぼ」にしときます)。だから、前作を読んでくださっている方にとっては、重複する部分もあるかと思いますが、そのへんは、ご理解いただけるとありがたいです。

 そして、これから書こうとしている自伝ですが、これは、当事者研究としての側面も持ち合わせていると思っています。
  急な質問ですが、みなさん「べてるの家」って聞いたことあります? ご存知でも、ご存知でなくても構わないのですが、精神障害で困っている当事者の方々が集まって、活動していらっしゃる自助グループです。そこがですね、通常の自助グループと全然ちがって、当事者性を大事にしているといいますか…、社会でふつうに生きている人たちのルールに合わせてコミュニティを作っているのではなくて、当事者の方々にとって過ごしやすい新たなコミュニティを作ろうとしているというか…。まあ、本で読んだことしかないんですけど、当事者さんも支援者さんも、とても楽しそうなんです。(まあ、いろいろうまくいかないこともあるみたいで…最近は悲しいニュースも聞きましたが…)
 ちょっと話が逸れました。ええと、ですね。その「べてるの家」で、盛んにおこなわれているのが、「当事者研究」なんです。つまり、病気って、ふつうだったら、専門家の方…そうですね、お医者さんとか、臨床心理士の方とか、カウンセラーさんとか、そういう人が、患者さんを見て、この人はこんな病気だ、あんな病気だ、こうしたらいい、ああしたらいい、と色々おっしゃるわけじゃないですか。病気で困っている当事者の方は、見られる対象であって、当事者の方が「平気だよ」って言っても、隣にいる専門家の方が「この人は心の病気です」って言ったら、みなさん専門家の言うことのほうを信じてしまう。でもですね、その病気のことをいちばんよく知っているのは、やっぱり当事者なんですよね。朝から晩まで、病気と付き合って、病気が引き起こすいろいろな症状も、全部じぶんの身で経験するわけですから。
 もちろん、当事者だからこそ、冷静に観察できない部分もあると思います。そのことは承知の上です。ですが、やはり、専門家が知ることができないこと、研究しようとしてもできないことを、当事者は知ることができるわけです。「客観性」ではなく、「主観性」をウリにした研究…、当事者ならではの研究です。

 当事者研究では、自分の病名を決めることも、自分で行います。だって、考えてもみてください。自分が苦しんでいる色々な状況を説明して…、その挙句に、「統合失調症ですね」とか、「うつ病ですね」とか、「適応障害ですね」とか言われたところで…。なんの役に立ちますでしょうか?
 もちろん、お医者さんのお役に立ちます。そして、支援にあたってくれる専門家グループの中で、その診断名が共有されれば、次の支援策についての、作戦も立つというものです…。学校や職場にも、そのように報告できますし。そういう意味では、めちゃくちゃ役に立っています。社会生活において、他者とのコミュニケーションにおいて。
 でも、自分にとっては? なんの役に立ちました? 診断名をもらって、自分の生きづらい「理由」が分かったような気がして、ちょっとスッキリしたかもしれませんね。それから、その病気について、いろいろ調べました? こんな症状がある、治るのに長くかかる、予後がわるい…。などなど、いやなこともたくさん書いてありませんでした? そういうの、調べれば調べるほど、不安になるし、自分がなんとかっていう病気の患者だというアイデンティティが強まっちゃいますし…、一時的にはスッキリしても、長い目で見るとあんまり…と、わたしは思ったんですけど、どうでしょうか。
 それに、病院を変えたら、結構カンタンに、ほかの診断名をもらったりしますね。精神科に行くか、カウンセリングに行くかでも、ちがいますし、専門家の方のクセというか、好みというか、そういうので、診断名をいろいろもらいます。わたしも、そういう本を読むのが趣味だったので、いろいろ読みましたが、自分に当てはまる名前がたくさんありました。「統合失調症」、「うつ病」、「愛着障害」、「回避性パーソナリティ障害」、「自閉症スペクトラム障害」、「HSP(ハイリ―センシティブパーソン)」、「過剰適応」、「社交不安症」…ほんとうにいろいろです。ちょっと前は「AC(アダルトチルドレン)」って言葉も流行りました。こういうのって、流行がありますね。いま、さすがに、お医者さんによって、診断名がコロコロ変わるのはおかしい、ってことで、「DSM-5」っていうんでしたっけ、アメリカで開発された、精神疾患の診断マニュアルですね、そういうのを使って診断することで、誰が診察しても同じ診断が出るように工夫してきてはいますけど…。
 でも、結局は、他人の決めたものさしによる診断です。わたしはそれが気に食わない。どうして、わたしのことを何も知らない他人が、ほんのちょっとの質問に対する回答だけをみて、わたしのことを判断するのでしょうか。5分や10分…あるいは1時間、会っただけで、わたしのなにが分かるのでしょうか。その診断名は、どのような経緯で開発されたものなのでしょうか。わたしにそれを当てはめる理由は、正当性は、どうやって見極めればいいのでしょうか。
 結構ですね、精神医学とか心理系の、知識の蓄積を勉強するのは、好きなほうなんです。でも、それを勉強すればするほど、それに対する違和感も大きくなっていきました。結局は他人から見た自分じゃないか、と。借り物の言葉で、自分のことをいくら説明しようとしても、それは、いろんな服で自分を着飾るのと同じです。それは、決して自分自身ではなく、なんとなく自分に似合っているように思うものを、いろいろ集めているだけに過ぎないのです。

