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私が子どもだった頃◇家族で銭湯通い

「あなたはもう忘れたかしら、赤い手拭いマフラーにして、二人で行った横丁の風呂屋」この曲をご存じですか。南こうせつとかぐや姫の「神田川」1973年に大ヒットした名曲です。
当時の、大学生の下宿は、風呂なしのアパートが多かったので、同棲していた男女がこうして仲良く銭湯に行くのは当たり前の光景でした

昭和の大ヒットドラマ「おかみさん時間ですよ」は、下町の銭湯に集う人間模様を笑いと爽やかな涙で綴ったコメディタッチのホームドラマでした。人々のコミュニケーションが豊かだった昭和の時代の銭湯は、生活の中の特別な場所だったように思います


私が子どもの頃の銭湯は、家族の思い出につながります。

昭和30年から40年くらいまでは、2日に一度くらい、家族で銭湯に通っていました。

今は、廃業するところが多く銭湯の数も昔に比べて少なくなっていますが、その頃は、銭湯が近所にいくつもありました

私が住んでいた地域にも、数件あって、時々違う銭湯に行って気分を変えていました。

銭湯と言えば、夏の記憶が鮮明に残っています。夕方になると家族で、ムームーなど気軽なファッションで下駄やつっかけ履きで銭湯に出掛けます。私は大好きな父と一緒に、妹を真ん中にして手を繋いで、たわいもない話をしながら、銭湯に行く道中が好きでした。時々、父と二人で左右から妹を持ち上げて遊ばせていました。妹はケラケラ笑っていました。

銭湯の入口で、「ゆっくりねー」と言いながら入りますが、いつも父が、一番最初に出て、外で風にあたっていました。

銭湯の番台近くには、自由に取り出せる飲み物用の冷蔵庫が置いてあって、そこでリンゴ牛乳やコーヒー牛乳を飲むのが楽しみでした。もちろん、腰に手を当てて、ゴクゴク飲むのです。渇いた喉に、まろやかな甘さがたまりませんでした。料金は番台で払います。

父は、濡れたタオルを首からぶら下げて、「気持ちよかったなー、天国、天国」と、下駄を鳴らしながら夜風にあたって、ご機嫌で帰っていました。

あの頃を思い出すと、何故か父の顔が浮かびます。
母は、私たちの後ろからついてきていました。

母にとっての銭湯への道中は休息の時間だったのかも知れません

私が子どもだった頃は銭湯が家族のこの上ない癒しの空間でした。



【毎日がバトル:山田家の女たち】

《銭湯はコミュニケーションの場所じゃった》


リビングでリンゴを食べているばあばとの会話です。

「あの時代のお風呂は1日の楽しみやった、気持ちが良かったんよー、銭湯までの道中で、家族のコミュニケーションができたんよ」

「勉強のことや、友達のこと色々話よったわい」

「他の人とのコミュニケーションの場でもあったねー、裸のつきあいよねー私は月を眺めてねー1日の安らぎじやった

「お父さん、お風呂が、本当に好きじゃったねー」

私たちの銭湯への思いは尽きません、銭湯は子どもの頃の本当に懐かしい家族の思い出です。


【ばあばの俳句】


夏の朝今日もいつものストレッチ


何でも続けるのは母の性格です。毎朝のベッド体操とストレッチも日課です。自分自身の体を整えるために欠かせません。



雨の日も、お出かけしない日も母のストレッチが日々続きます。続けるエネルギーは本当にすごいです。イラストの通りばあばの足はあまり上がりませんけれど・・・・。


▽「ばあばの俳句」「毎日がバトル:山田家の女たち」と20時前後には「フリートークでこんばんは」も音声配信しています。お聞きいただければとても嬉しいです。

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また明日お会いしましょう。💗

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