 だから、自分を説明する、自分自身の言葉を作ることから始めるんです。「ふつうの」他人が、「へんな」自分を説明するために作った、既成の言葉を使うのではなく。

 わたしの「病名」は、「自分ぎらい」です。これから、それがどんな「病気」なのか、どうやってその「病気」を治していったのかを、自分の人生を語りなおすことによって、明らかにします。こういう研究手法です。

 まわりくどい説明ですみません。そして、めちゃくちゃ面倒くさい人間だな、ってことが、もうこの文章からもお分かりかと思います。
 そうです。わたしは、「面倒くさい」人間なのです。これから、面倒くさい人間が、面倒くさい話をしていきます。そういう話に付き合いたくない方は、聞いていただかなくて大丈夫です。そういう方は、きっとポップでライトな人生を、軽やかに渡っていくことでしょう。そういう人たちに、わたしの文章は必要ありません。
 ですが、人生にいきづまった人、社会に適応するのにうんざりしてしまった人、わたしと同じく人間ぎらいの人、そういう…ポップでライトな人生を送っておらず、これからも送る予定のない人には、ひょっとしたら、わたしの文章がなにかのお役に立つかもしれません。
 あと、身近にそういう…ちょっと厭世的な人がいて、どうやって付き合ったらいいか分からなくて苦労していらっしゃる人にも、ぜひ読んで頂きたいですね(笑) 参考になるかもしれません。

 さて、前置きはこのくらいにしておきます。
 それでは、次回から、「人間ぎらいだった私へ」の本編を書き綴っていきたいと思います。どんな連載になるのか、どれだけ続くのか分かりませんが、とりあえず始めていきましょう。

 それでは、どうぞお付き合いください。


                        やまのうえのきのこ

(※追記)
 今まで有料(100円/1記事)で公開していましたが、少なくとも連載中は、すべて無料公開することにいたしました。この機会にお読みいただけると嬉しいです^^


(↓↓ 「K君への手紙」シリーズ ↓↓)
ひきこもり・不登校についてご関心があれば、よかったらこちらもどうぞ^^

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シリアスな内容が含まれているので有料にしております。ご了承ください。

「人間ぎらい」だった私が、「人間ぎらい」を克服していく自伝的な書き物です。 5000字程度の記事20本くらいで完結の予定…だったのですが、…

もしもわたしの文章に、少しでも意義や価値を感じて頂けたら、サポートしてくださるとありがたいです!